月より出でし魔なるモノども

アトリエ

プロローグ/月より出でる

 夜空に浮かぶ月が紅く染まり始めたのは、ずいぶんと前のことだった。

 誰も赤い月に対して深刻さを感じてはいなかった——あの日が来るまでは。


 非保護対象の人々は、ただ黙って明日を迎えることでさえ運任せだ。

「頼むから早く行けよっ。アイツらに見つかったらどうすんだっ」

 語気は荒いが、声量の程は限りなく絞っている。その代わりに背後の男から浴びせられる小突きは、この狭い抜け穴に入ってからというもの頻るばかりである。しかし井草いぐさ寛貴ひろきは、自分の前を行く者の屈んだ背を決して小突きはしない。

「くそっ、こんな事なら別のルートを通れば良かった……」

 背後からの小突きは、男の何もかもを諦めたような声音を最後に止んだ。不毛であることを悟ってではなく、単に体力もしくは気力の限界を迎えたのだろう。

 寛貴たち非保護対象者の一団が身体を屈めながら進んでいるこの通路は、旧陸上自衛隊が作戦行動中に掘削した地下通路への入口である。地下通路へは各所にあるこの洞穴のような入口を通らなければ入ることができず、地下通路は今や非保護対象者が集う簡易シェルターと化している。

 薄暗かった視界に灯りが入る。折り曲げ続けていた背筋を伸ばしながら、寛貴はひとまず安堵の息を吐いた。

「もう地上に出るメリットはないに等しいな。めぼしい施設を当たったが、もうほとんど物資は残っちゃいない」

 もう幾度となく聞いた言葉だ。

「しかし、このシェルターの飲食料の備蓄は底を尽き始めている。なんとしてでも新しい補給場所を探さねばならない」

 こちらの返しも耳にタコができる程に聞いた。

 うんざりだ。先までの探索作業のことを喚起しながら、寛貴は心の中に吐き捨てた。全員で洞穴の外へ一瞬だけ出てまた戻る。これが探索班の行う探索作業の実態。だが、誰も探索班のことを咎めようとはしない。何故なら、自分たちが探索班に割り当てられることを恐れているからだ。

「早く、なんとかしなきゃ」

 寛貴は何度目かの決意を口にした。


 月からの侵略者が各国を襲ってからちょうど一年が経った。

 特異能力発現者の一人である月影つきかげ文乃ふみのは、荒廃した東京の街並みを一番高い瓦礫の山から眺め見ていた。かつて日本一の高さを誇ると謳われていた建造物の残骸を目にすると、小さく笑った。

「懐かしいね、加奈かな

 立てて座っていた右膝を抱いて顔を伏せる。

「文乃、お仕事」

 後ろの方から声がした。声音はとても美しいが、口調の方は淡々と事務的。振り返らずとも心葉ここはの端正な無表情が浮かぶ。

 暫し沈黙の間が続き、文乃が立ち上がるのと同時にどこからか崩落音が轟く。音の方へ文乃が目を向けると、やたらと見渡しが良いおかげで土煙の立ち上る箇所の見当がすぐに着いた。

「第三シェルターの方だね」

「中型が二、大型が一」

 駆け出そうとした足から途端に根が生える。

「私たちだけで?」

「命令」

 抑揚のない声が心葉の向こうに透けて見える統括指令の圧力を容易に想起させてくる。最初から逆らう気はないにしろ、謀反を起こそうものなら容赦なく捻り潰されることだろう。

「バックアップ……頼んだよ」

「了解」

 同じく決死の覚悟を抱いて特攻するのであれば、総括指令よりも侵略者共の方が生存確率は高いであろう。文乃は腹を括って足の裏の根を振り切った。


 月のモノ共は紅い満月が十日ほど続いた翌日から出現し始めた。

 最初の頃は目撃例もごく僅かでUMAではないか、等とSNSを中心に話題となっていた。赤い満月という異常事態も相まって面白がる人間は世界中で後を絶たなかった。

 事の次第を深刻に見始めたのは、初めて大型の月のモノが襲来した時だった。そのあまりの大きさに、見た者はひとり残らず確かな絶望感を抱いた。ようやく人類は、月からの侵略に気付いたのだった。

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