第6話 脱げない彼女

勢いよく振り抜かれた彼女の右手が、僕の左頬を目掛けて飛んでくる。

僕は反射的に目を閉じて、歯を食いしばり、全身の筋肉を硬直させる。


非力な女性だからといって、勢いよく頬を叩かれれば痛くないわけがない。

しかし、来るはずの痛みはいつまでたってもやってこなかった。


「……え?」


恐る恐る目を開けると、彼女の右手はすでに振り抜かれた後だった。

卓球でスマッシュを打ち終えたときのようなポーズのまま、彼女が僕に問いかける。


「今、私がなにをしたか分かった?」


「えっと、僕を平手打ちしようとした、のかな」


「そう、思い切りいったわ」


「いや、でも、何も感じなかったけど」


「そうね」


どういうことだろう。

また僕は彼女の話についていけなくなる。


「私は、この世界のものに触れることができないの」


「え?」


「きっと私が幽霊だから、干渉できないルールなのね」


いやいや。


「きっとこの服と靴は、死ぬとき身につけていたものかもしれない。だから脱いだりできないの」


まさか。


「だから私には、ドアを開けることもできないし、本のページをめくることすらできない」


彼女はいたって真剣で、嘘をついているようには見えない。

僕は恐る恐る手を伸ばして彼女の指に触れようとする。

僕の手が、彼女の手をすり抜けて、重なった。

まるで彼女の手が、実態のない映像のようだ。


「あなたを殴るなんて、もってのほかね」


そう言って、彼女が肩をすくめる。

ようやく、彼女の言葉が現実味を帯びる。

もしかしたら彼女は本当に幽霊なのかもしれない。

実際にこの目で見たのだ。反論の余地などない。

唖然とする僕を見て、彼女はちょっとだけ得意な顔をした。


「どう?これで分かったでしょう」


この状況を頭では理解しきれていないが、信じるしかない。

彼女はきっと、本当のことを言っている。

僕は黙って彼女にうなずく。


「じゃ、これでようやく本題に入れるわね」


彼女は僕から視線を外し、ベッドに腰掛ける。

よく見ると、ベッドに敷かれた布団は綺麗なまま、彼女の座っている部分が沈み込んでいない。

そう言えば、彼女の足音や、床のきしむ音なんかも聞こえなかった。

彼女の体重が軽いとかいう問題ではなさそうだ。


彼女は姿勢を正すと、ゴホンと咳払いをひとつしてから僕に言った。


「えっとね、私、しばらくこの家に一緒に住んであげるわ」


「は、はい?」

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