月影文乃

 世界は繊細な糸に紡がれてできている。

 世界を織り成す糸はとても綺麗で、ときに残酷。

 世界の全てを繕う糸は、そして儚い。


 スカイツリーの展望エリアからの眺めはまさに、壮観の一言に尽きた。

 我に返った文乃は、隣で微笑ましそうにこちらを眺める友人の視線に気付き羞恥に顔を染めた。それを見て友人——折原おりはら加奈かなの表情は一層に緩んだ。

 文乃と加奈との仲は、小学校入学よりも前へと遡る。出会った日から今日までずっと親友であり続けている。

 ふと、視線が空へと移る。真昼の空に浮かぶいつもよりも薄っすらと青白い月が目に入る。欠け月はいっそうに朧気で、その儚さに心を掴まれてしまう。

「明るいうちに見える月ってさ、綺麗だよね」

 自分が向ける視線の先に気付いた加奈の言葉に頷いて同意を示す。

「でも、月ってさ……ちょっと怖いよね」


 目が覚めると、そこに親友の笑顔は無かった。

 非保護対象者たちが身を寄せて隠れているシェルターと呼ばれる施設の防衛に辛くも成功を収めた文乃は、予想以上に疲弊していたのか、いつの間にか自意識が遠ざかってしまっていたことを自覚する。

「心葉、損害は?」

「施設損壊ナシ、軽症者五名、敵戦力を考慮すればこれ以上に無い程の戦果です」

 良かった。胸を撫で下ろす。

「あんた、どういうつもりなんだ?」

 息吐く間もなく、怪訝そうな男の声が迫ってくる。向けば、ずいぶんと粗末な格好の男性の凄んだ表情があった。

「特異者がどうして非保護対象の俺たちを助けたりなんかしたんだ、なにを企んでいるんだっ」

 胸が締め付けられる。目の前の男性が向けてくる猜疑の念は紛うことなく刃物だ。鋭利な刃先で心を容赦なく貫いてくる。しかし、ただ黙して受けることしか許されない。それがせめてもの罪滅ぼしであって欲しいと願えばこそ。

「私たちの行動に他意などはございません」

 心葉が毅然と告げる。が、文乃がそれを手で制す。

「ごめんなさい。でも、本当に他意なんてないんです」

 言葉を用いたコミュニケーションはとても高度で便利な手法でもある。が、折に言葉は無粋を極める。意図とは別の解釈を以って伝わってしまうことなどは茶飯事。高尚であるからこそ、こじれ縺れる原因ともなり得る。

「見捨てたり助けたりって、もう訳がわかんねえよっ」

 国は一定数の国民を見限った。そのツケがここへ回ってきている。不信を招いた責任者はどこ吹く風、ツケを払わされるのはその下に就く者たち。このような時世にあってもこの構図が変わることはない。

 奥歯を噛み締めるようにして、文乃は息を呑む。二の句を告げることを躊躇った間が何よりも恐ろしく思えた。思慮深く選んだ言葉であると判断されてしまうのを嫌い、再び息を呑む。悪い循環に他ならない。

 「草場くさばさん」不意に別の男声が近付いて来る。「理由はどうであれ、助けられたのは事実です」

 草場と呼ばれた男も頭では分かっていたのだろう。苦虫を食い潰したかのような表情を浮かべつつ、黙して同意を示す。次いでやって来た男の言葉を有難く思いはするも、その意を表出させるのは誤りである、と文乃はただ顔を伏せる。

「今回の件についてはお礼を言います。けど、これまで事を無かった事には当然できません」

 それはそうだろう。文乃は男と目を合わせ、深く頷いてみせる。

「それでは、失礼します」

 相も変わらずに無表情を貫く心葉の手を引き、文乃はシェルターを後にした。


 ——文乃はいいよね。

 嫌味の意はなかった。ただ単純に、言葉の通りの意味だった。

 文乃が親友の加奈へ抱いていた感情の幾つかには、羨望と劣等とが入り混じったものがあった。複雑なものではあるが、そう珍しくもない感情である。友人同士でなくとも、人と人との間には然として成り立つ変哲のない感情である。

 しかし、ある日の加奈から言われたそんな言葉に、文乃は酷く驚きを覚えたのと同時に困惑した。「どこが?」

「文乃はいつも真っ直ぐなんだ。それがね、羨ましいの」

 どこか寂し気な加奈のその表情を、文乃は初めて目にした。

「月を素直に綺麗って思えるでしょ、それが羨ましいの」

 正直に言えば文乃には分からなかった、加奈が月を「怖い」と称した意味を。なんとなくで流してしまったが、加奈の抱いた具体的な感情の形を理解し切れなった事を胸のどこかに小骨のようにいつまでも引っかかっていた。

「加奈はどうして……」

「知ってたんだと思うんだ。月には、とっても怖い生き物たちが住んでるって」

 瞬間、隣で歩く加奈の首が地面へと落下していく。

 ——嗚呼、夢か。白けた感情と共に身体の熱が急激に低下していくのを感じた。


 心葉はよく耳を澄まさなければ聞こえない程に小さい寝息を立てながら文乃の部屋のソファで寝入っていた。頭を起こした文乃は、テーブルの上に散乱している資料の数々を見て喚起する。

「私、あのまま寝ちゃったんだ」

 今は無き日本政府が特異能力発現者たちの為に拵えた施設の数々も、今やこの拠点を含めても数える程度にしか残存していないとの話である。それ故に文乃は幸運な方であった。こうして帰るべき自室が残っていたのだから。

 散乱した資料のうち、手近な一枚の紙を手に取って眺め見る。『対月生生物対策部隊の編制』と銘打たれたその紙には、自分を始めとする第一次期特異能力発現者のリストが載っていたが、黒線で潰されていないのは『月影文乃』の名前のみである。

「みんな、会いたいよ」

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月より出でし魔なるモノども アトリエ @alchemist_sofy

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