第12回

第十二回

たとえ妖怪だとしても正式に結婚するのも悪くない。いつまでも夢のような相手を思っていても仕方がない。井川はるら嬢には完全に嫌われている。はるら嬢の愛を得るのは不可能なような気がする。相手は高値の花である。そこでまた余は少し生活設計をしてみた。余は少しばかりの土地を持っている。今は自分の名義ではない。しかし、親が死ねばその名義も余のものになる。その土地を(●´ー`●)安部に譲ろうか。そこに(●´ー`●)安部との愛の巣を建ててこのさき生きていくのも悪くはない。その夜は少しほのぼのとした気持ちで湯に浸かった。

いつもよりだいぶ遅れて目を覚ます。どこか遠くで郭公の鳴く声が聞こえる。朝露に濡れた笹の葉の間から生じてくるような気がする。廊下に出て左に曲がって洗面所のほうに行くと、四畳半ぐらいの大きさの部屋の中には誰もいない。白と水色の四角のタイルで出来た流しの前についている真鍮製の蛇口からはちょろちょろと山からひいた清水が流れている。四つある蛇口のうちでふたつは温泉が出てくる。入り口の真向かいに大きな窓ガラスが張ってあって、その向こうに溶岩を急に覚まして固めたような崖が見える。岩の中には数え切れないぐらいの多さの気泡が見える。崖の前は人工的に作った小さな池がある。池の中はやはり月の世界のように溶岩の固まったものが地面をなしている。その中を小さな金魚が無重力の中を泳いでいるようだった。その崖の横のほうに見えないが穴を開けて山の中の見えない路を通っている石清水をここにひいている。水はさらに透明になっている。流しの前の窓ガラスのふちにはプラスック製のコップが幼稚園の園児のお遊戯のように三つ並んで置いてあって妖怪たちの歯ブラシがたてかけてある。いつだったか、歯ブラシを使った人形劇を見たことがある。歯ブラシは毛が埋め込まれているだけで顔もないくせに、その歯ブラシにも表情があるようだった。赤いのは(●´ー`●)安部のだ。青いのは川o・-・)紺野さんのだ。白いのは(ё)新垣のだ。歯ブラシの毛のところが濡れているのはもう起きて歯を磨いたあとなのだろう。洗面所を直角にまっすぐ進むと朝飯を一緒に食べている座敷に出る。障子を開けるといつものテーブルクロスをかけてある紫檀のテーブルの上に茶碗が一つ伏せてあった。小皿が置いてあり、上にはかちょうがかけてある。小皿にはなすのみそ漬けが載っている。小皿は外側が青い上薬がかけてあって中は乳白色の中に中国の太った役人が小猿を追いかけている画が青い線で描かれている。余はそこで座って横に置いてあったひつから飯をよそる。テーブルの上には急須も湯飲みも置いてある。ひつの横には鉄瓶が小竹を短く切ってその節の中にひもを通してへびがとぐろをくんだように編んだ鍋敷きの上に置いてある。少し手を近づけてみるとまだ熱い感じがする熱が空気の層を通ってここまでやってくる。きっとこれでお茶づけでも食べろという配慮だと思ったから飯の上に漬け物をのせ、お茶をかける。急須の注ぎ口からはしょうゆを薄めたような色の液体が出て来て香ばしい匂いがその場に広がった。急須の中に入っているのはほうじ茶だった。その熱いお茶がなすのみそ漬けの上にかかってなすのみそ漬けの茶色い色が少し透明になる。それをさらさらとかけこむ。障子があいてアルバイトの女の子が顔を出す。

「起きて来られたんですか。教えてくださればよろしかったのに。お湯をもう一度沸かしましたのに、お湯は少しぬるくなってはいませんでしたか」

余「いいよ。このぐらいの熱さがちょうどよい。みんな起きているのかい」

「親戚の女の子たちですか」

余「そうだよ。三人いるだろう」

「お三人とも、みんな、あみ子さまの衣装部屋にいますわ」

余「衣装部屋って」

「あみ子さまの衣装が置いてある部屋です。

この部屋を出て左に曲がって離れに通じている渡り廊下がありますからそこを通るといけますよ。でも、部屋の中に入るときは声をかけてくださいね。おほほほほ」

アルバイトの女はなんで笑うのだろう。余にはわからなかった。余はとにかく飯を食い終わってから、出てから左に曲がって渡り廊下を通ってつがいの鶴が片方は首を天に向け、片方は足下の雪を突っつきながら片足だけをくの字に曲げている図がふすまに描かれたその部屋に行った。障子そのものが着物の柄のような感じがする。部屋の前で中の方に大勢の女たちがざわざわとざわめいているのを感じながら余は中のふすまの向こうの女たちに声をかけた。

余「余です。入ってよろしいかな」

その余の声に呼応するようにふすまの向こうでまた笑い声がする。そしてまた静かになった。余にもこういう状況の経験はある。授業のはじまる前に担当の教師が入ってくる前方のドアに黒板消しをはさんでおき、教師がそこから入って来たときに黒板消しが落ちて来て教師の頭を白いチョークの粉で染めるといういたずらを生徒たちが計画した。そのたくらみの仕掛けが準備されているとき、教室の中は騒がしくなり、教師が入ってくる数分前には教室の中はしんと静かになった。しかし、期待はつねに裏切られた。もちろん、教室の前方のドアは引き戸でなければならない。その条件を満足したとしても、こんないたずらに引っかかる教師はほとんどいなかった。扉をひく教師の手前に黒板消しは落ちてアイロニーをこめたように白いチョークがほんの少しだけ舞い上がった。

余「入ってよろしいかな」

あみ子「どうぞ」

余がふすまに手をかけて部屋を開けると部屋の中からはいっせいに五彩の絢爛が無数の光の帯に乗って飛び出して来た。季節は春だったが、ここはさらに春らしく、さまざまな春の花が色とりどりに咲き出したようだった。部屋自体が光りをはなっているわけではなかったがそこにいた住人たちが光を放ち、西方十万億土にあるという極楽が地上に現出したようだった。そこにいる阿弥陀如来は複数であり、そのうちの三人は妖怪だった。馬子にも衣装とはよく言ったものだ。一人と三匹は春の花を身にまとっていた。

あみ子「素敵でしょう」

余「馬子にも衣装とはよく言ったものだ」

(●´ー`●)安部「ご主人さま、ひどいのね」

(ё)新垣「ニイ、ニイ」

余「本音を言うとみちがえったよ」

(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ」

余「でも、どうしたということだ。ここで着物の新作発表会をおこなうというわけでもないだろう」

川o・-・)紺野「みんな、あみ子さんの着物なんです」

余「ずいぶんと着物をたくさん持っているものですね」

(ё)新垣までもが自分の着ている着物の袖口を引っ張って着飾っている喜びを感じているようだった。四人がそれぞれ華やかな着物を着ている。

余「でも、なぜ、急に着物なんて着て見るのですか。余のつれも一緒に」

あみ子「もうすぐここら辺の近郷一帯で開催している踊りの催しがあるんです。わたしはそれに出るつもりなんですが、みんなも出たいというので、その衣装を着てみたのです」

(●´ー`●)安部は余に片目でウインクをしてみせた。

あみ子「みんな、よく似合うでしょう」

余「それはいいけど踊りなんて、三人ともやったことがあるのかなぁ」

この一言には三人ともはなはだ不満の瞳を余のほうに向けた。まるで妖怪の世界での舞踊の家元のような顔をしていた。

あみ子「ちょっと、やってもらったんだけど、みんなすじがいいわ」

あみ子はつりの名人なだけではなかったのか、おそるべし、あみ子。

あみ子「これから少し練習をしてみようと思うんだけど、見て行きます。衣装合わせも終わったことだし」

余「それは遠慮しておきましょう。でも、どこでそれをやるんですか」

あみ子「いつだったか、わたしが鮎釣りをやっていた場所がありましたわよね。あの川を少し下流に下ったところに能楽堂があるんです。江戸時代に建てられた建物です」

あみ子の話しによると楠家の事跡を顕彰するために江戸の幕府が政治的な意味合いもあって作ったそうだ。

余「そんなところがあるんですか。余も見てみたいな。それであみ子さんが踊っている姿はあるんですか。踊っている姿の写真はあったかしら。そのときの写真はあったと思うけど」

余「見てみたいな」

川o・-・)紺野「わたしも見てみたい」

(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ」

あみ子「あったかしら」

あみ子はその部屋の中で箪笥の上の方にある引き出しを開けて中の方をまさぐっていた。

あみ子「あったわ。このアルバムにそのときのわたしが写っているはずよ」

川o・-・)紺野「見せてください」

川o・-・)紺野さんがそのアルバムを受け取ると(●´ー`●)安部も(ё)新垣もそのアルバムをのぞきこんだ。余もその背後からアルバムをのぞき込む。そこには着物で着飾ったあみ子がいた。しかし、その中はあみ子ひとりではない。孟宗と石灯籠を背景にして着物姿のあみ子と若い男が写っている。

川o・-・)紺野「あら、あみ子さんの横に男の人が写っている。この人だれですか」

(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ」

(●´ー`●)安部「いい男じゃない」

余はすべてを知っていた。

川o・-・)紺野「あみ子さんの彼氏なんですか」

(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニイ」

(●´ー`●)安部「男なんだ」

あみ子「違うわよ。違う」

あみ子の頭の上のほうにもじゃもじゃの雲が漂っているようだった。そのもじゃもじゃの雲を描く線も随分と太く、塗り方にもむらがある。

 余はその能楽堂に行くことにした。あの鮎釣り場を川沿いにさらに下ったところにその能楽堂があみ子の衣装部屋で見た写真と同じように孟宗の林をうしろに控えてその建物は建っていた。建てられた当初は杉の木の正目の模様もまだ鮮やかに産土の雲の波間に見え隠れする様子をこの石清水の音とともにここで歌っていたに違いない、瀬をはやむ水の流れは変わらぬとしても千代や八千代の神木も、神垣のみむろの山の榊葉では今はもうなくなった。余は悠長で、すべての言霊やはしのあげさげ、水で口をすすぐことにも、爪を切ることにも、髪をけしくずることにも、この地に長らくおわしましまう大和の神の霧がくれしながらほんの少しだけ姿をあらわす古代の世界に誘われていた。そして余がぼんやりとその舞台を眺めているとどこかで聞いたことのある声で余を現実に戻すものがいた。

小坊主「志保田の宿に泊まっているかたではありませんか」

霊木を背景にして上は白、下は黒の袴の、下には下駄を素足にはいている頭を青く剃った子どもがそこに立っている。

余がうしろをふり返ると観海寺の小坊主の了念が立っている。

小坊主「なんでここに立って、なにを見ているんですか」

竹ぼうきを持っていればもっと画になるが残念なことにそれは持っていない。

余「ここで女たちの踊りの催しが毎年開かれていると聞いたので見にきたのですよ。この舞台の上に上がって踊りを踊るのですか。あみ子ちゃんも踊るのですか」

小坊主「あたしも去年はあみ子ちゃんが踊っているのを見ましたよ。振り袖がひらひらと蝶々の羽のように舞ってそれはきれいなものでしたよ」

余はそこであみ子が娘道成寺でも踊ったのではないかと思った。そんな縁起でもないものを踊るからあみ子は滝沢繁明と別れることになったに違いない。

余「あの若い男も見に来たんでしょうね」

小坊主「滝沢くんのことかいな。滝沢くんに嫉妬しているのですかいな。あみ子ちゃんが好きなの」

余「余が、余が、あははははは」

余の笑いは杉の林の中に空しく響いた。

小坊主「あやしい」

余「あやしくない」

小坊主「あやしい」

余「ニイガキ、ニイ、ニイ」

小坊主「それは違う人のせりふやがな」

小坊主も新垣語の意味はわからないが、新垣語の存在は知っていた。

余「うちのつれの親戚の女の子たちも踊りの大会に出ると言っているよ。それで志保田ではその話しで盛り上がっていてね」

小坊主「衣装はどうするんですか」

余「あみ子ちゃんのを借りると言っている」

三匹があみ子の着物を着ていた姿がふたたび余の目の前に浮かんだ。

小坊主「わあ、それは華やかなことやな。でも志保田のお客さん、踊りを見るためにわざわざこんな草深い温泉場に来たわけではないんでしょうが。それとも古典芸能に興味があるのかいな。拙僧にはそうは見えないが。もっとなにか目的があるのじゃないかな。前から拙僧はあなたが何かを隠しているとあなたをはじめて見たときからにらんでいるのですがな」

小坊主は余の姿を上から下へ何度も見ながら余に威圧感を与えた。小坊主がその力を持っているのではない。小坊主の疑念が余に無用な不安感を与えたのだ。

余は少しうろたえた。小坊主の指摘は当たっている。この小坊主のほうが住職の大徹よりも真実を見ているのかも知れない。余は田舎者が皇居にはじめてやって来てうろうろしていると警官に職務質問されたときのようにうろたえた。

余「誰にも言わない」

余は小声で小坊主にはなしかけた。近くに流れている川の音が低く地を鳴らしているように聞こえる。

余は小坊主のつるつるとした前頭葉のあたりを盗み見た。余の目の切れ目の下の眼瞼の裏の血管までもが見えたかも知れない。

小坊主「言うわけがないがな。そんなことをしてあたしになんの得があるというんですか。まして拙僧は仏に仕える身、煩悩に悩む衆生を救うのがわたしの役目、そのためにわたしは仏門修行に入ったのであります」

余「本当」

余はまた幼稚園の子供が母親におねだりをするように聞いた。

小坊主「本当やがな。あなたは母なる巨大な海に、今、抱かれています。そしてその海の中でくらげのようにぷかぷかと浮いています。あなたはなんの重力も感じません。あなたのまわりには暖かい空気が漂っています。息を吸うとあなたの脈拍は安定します。さあ、なんでも話してご覧なさい」

余「本当」

小坊主「本当やがな。あたしを信用しなさい。なんなら、特典をつけてやるがな」

余「どんな特典ですか」

小坊主「驚いちゃいけないよ。あんたの関心の的の井川はるらのことだよ。あんたも井川はるらが観海寺に泊まっているって知っているね。そこではるらは寝泊まりしているんだよ」

余「えっ、えっ」

余は井川はるらが出てきた意外な展開にどきまぎした。

小坊主「観海寺にはお風呂がある」

余「はるらちゃん」

余の理性に反して勝手な言葉が口から出てきた。

小坊主「どういうわけか、観海寺の風呂場には誰があけたのかわからない穴があいている。その穴はビデオカメラのレンズがちょうど入るぐらいに大きい」

余「はるらちゃーん」

小坊主「そして、拙僧はビデオカメラを持っている」

余「はぁ、はぁ、はるらちゃーーん」

小坊主は完全に余を支配下においた。

小坊主「拙僧に話す気になったですかな」

余「話す、話す、話します」

小坊主「さあ、深呼吸をして心を落ち着けるのです。そして頭の中を整理して順序よくお話しましょう」

余は小坊主の用意したにんじんに完全につられてしまった。その能楽堂の横のほうは庭石が円形に並べられていてその中は苔の生えた墳墓のようになっている。その墳墓の頂点のところに大きな岩が二、三個並べられていてその岩の横には松が生えている。余と小坊主はそのうちの座りやすい椅子のほうに腰掛けた。

余「実はこの那古井の地を訪れたのは深い理由があるのです」

余はいつも肌身離さず持っているショルダーバッグを横に置いた。そしてフアスナーをおもむろにあけた。そして右手をそのかばんの中に入れるとモスグリーンのフェルトで厳重に包まれたかたまりを取り出すとそばにある御影石の大きな庭石の上に置いた。その御影石はものを置くのに都合がいいように、上の部分が平らになっている。

余「これなんです」

小坊主「なんですかな、これは」

大きな庭石の上にもうひとつ庭石が置かれたようだった。それを包んでいる布をあけると、その上にはいちだの雲が生じてその中から神竜が飛び出した。神仙が住むという雲の余韻は残ったままでしだいに本体が姿をあらわす。宝石のような質感をしているが宝石ではない。もっと落ち着いた渋いものだ。そのうえに潤沢なはだ触りがある。大きな庭石の上に置かれているがその大きさや重さでもその大きな石に決して遜色しない。画家は白を何種類も使うように黒を黒として使わない。黒にもいろいろな種類がある。ピーチブラック、アイボリーブラック、マースブラック、その絵の具のもとを燃やすとき、なにを燃やしたのかでその色は違うものになる。しかしそれを人間の手で再現することははなはだむずかしい。それが光学的に何色と何色をどういう割合で混ぜれば出来ると理屈はあるかも知れない。しかし現実には画布の上に塗られた色は微妙に生き物のように違ってくる。それの色はさらに玄妙な色だった。たとえて言えば仙界に昼と夜があるならその夜のとばりを固めて作ったような深い黒い色をしている。ただ黒いというだけではなく、その中に明るい光を内包している。白雪姫の中に出ている魔女がもっとも美しい姫を捜すための魔法の鏡はこんなもので作るのかも知れない。人が息をふきかけても自分の力でまた透明になるであろう。そして白雪姫のすがたを映し出すかもしれない。

小坊主「これは、これは。くよう眼の硯よりも立派ですね」

小坊主も思わず絶句した。

余「十二くよう眼の硯」

小坊主「えっ」

小坊主は驚いていた。小坊主ながらもその硯の価値を知っているらしかった。

小坊主の了念はもう一度その硯をのぞき込む。そして眼の数を数えた。

小坊主「えっ、眼は九つしかありませんよ」

余「嘘だ。余がそれをはじめて目にしたときはたしかに眼は十二個あった」

小坊主「たしかに志保田の家にあるものより立派ですが、眼は九個しかありません」

余は最初にそれを見たらすぐ包んでしまったのだが、そのときは確かに眼が十二個あった。

小坊主「でも、ふたはないんですか。ふたは。ふたも大切だって和尚さんが言っていましたよ」

余はふたなんてたいして必要でもないと思ったのでそれを見つけたときふたはひっぺがしてそのままにしておいた。

小坊主「でも、どこでこんな珍品を見つけたのですか。本場に行ってもこの一つしか見つかりませんよ。きっと」

余「それは今は言えない」

その十二眼の硯の来歴があきらかになれば余の家の名誉はことごとく失墜する。三代前のじいさんが千円札になっているとしてもだ。いや、そんな家筋であるからさらに大変なことになる。余の家の破滅だ。小坊主と余のあいだにしばらく沈黙が続いていたが余は向こうの孟宗の間を縫っている細道から人がやってくるのを認めてあわててその麗品をフェルトに包むとかばんの中にしまった。向こうから歩いて来たのは老人だった。どこかで見たことがある。あのぐらいの年になると遠くから見ると女か男かわからないことがあるが老婆だった。その上どこかで見たことがあるような気がする。孟宗の竹林の中を歩いてやってくるが、前に見たときは山家の炭焼きの煙が春雨の空に立ち上る背景を背にしていた。炭焼き小屋に毛の生えたような茶店で粉をひいて団子を丸めていたではないか。今もその中身は変わりないがこんなところまで歩いてくるのだとは知らなかった。買い物にも出てこないのだとばかり、思っていた。思ったよりも行動半径が広い。茶店のばあさんだな。余は心の中でつぶやいた。下の砂利をふみしめながらばあさんは歩いてくる。仏教のそれも禅宗のほうでその内部の行儀作法はどうなっているのか、余には皆目見当がつかないのだがもっとも徳の高い者に対する作法らしいことをして小坊主は茶店のばあに挨拶をした。余はその動作、所作が重々しく、きびきびしていて、かつすっきりとしていたものを感じたのでそう思っただけだったが。

ばあさん「笹餅はどうでございます。小坊主さん」

小坊主の了念はそこに高遠な公案を見ているのかも知れないようだったが、余には木瓜の花の香る茶店のばばだけでしかなかった。浮き世離れしたばあさんのほほえみだけが残った。

余「おばあさんは笹餅を作っているのですか」

余はこの地方ではそういう食べ物があるのかと思った。了念はあわてて余を制止して無言で下を向いたまま、しっしっとか言葉にならない音声を発している。横で余の服の裾のあたりをさかんに引っ張って合図をしている。

ばあさん「困ったことがあったら、ばあの茶店にまた来てください。おふぉ、おふぉ」

ばあさんは巾着のような口をしてそのまま通り過ぎてしまった。通り過ぎてしまったばばの後ろ姿を見送りながら余は隣でまだ手を合わせている小坊主の横腹をつついた。

余「了念さん、いつまでばあさんに手を合わせているんだよ。お前、ばかじゃないの。あれは茶店のばばじゃないか」

すると小坊主はとんでもないという顔をした。

小坊主「あなたはあのかたがどんなに尊いかたか、ご存知ない。うちの和尚さんなんかは足下にも及ばないありがたいかたなんですよ。あのかたがうちの寺に来たとき、台所で金色の光をわたしと和尚さんは見たんです。台所でばばさまが座っている、その向かいから光りが発せられていました。しかし戸の影でその本体が見えませんでしたので和尚さんとわたしは位置を変えました。するとばばさまの向かいには大日如来さまが蓮の花を片手に持ってその花をばばさまに手渡すところだったのです。それからこんなこともありました。山の中の温泉に浸かっていた湯治客が北極星を眺めていると急にその星は一筋の糸を引くように地上の方に飛んできました。天上の星は温泉のそばに落ちました。客がその場所に行ってみると婆さんがすりこぎの棒を持ち、星のほうにすり鉢を持たせて、ばあさんは胡麻をすっていたのです。ばばさまはこの那古井の土地のことでなにも知らないことはありません。たとえ七百年前の楠雅儀のことでもありありと眼前にあるように語ることができます」

余には小坊主の話はにわかには信じられなかった。しかし、茶店のばあさんが郷土史家かなにかでこの土地のことにやたらと詳しいということは考えられる、なにしろ年はとっているのだし、年寄りだから伝承話しは好きだろう。よく地方などに行くと土地の古老が源義経や木曽義仲のことをきのうのように語ることがある。彼らの語っている感覚では数百年前のことが数年前のことなのである。それらの武将がそんな地方にまで足跡を残しているということかも知れない。小坊主はまだなにかを語りたがっているようだったそれも全く違う方向の話しだった。

小坊主「三人の身内と一緒に志保田の宿に泊まっているのですか。あの三人は親戚かなにかなんでしょう」

余「そうだが」

小坊主「三人の姿を見ましたよ。わたし」

余はこの小坊主が三匹の妖怪のうちの誰かとつき合いたいと思っているのかと突然思った。(ё)新垣はただ毎日「ニイガキ、ニイ、ニイ」と叫んで近所の小さい川でザリガニ捕りをやっている毎日だし、(●´ー`●)安部は小坊主よりも年が上すぎる。そうなると小坊主とつきあえるのは川o・-・)紺野さんだけということになるが、三匹は余と契約を結んで永久に余の面倒を見ることになっているから、その話しは不可能である。他の女の子とつき合ってもらうしかない。しかし、小坊主の口から出てきたのは意外にも(●´ー`●)安部の名前だった。

小坊主「一番年上の女の人はなんという名前なんですか」

余「(●´ー`●)安部なつみと云うんだ」

小坊主「その人なんですが、よくない噂があるんですよ」

余「どんな噂なんだ」

小坊主「いかがわしいことをやって金を稼いでいるという噂です。それでわたしもたまたま隣街に行ったとき、安部なつみさんを見たんです。駅のそばのくらがりの中で湯治客と話していたのを見たんです」

余はそのいかがわしいことというのが見当がついたが本当にそんなことをやっているのかどうかはまだ信じられなかった。志保田の宿に戻ると屋敷から少し離れたところに志保田の所有している西洋庭園があってテニスコートが二面ほど入ることが出来るくらいの広場になっている。そこから海を見渡すことが出来る。その広場から海のほうに緩やかな坂が続いていて斜面には蜜柑の木がたくさん植えてある。冬になったら蜜柑の橙色の点々が緑の絨毯の中に斜面一面に広がっていて美しいことだろう。宿に戻ってアルバイトの女に余のつれがどこにいるかと聞いたらその広場にいるというので、そっちのほうに行ってみた。その広場が見える前にその場所に近づいていくとカーン、カーンと聞き慣れない音が聞こえる。広場の入り口になっている草の絡まっているアーチの人が通れるようになっている空間の中から白いものが放物線となって海岸のほうに飛んでいく。白いものというのはどうやら白いボールのようだった。それが青い空の中に飛んで行く。青い地の中なのでそのボールを見失ってしまうようだった。斜面を削って赤土の土手の上に草がぼうぼうと生えている広場の山側に近いほうの一角にそのボールを打ち上げている原因があった。白い野球のユニフォームに身をまとい、野球帽まで被っている川o・-・)紺野さんがパリーグのホームラン王、カブレラ選手仕様の特別あつらえのバットを持ってぶんぶんと振り回している。そのうしろのほうには七十センチの大きさの例の金魚が水槽の中で楽しそうに泳ぎまわっている。その金魚は川o・-・)紺野さんの勇姿を見てまるで喜んでいるようだった。川o・-・)紺野さんの前方には、大きな腕を持った上皿天秤の親分のような機械がぎしぎしという音をたてながらぶるぶると動いていた。それは見ようによっては装飾品のたくさんついた金てこ台の大きなものに見えないこともない。機械の横には円筒形の鉄製のかごがあり、白い硬球がかごの三分の二ぐらい入っている。その横には(ё)新垣が立っている。そしてご苦労なことに、地面を平らにならすためのコンクリートで出来たロードローラのようなものも置いてある。ただし、引っ張る取っ手が車軸から出ていて人力で引っ張るものだ。(ё)新垣もやはり野球選手のように白いユニフォームに身をかためている。そのユニフォームは全く白いままで汚れていない。(ё)新垣はそのバッティングマシーンを操作していた。ミジンコ並の知力しかないと思っていたが(ё)新垣に意外な能力があることを発見して余は驚いた。その機械は(ё)新垣の背の高さの三分の二ぐらいの大きさがある。まるで巨大な殺人ロボットのようだった。そしてその外観は重量感のある黒い色で塗られていてボールを投げる金属製の腕は太く、強力なバネが装着されている。大きな噴水に六分儀がのっているような感じがする。ボールがからになった腕のさきが下のほうからじょじょに上に上がってくる。その腕がほぼ水平になったときにボールが腕に供給されるように鉄の棒で出来た雨樋のようなものがあって、水平な位置からボールを支持する場所にボールがのせられ、それからゆっくりとぎしぎしと音をたてながらその腕はボールを落とさないようにして回転していく。そしてある臨界角度に達すると今度はばねの力で白球が百六十キロ以上の速度で川o・-・)紺野さんめがけて突進していく。そのボールの出会いがしらに川o・-・)紺野さんの振り回した重量級のバットが叩く。すると三十五度の角度で海に向かって白球はするすると飛んでいく。その飛距離はゆうに二百五十メートルはあった。余がそこにいることに気づくと川o・-・)紺野さんと(ё)新垣はこちらを振り向いた。バッテイングマシンの機械は止められている。川o・-・)紺野さんの持っているバットの頭のところは地面にささえられている。川o・-・)紺野さんはバットのヘッドのところを両手をのせながら余が近づいてくるのを待っていた。

余「なにをやっているんだ」

川o・-・)紺野「身体がなまるといやなので野球をやっているんです。ご主人さま」

川o・-・)紺野さんの立っているところまで(ё)新垣もやって来た。

(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ」

余「野球をやっているのはわかるが、なんだ、この機械は。一体どうしたと云うんだ。仰々しく、それに野球のユニフォームも硬球のやまも。どこから持って来たんだ。こんなものを余が買ってやった覚えはないぞ」

(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ、ニイ、ニイガキ、ニイニイニ」

余の問いに答えたつもりか、(ё)新垣がニイニイ語でもって答えた。ニイガキ語を持ってしても余にはなんのことか、さっぱりわからない。

川o・-・)紺野「このバッティングマシンもユニフォームもみんななつみねえさんが買ってくれたんです」

(●´ー`●)安部なつみが余に海外製の高級腕時計を買ってくれたのと同じパターンか。しかし、機械やユニフォームはまた使えるからそれでもいいかも知れないが、白球を海に打ち込むのはどういうものか、海に漂うままに海にゴミの山を作り、無駄な設備投資をしているというしかない。海面でうきつしずみつしている白球が思い浮かんだ。しかし、(●´ー`●)安部がこれらの機械を買ってくれたというのはよくわかった。あの女の所持金ではそのようなことも出来るだろう。

余「でも、ボールを海に打ち込むのはよくないよ。勿体ないじゃないか」

川o・-・)紺野「ご主人さま、海の方をよくご覧くださいませ」

川o・-・)紺野さんがそう言って海のほうを見ると小舟が波打ち際にぷかぷかと浮かんでいる。長いさおのさきに網のついたものを持った男が波間にうきつしずみつする野球のボールを熱心に網で拾い上げて小舟の中に積んでいる。濡れている小舟の船底には白いボールがちらほらしている。余たちが海のほうを見ているのに気づくと男はその仕事の手を休めて余たちのほうを向いて手を振ってばかみたいに笑っている。その動作を余はどこかで見たことがあることに気づいた。顔をよく見ると確信した。滝沢繁明ではないか、家で不渡りを出して観光船の乗務員になってあみ子に手を振っていたときと同じ動作だ。

川o・-・)紺野「あの人がわたしたちが海に打ち込んだボールを拾ってくれるので、海が汚れる心配はありません。それにあの人はお金がなくて困っているらしく、拾ったボールを売りたいと言っているので、そうしてくださいと言っておきました。わたしたちはあの人の生活も助けてあげることが出来ます。ご主人さま」

(ё)新垣「ニイガキ、ニイ、ニイ、ニイ、ニイ」

(ё)新垣もさかんにその喜びをあらわしている。

余「まあ、いい。それで(●´ー`●)安部豚はどうしたんだ。あの淫乱、男大好き女は」

川o・-・)紺野さんも(ё)新垣も(●´ー`●)安部がどこに行ったのか、知らなかった。(●´ー`●)安部がいかがわしいことをして金を稼いでいるなんてことはもちろん知らないに違いない。いくらなんでもお塩のところに再び行って、プレステをやっているとは思っていないだろうが。

余「余は今日は帰りが遅くなるかも知れないから、夕飯の支度はしなくてもいいとあみ子ちゃんに伝えておいてくれ」

余が時計を見ると午後の四時を少し過ぎていた。

 亜子井は那古井の隣の駅だというのにその様子はずいぶんと違っていた。両方とも同じ温泉町だが、夫がその温泉に行くというと妻があからさまに嫌な顔をするという種類の場所だった。そして繁華街も多い。那古井とは違ってうまい具合に温泉の線を駅のそばの繁華なところまでひいてこられる。店も多いので余は先日ここにかみそりを買いに来た。だから男はその温泉に行くときは黙って、もしくは嘘をついてそこに行く。同じ風光明媚な地だというのにこの違いはどこから出てくるのだろう。亜子井は駅から出たときからすこし様子が違っていた。駅を出ると目つきの悪い男がちらほらと見える。しかし、時代はこうした街を受け付けなくなっているのでなんとなく寂れていく、進行中という感じもある。余が駅を出て左に曲がるとけばけばしい看板が目についた。幅が二メートルしかないアーケードの下を歩いて行くとすぐにけばけばしい化粧をした女に声をかけられた。

「少し、休んでいかないべか」

お前はどこの人間なんだ。余は心の中でつぶやいた。

「安くしておくべ」

余「少し、聞きたいことがあるんだけど」

「なんだべ」

余「この淫乱雌豚を探しているんだ。喜びの絶頂に達するとお塩、お塩と叫ぶんだ」

余は(●´ー`●)安部なつみの写真を取り出すとその女に見せた。

「お塩と叫ぶ、おもしろいねぇ。焼きとりの塩が好きなんかぇ」

余「まあ、そんなところだ」

「ちょっと写真をよく、見せてもらえるべか」

余「この写真はあまり化粧をしていないが、本物はもっと化粧が濃いかも知れない」

女はよく、写真をのぞきこんだ。

「この娘、見たことあるべ。知り合いだべか」

余「まあ、そんなところだ」

「思い出した。思い出した。そこを左に百メートルぐらい曲がったところに亜子井三条通りという、バーやスナックが固まっている場所があるんだ。そこに宝舟時計店という時計屋があるんだけど、そこによく立っているよ」

余はそこに行くことにした。その通りに行くとたしかに飲み屋やバー、スナックが多い。店の外に合成樹脂で出来た看板がまるで人間のように立っている。その看板もかなり疲れている。看板の明かりがかなり明るく感じる。時計を見ると午後の六時半を少しまわっている。山は暗くなるのが早い、都会とはわけが違う。いろいろな店のドアがときどき開いて客が中に吸い込まれて行く。きらきらと金色に輝くのは例の時計店のからくり時計らしい。その前にたしかに女が立っている。しかし、背格好は(●´ー`●)安部と同じだが顔が見えないので(●´ー`●)安部だと断定することは出来ない。余はその様子をじっと見ていた。すると中年の男が飲み屋から出て来たのか、これから飲み屋に入るのか時計屋の前を通った。するとその男のそばにするすると寄って行った(●´ー`●)安部かも知れない女は声をかけたようだった。しばらく話している。指を立てて何かを合図しているようだった。それから男は自分の顔の前で大きく手を振ってその女のそばを離れた。女は男になにか侮蔑の言葉を投げつけたようだった。離れて行く男を見ながら女は片足で地面を強く踏んだ。余は静かにその女に近寄って行った。女は余に声をかけてきた。

「お客さん、お金、持ってます」

こちらが何も言わない前から向こうのほうから声をかけてきた。

化粧をして大人びた顔になっていたがそれは確かに(●´ー`●)安部なつみだった。余の顔を見て(●´ー`●)安部ははっとした表情をすると顔をそむけた。そのとき(●´ー`●)安部の瞳にはいつものニタニタした光はなかった。なにかを突き刺すような、そう、世の中の正しいと言われていたり、権威と言われていたり、まったく泰然自若として動かないようなものに対して一撃を加えるような目の光りだった。(●´ー`●)安部は逃げようとしたので余はすぐに(●´ー`●)安部の身体に覆い被さった。(●´ー`●)安部の身体の暖かい感触が余の身体に、暖かい(●´ー`●)安部の血の流れが、心臓の鼓動が余の身体に伝わった。(●´ー`●)安部はまるで山の中で生活をしている毛がふさふさとしている動物のようだった。(●´ー`●)安部は逃げようと身体をもがいた。余はさらに(●´ー`●)安部の身体を抱きしめた。(●´ー`●)安部は余の抱きしめる力に負けてやまねのように身体を縮めて地面の上にすくんだ。余は(●´ー`●)安部が逃げられないように抱きしめながら、やはり(●´ー`●)安部同様に余の息ははあはあと上がっていた。(●´ー`●)安部の髪が乱れる。

余「なつみ、お前がなにをしていたか、わかるか」

(●´ー`●)安部「わたしの身体でしょう。なにをしても自由じゃないの」

余「ばか」

余は思わず平手で(●´ー`●)安部の横頬を叩いた。

(●´ー`●)安部「女を叩くなんて、最低ね。そんなことをしなければ私を説得出来ないの」

余はうらみを込めた(●´ー`●)安部の視線を一身に受けた。

余「お前が憎いからぶったんじゃない。自分を大切にしろと言いたいんだ」

(●´ー`●)安部「そんなことを言って、あんただってわたしの身体をもてあそんだじゃないの。それになによ。わたしがあげた時計だってまだしているじゃないの」

余は自分の腕にはめられている時計を隠した。

余「自分を大事にしろ。お前は金を手に入れるために自分の価値を下げていることがわからないのか」

(●´ー`●)安部「わたしの身体はみんなのものよ。それをお金に換えて何が悪いのよ。あなたにお金がないことの悔しさ、苦しみがわかるわけがないじゃないの。なにが、わかるというのよ。ふん、そうよ。あなたのじいさんはいつも千円札の表紙になってあなたのほうを見ているじゃないの。それになによ。わたしのお金でその時計だって買ってやったし、そして、まだその時計も腕にまいている。通帳だってお金が入っているんじゃないのそれもわたしがわたしの身体で稼いだお金よ。ふん、わたしの身体をもてあそんだくせに、さんざんわたしの身体であなたは楽しんだじゃないの。わたしの身体にはあなたの刻印が押されてしまったのよ。それがどういうことかわかる。哀れみなんか欲しくないわ。あなたが勝ったとおもう。ふん、あなたの考えはあさはかね。実はわたしが勝ったのよ。あなたとわたしとはもう同等なのよ。もう、あなたがご主人様でもなんでもないのよ。あなたがわたしの身体を求めるかぎり、わたしはあなたのご主人さまなのよ」

余はまったく反論が出来なかった。その場に立ちつくして(●´ー`●)安部の顔をじっと見つめ続けた。自分の腕にはめている時計をはずして地面にたたきつけることもできなかった。

 このひなびたマクドナルドもロッテリアもないような温泉郷に来て、電気もガスも使わずに煮炊きをして、この地球上の大部分の国を何度も全滅させる核のボタンがある場所に置かれたスーツケースの中にあることも、麻薬の流通経路で表の世界からは無視出来ない闇の経済圏があることもとんと知らず落ち武者の末裔のみが住むとばかり思っていた隠れ里に入湯のために来訪して、美しい景色と山の霊気に心洗われるかと思っていた余であったが、そうではなかった。妖怪のくせに彼らは人間よりも人間のようである。喜びもあれば悲しみもある。男を求めれば、野球もする。とくに(●´ー`●)安部に関しては金に対する執着が異常に強い。世の中は何でも金でかたがつくと思っているようである。それは誰でも金は欲しい。金があればいい家に住めるし、きれいな嫁さんももらえるだろうし、嫌な奴に頭を下げずに精神的にも健康でいられるだろう。しかし余は金というものが人間世界においての想像上の概念であり、実体がないと余は思っている。もちろん硬貨や札という実体はある。しかし具体的な金属や紙にすがたを変えただけでそれが金というもの自体をあらわしているわけではない。動物社会の中では金はなんの用も持たないだろう。犬におにぎり一個と一万円札を見せたら、おにぎりのほうに飛び付くだろう。犬は人間社会における金の効用を知らないからだ。いろいろな欲望や労力を簡単に交換できるものだとして金のことを五才ぐらいの子どもでも知っている。いつだったか、おもちゃ屋の前でおもちゃを欲しいと泣きわめいていた子どもが突然、手を出してそのおもちゃを取った。すると親は静かにお金を払わなければそれを取ることは出来ないのよ。そんなことをしたらどろぼうになってしまいます。と言ったらすぐにそのおもちゃを棚に戻すのを確認した。もっとも最初に子どもが身につけているルールのひとつというのが、このお金がなければ商品と交換できないということかも知れない。そして子どもはお金があればそのおもちゃを手に入れられるということを知っている。商品だけではない。いろいろな奉仕や、欲望や、信用までもそれを持っていれば得ることが出来る。つまり万能な薬というわけだ。世の中にこんな便利なものがあれば人はいつもそれにばかり関心を向け、目がいってしまうだろう。人がある場所まで行くのに徒歩で行く、それから馬に乗り、自動車で行くようになった。自動車にもいろいろな種類がある。車体を黄色く塗ったスクールバスもあるだろうし、銀色に輝くツーリングカーもあって高速道路をすごいスピードで走って行くだろう。そして飛行機が出て、人間の目的へ行く距離も時間も異常に縮まった。飛行機にも今は垂直旅客機というのがあるらしく、長い滑走路も必要としないらしい。しかし、金はロケットである。そのうち光速ロケットが出現し、タイムマシンまでも出来るかも知れない。人々はみなこの金といものに支配されている。それが完全無欠な完全な妙薬だという幻想を抱いているからだ。金に支配されているというよりもこの幻想に支配されているのかも知れない。金があればすべての欲望を満たすことが出来て、困難な状況から脱出することが出来るというある意味では当たっている思想。しかしその一方でその前に自分の欲望や運命の前の自己の無力を認める諦念というものを得ることが出来る人が少なくなっているのも事実だ。人の欲望だけが肥大してしまった。牛馬の肥料にしかならない巨大かぼちゃがこの地上に満ちている。慎ましさやかわいげなどというものもなくなって、人の隙をねらって小股をすくうことが人生の最良の処世術となる。オイルショックのときのトイレットペーパーの買い占めが日常的におこなわれている。余もまたその中で浮かび沈みつし、ぼうふらのような生の時間を刻んでいるわけだが。その競争に勝った者が人生の勝利者と呼ばれる。しかし人類の歴史の中にはその輪廻から解放されたものもいるかも知れない。そんな人はこの金の支配から逃れていると言えるかも知れない。それが社会と縁を切っているかどうかは余はしらん。竹林の七隠の生活を送っているのか、語る資格も目の前で見たこともない。余は死ぬまでその境地には達しないかもしれぬ。しかし、生まれついて大金持ちでありながら修道院にみずから入って行ったり、世を捨てて殉教の人生を過ごす人もいる。世の中にはそんな金の支配から逃れた人もいる。それもまた事実である。しかし、淫乱雌豚(●´ー`●)安部は金にも男にも、支配されている。とくに男に対する執着はまるで人間世界の人情物を見るような気がする。自分の身体を使って金を稼ぎ、妖怪の身分でありながら、お塩と二晩も過ごしたのだ。余も俗物ではあるが(●´ー`●)安部よりは少しはましだと自分自身をなぐさめた。

 余はそんなことを考えながら鮎の泳ぐ川のほとりを歩いて行くと川の流れる音がざらざらと聞こえる。川の水も見える。川の水がどんな水質なのかよくわからない。まるっきり純粋な水だというわけではないだろう。そこには何かが含まれているに違いない。人の心を覚醒させる何かが含まれているに違いない。深山の水には鋭いものがある。山の神の使う巨大なのみで大きな岩が切り崩されて川の中に投げ入れられる。神話の時代のそんな営みが思われる。そんな岩をめがけて渓流がぶつかる。川端の崖のかたちは西洋の巨人の椅子のようにも見える。こんな水のようなかたちもなくなんの手応えもないようなものが何千年も同じことを繰り返して岩を削っていくから不思議である。ひとかたまりに見える岩にもひびが入ってその中に土がたまってそこから木が生えている。岩の上のほうに木が生えているのは普通だが、横のほうからもそんな普通でない生え方をしている木がある。そこに水があるかぎりどこでも植物というものは生えるものなのだろうか。岩のほうもただ一色に塗られているわけではなく、コンクリートの中に鉄のねじでもあってそこに雨が当たってさびが生じて一筋の橙とも茶色ともつかない線がついているように一部分色が変わっているところがある。温泉の注ぎ口にある湯の華のようである。それがどのような原因で出来たのか、地層としてあるのか、余にもわからない。余の気持ちは清々しくなる。余が右足を前に運んで地面におろすと小枝がぽきりと小さな音をたてて折れた。弥生人だが縄文人だかわからないが、古代の人間はこんな枝を竈に入れて暖をとったに違いない。自分の関節を鳴らしているように気持ちよい。

 川に沿って人の通る道が作られている。道に沿って松が植えられている。この道を歩くのは余だけである。松の枝にいた四五羽の鳥が枝葉をばらばらと鳴らして空に飛んで行った。

 あたりで騒いでいた鳥は空高く飛んでどこかに消えて行った。

 空にぼんやりと浮かんでいたちぎれ雲は飛んで行き、静けさがあたりを包む。

 ともに相い眺めてともに心にかなうものはこの香炉山だけである。

余は向こうに見える山の山容をめでた。少しのぼり道になっている。その道を横に入って行くとさらに坂が急になった。さらに登って行くと大きな丸い石を固めて門柱にして、なまこに逆立ちをさせたような門柱には那古井鮎養殖場という看板が出ている。そこでやはり水の流れる音がする。

 太陽は香炉山を照らしてもやが紫煙にくもっている。

 遙か向こうでは長く大きな川が垂直にそのまま立っているように滝が流れ落ちて行く。

 その規模ははるかに大きく、その長さは三千尺。

余は李白の詩をくちずさんでいた。

 その勢いはまるで銀河が天上の九つの宮殿の門から落ちてくるようだった。

その中に入るとまず目の中に飛び込んで来たのは大きな円形のコンクリートで出来たプールでまわりはみんな金網で囲まれている。その中心からパイプを使って水を流しているらしい。その水の流れでプールの中には川の中と同じような水の流れが出来るらしい。その水の中にはまだ成長しきらない鮎が泳いでいる。魚は泳いでいなければ呼吸が出来ないということを聞いたことがある。その真偽はわからない。あるいは餌を食べやすくして成長を促すためだろうか。プールのうしろにはトタン屋根の大きな切り妻の屋根の倉庫か事務所のようなところがあってその建物の側面は四角く入り口があいていた。その建物のうしろは山の斜面になっている。そしてその建物の隣には時代がかった木製の平屋が建っている。平屋の前には梅干しの漬け物の大瓶がいくつも並んでいる。トタン屋根の倉庫のようなところも段差があって二三段の階段を上ってそこにあがれるようになっている。

 その回流式プールの金網のかげになっているところからじょじょに猫車を押した人影が上がってくる。じょじょにその人影が見えてくるということはそこがゆるやかな坂になっているらしい。その男は頭にタオルを巻いている。猫車には山盛りに何か積んである。その山にはスコップがささっている。よく見るとそれは配合飼料のようだった。坂を上がってくるときにも、男は猫車のバランスをとるのが大変なようだった。男にとってはだいぶ重い荷のようであり、ふらふらと坂を上ってきた。最後の坂を上りきるところでは男は顔を真っ赤にして坂を登り切った。その男がその仕事に一心に取り組んでいることはわかった。上に上がりきると猫車をいったんプールサイドのコンクリートの上に置いて、頭に巻いていたタオルをほどいて顔の汗を拭いている。それから思い直したように頭にそのタオルをまき直すとまた猫車の取っ手を持って持ち上げた。それからまた口をへの字に曲げながら配合飼料が山と積まれた猫車を押してこっちに持って来た。プールのちょうど入り口から半周ほどのところに太い水色に塗られた鉄管があってそこから勢いよく水が流れ落ちていて水煙がたっている。男はそこまで猫車を押して来た。そこで猫車を停めると斜めに刺さったスコップを両手で引っこ抜くと配合飼料をスコップ一杯にすくい取ってプールのなかほどにばらまいた。飼料が水面に落ちて行くとそれを求めるあゆの群が寄って来て突然の雷雨が泥道を叩くように水しぶきが生じた。こんな水しぶきの立ち方は七人のさむらいという黒沢明の映画の集団による入り乱れての戦闘場面だけだったような気がする。その様子を見ると満足したように男は再びスコップでえさをすくい取るとふたたび水面にばらまいた。そして数え切れない数のあゆが水面に銃弾の雨をふらせるように水面近くで身をくねらせた。あゆたちの生に対する渇仰の象徴のように。男はそんな行為を二度三度と続ける。

 余はそれがおもしろくプールを取り囲んでいる金網のそばに思わず近寄ってその様子を見ていた。鯉の滝のぼりというものがあるが、まるであゆの滝のぼりのようである。

 山間の霧の海の中に置かれたこの施設が、大きな噴水のように思えた。すべてを見せれば神秘さや神々しさが失われる。杉や檜の衣装をまとった女王はうすぎぬを身にまとっていなければならない。この地のどこかにその衣のしっぽがどこかにあるのかも知れない。この噴水もそのしっぽの一つなのかも知れない。しかし、その源流の一つを見つけたという驚きでもない。はじけるようなあゆの姿を見た満足感だけでもない。その男が一心不乱に働いて余の存在にも気づかない様子に心をとめたのである。男は額に汗をかいていた。

 「あみ子ちゃんの家に泊まっているお客さん」

スコップを持つ手をゆるめて男は首にタオルを巻いたまま、余のほうを振り向いた。それから空になった猫車にスコップを置くと余とのあいだの境になっている金網のところまでやって来た。

「こんなところまでなんで来たんですか」

男は額のところの汗をタオルで拭った。

「散歩をしていたら、ここまで来たんだよ。きみは実にいろいろな仕事をしているじゃないか。連絡船の乗務員から始まって、野球のボールの回収、そしてあゆの養殖場で魚に餌をあげているのかい」

「えへへへ」

滝沢繁明はやはりタオルで顔の汗を拭きながら照れ笑いをしている。

「おにぎりをたくさん持って来たんです。一緒に食べませんか。ちょうど、午前中の仕事も終わったところなんです」

滝沢繁明はそのおにぎりが誰の手で握られたものかは言わなかった。滝沢繁明はもとに来た坂を今度は下って金網の同じ側に来た。余が同意すると

「こっちで食べましょうよ」

と余を誘った。滝沢繁明が余を誘った場所は大きな切り妻の三角屋根のほうでなく、木造の板張りの壁を持った弓道場のようなところだった。コンクリートのべた板みたいなものが無造作に置かれて階段となり、その板と板とのあいだには雑草が生えていて、板のはじのところもそうなっている。その板は風雨にさらされて砂のざらざらした表面が表に出ている。板のはしのところには大谷石の段々がくっっいていて、背の低いこびとの手すりのようだった。大谷石のだんだんの上には金魚鉢のようなかたちのした鉢が乗っていて万年青みたいな色の濃い葉の植物が植わっている。その向こうにはいくつも区切られた四角い池があって水が水中の微生物のためか、お茶のようにどろりとした感じで中が見えないのだが魚が泳いでいるようだった。その四角い池も上から下に水が巡回するように段々になっていた。その朽ちた階段を登り切るとプールのところから見えた弓道場のようなところに達してそのまわりには大きな火鉢のようなものが並んでいた。その建物の窓から中をのぞくことが出来て、その中にはコンクリートで出来た、朽ちた大きなプールみたいなものが出来ていて、しかし、その中には水は張られていなかった。そしてコンクリートは灰褐色の色をうせて黒くなっている。火鉢の並びのところに渋茶みたいな長椅子が置かれていて滝沢繁明は余をそこに座るように誘った。

「ここ、ここ。ここに座ったらいかがですか」

滝沢繁明の座った横には竹の皮で包んだ大きな握り飯の包みと湯飲みが二つ、それに中国製の魔法瓶が置かれている。余はその握り飯が少なからず大きいことに驚いた。余が座ると滝沢繁明は文鳥の水容器のような茶碗にお茶を注いだ。白く厚い陶器の中にレモン色の液体が八分目までたたえられた。余はその茶碗を口のたりにまで持ってきながら

「那古井の温泉にこんなところがあるなんて思いもしませんでしたよ。それにしても滝沢さんは実にいろいろな仕事に就いていられるのですな」

とさっきと同じようなことを聞いた。

「この後ろにあるいけす、今は水も張っていないんですが、ここが最初に魚の養殖がはじめられた場所なんですよ。この那古井では歴史的な場所ですね。さっき、僕が鮎に餌をやっていたでしょう。あの回遊式のプールのほうは十年ぐらい前に出来たんです。それまではここで鮎の養殖をやっていたんですよ。川から水を引いて来て水が流れるようにしてですね」

「猫車を押していたとき、滝沢さんはふらふらとしていましたよ。随分と重いんですか」

「坂を上る作業がなければそんなにでもありませんよ」

滝沢繁明はおにぎりを頬張りながらにっこりとした。

「貴殿は随分とよく働きますな」

すると滝沢繁明は照れくさそうに苦笑いをした。

「いつだったか、お客さんに、茶店のところで僕が泣きわめきながらノートをあなたから奪い取ったことがありましたね。覚えていますか。照れくさいな。あのときは自暴自棄になっていたんです」

照れくささに乙女のように顔を染めた滝沢繁明が横に座っている。

その気持ちは余にもわかった。余もつい数日前に同じ気持ちを味わっている。

「もちろん、あみ子ちゃんと別れることになったからなんです。でも僕は考えたんです。僕の家が不渡りを出して経済的に苦しくなってあみ子ちゃんと別れなければならないとしても、それは決して運命ではないんだ。単なる事象に過ぎないんだと考え直したんです」

この若者は自分の不幸を運命とは考えていない。歩いているとき、向こうから飛んで来て顔に当たった木の葉ぐらいに考えている。

「だから、うんと働いて借金を返すことが出来たらあみ子ちゃんと結婚出来ると思うんです」

「あみ子ちゃんを愛しているのかな」

「アイ ラブ アミコ」

若者は言った。若者の瞳は澄んでいた。

余は神ということを考えてみた。この若者はあみ子と結婚することによって幸福になると信じている。あみ子が幸福のもとだと考えている。その幸福を得るために身を粉にして働いている。と同時に神を信じられない哀れな人間のことも考えてみた。いろいろな情報が入って来て、人は虚栄心、それも知的虚栄心を持ったりすると、神を信じなくなる。神という言い方をすればあまりにも神秘主義的すぎる。それはまた自分の運命を握っているかも知れない何者かのことでもある。

 芥川龍之介の箴言にいい人というのがある。

いい人の定義というのが

 好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのによい。第二に不平を訴えるによい。第三にーいてもいないでもよい。

というものがある。最後にはいてもいなくてもいい人のことで、神もだいぶ見限られたものである。これは近代人における一般の神というものの考えと似ている。芥川龍之介は近代人であった。そして彼は神を信じることが出来なくて自殺した。

 しかし、この若者にとってあみ子は神なのだ。それはあみ子が彼に絶対的な影響力を及ぼしているというわけではない。自分の現世的な利益を越えたものであるのかも知れない。神でもあり、神の創った設計図そのものなのかも知れない。

 つまり運命の人という言い方でも言うことが出来る。その人が運命の人なら、ふらふらとすることはない。近代では自らの運命を自らの手でつかめという。つかんでもつかんでも次の運命がやってくる。しかし神にしかれた道ならばその道を真っ直ぐに進めばいい。黒田如水、水のように運命に身をまかせるのだ。滝沢繁明は黒田如水であった。運命の人は向こうにどんとひかえているのだから。

純愛という二文字をしっかりと胸に抱いてこの若者は生きている。たとえこの若者のあみ子に向かう情熱に不純なものがあったとしても彼は一直線の道を歩いている。この意味で純愛である。燃え上がる純愛である。余も何か幸福になる。まだ世の中は捨てたものではない。余は若者に聞いた。

「いつから、あみ子ちゃんを愛し始めたのですかな」

余はあみ子と滝沢の家が古い昔からの因縁でいつかは結ばれる仲だということは聞き及んでいた。しかし、滝沢繁明の心の中にいつ、この恋の卵が生じたのか。

すると滝沢繁明は恥ずかしそうに話し始めた。

「あみ子ちゃんと僕は那古井キノコ狩りクラブというものに所属していたんです。天狗山にクラブの連中数十人ときのこ狩りに行ったときのことなんです。でも、なんにもなかったんですよ。いつもと同じような那古井の自然でした。平々凡々。みんながてんでばらばらにキノコ狩りに打ち興じていて、ばらばらに広がっていました。ちょうど空に変な黒雲が生じて雲行きが妖しくなっていました。僕はきのこ狩りなんてばかばかしくて木の根元のところで昼寝をしていたんです。そうしたら、急に胸が苦しくなって、お前に殺された恨みだと言って、あとからあとからゾンビがやって来て僕の上においかぶさってくるんです。そのとき、苦しくって苦しくって、ゾンビたちにまとわりつかれたまま、闇の中に落ちて行きました。僕が声にならないような叫び声をあげると、急にさわやかな風が吹いてきて、楽な気持ちになって目を覚ますとあみ子ちゃんが上から僕の顔をのぞき込んでいたんです。そのとき、この世の中にこんなきれいな人がいるんだろうかと思いました。そのときからあみ子ちゃんは幼なじみのあみ子ちゃんでもなくて、因習の許嫁のあみ子ちゃんでもなくて、僕のあみ子ちゃんになっちゃったんです」

 それから数日後、余は阿古井の街から半病人のような顔つきをして那古井の宿に戻って来た。余は誰にも顔を見られるのを拒んだ。途中でアルバイトの女の子からも声をかけられたが顔を隠すようにして自分の部屋に入った。アルバイトの女の子は余の気が違ったと思ったかも知れない。それでも余は夕方頃になるとなんとか気分を普通に持ち直し、宿の中庭に出ると手に持った木の小枝で地面に相合傘を書いてその中に滝沢繁明とあみ子の名前を入れた。そして傘の上に純愛と大きく書いた。別に幾何学に没頭していて兵士に殺されたアルキメデスを気取っていたわけではない。裸でギリシャ語でわかった、わかったと叫びながら町中を走るような真似はしない。しかし余はその相合傘にひとり見入っていた。傘は一筆描きで描きうる。傘の上の純愛という文字は余の心全体を鷲掴みにして上へ下へと無理矢理引きずりまわすような何かがあった。すると何者かが飛び降りて来てその相合い傘を踏みにじった。そばに大きな石があってそこから飛び降りてその相合い傘を土足で踏みにじったのだ。余が顔を上げるとそこには(●´ー`●)安部なつみが売春宿の親父のような表情をしてせせら笑っていた。

「なにが、純愛よ」

(●´ー`●)安部の鼻の穴が見える。それが尊大さの象徴のように。(●´ー`●)安部の足下にひざまずいている余の頭頂に侮蔑の息を吹きかける。山を霧がおおうように、毒流が致死の毒霧をまき散らすように。(●´ー`●)安部の体育館履きみたいなゴムの運動靴が地面に来着したときに大きな土ぼこりがまきあがった。

 不純物の混じった王冠を見破る法則を見つけたアルキメデスは帝国の無謀な兵隊に刺し殺された。余は妖怪(●´ー`●)安部の扁平足に踏み殺されるかも知れない。

 「余の描いた相合い傘から足をのけろ。不浄の妖怪め」

「何よ相合傘なんて。あたいはそういう甘ったるいものが大嫌いなんだよ」

相変わらず(●´ー`●)安部はせせら笑っている。

「愛は甘くはない。純愛は吹雪ふく雪原に結晶する情熱の集合体のようなものだ。その炎はどんなに風が吹いても、どんな強固なのみでこわそうとしても壊れない透明の器に入っているのだ。そして外の世界に恩沢の光と熱を与え続けるのだ。お前にはそんな真似はできまい。あみ子ちゃんと滝沢くんのカップルだからこんな奇跡が起こせるのだ。それでいいのだ」

余は(●´ー`●)安部の顔を見上げながら言った。古来より幾多の哲人がこれらの暴威に命を落としたことだろう。フランス化学界の雄、ラボワジェが革命派を名乗る山賊のやいばに命を落としたとき、ある百科全書派はこう言った。

 フランス化学界は百年の歴史を失った、と。

「なんども言っているだろ。あたいは純愛だとか、プラトニックラブとか、初恋だとか、そんな甘ったるい言葉が大嫌いなんだよ」

(●´ー`●)安部はやっぱり腕を組んで余の地面に描いた相合傘の上に立っている。つい最近、妖怪と契約をまじわしたのに、これはおかしいと余は思った。余が主人で妖怪(●´ー`●)安部は余の召使いであるはずだ。しかし、余と(●´ー`●)安部が肉体関係を結んでいくうちに(●´ー`●)安部の態度はますます横柄になっていった。どちらが主人か召使いかわからなくなった。そして(●´ー`●)安部の言動にも行動にも狂気にも似たとげとげしさが表出してきたのもまた事実だ。その(●´ー`●)安部が純愛という言葉に敵意を表しているのもうべなるかなである。悪魔が崇高な十字架を意味嫌い、守銭奴が聖人にばけつの水をかぶせる今日である。そして今度は今飛び降りた岩にこしかけると足を組んで十九世紀のフランスの貴婦人が使うような長煙管を妖術で取り出すとスパスパとやりだした。たばこの煙を口から出すたびに足を組み替える。そのたびに内股がちろちろと見える。それは見方に寄ればパリの裏町を根城にして自由に徘徊して、貴族の館に忍び込み、ビーナスの涙とか、アフリカの黒貂とかいった名前のついた宝石を盗み出してくる女盗賊のようだった。しかし、恥ずかしいが告白するとその(●´ー`●)安部の姿に余はすっかりと心を奪われていたのも事実なのである。

(●´ー`●)安部は性的に余の優位に立っている。この事実は動かしがたい。

「アルバイトの女から聞いたけど、半病人のような顔をして那古井に戻って来たそうじゃないか」

「余は元気な顔をして戻って来たのだ」

「嘘を言いでないよ。宿の暗がりの部屋でアルバイトの女に水銀の入った軟膏は置いてないかと聞いたそうじゃないか。それに川o・-・)紺野さんがお前の姿を薬屋の前で見かけたと言っているんだよ」

「嘘だ。ぶっ、侮辱だ。誰が水銀軟膏なんて求めるか」

余はどもりながら(●´ー`●)安部の方に向かってつばを飛ばした。

(●´ー`●)安部はその様子がよっぽどおかしかったと思われる。岩の上で腹を抱えて笑い出した。

「むきになるんじゃないよ。今夜も可愛がってやるからな。わたしというものがあるのに、他の女にお前が興味を持つなんてことがあるとは思えないからな。わたしの身体を味わった男は一生、わたしから離れられないのよ」

偉い自信だ。余は内心反発するものがあったが黙っていた。しかしそのとおりである。余はもしかしたら、テイク2の深沢のように、もしくは高知のぼるのように、世の男のすべての嫉妬と羨望を一気に受けるべき身分なのかも知れない。それでいいのだ。きれいで金持ちの女優のペットとして毎晩可愛がられるという至福の身分。これはすべての男が望んでも果てし得ない境遇ではある。しかしその余の内心を見透かすような(●´ー`●)安部の発言、許せん。余のプライドはいたく傷つけられる。

しかし(●´ー`●)安部は何を言っているのだろう。水銀軟膏は最近では発売されなくなった。発ガン性の疑いがあるからだ。でも水銀軟膏と聞いただけで男なら何に使うかだいたいわかるだろう。

「でも、純愛はあると思う」

おこられた小学生が不満を言うようにぽつりとつぶやいた。その言葉をやはり(●´ー`●)安部は聞いていた。

「なんだって、純愛はあるだって。おもしろいことを言うじゃないか。わたしにそんなことを言う資格がお前にあるのかい。今日、お前は半病人のような顔をして帰って来たね。その理由はわかっているんだよ」

「なんだよ」

「なんだとはなんだよ。わたしの身体がなければ一日だって生きていけないくせに」

「ふん」

(●´ー`●)安部は余の手をとると自分の股間に余の手を押しつけた。(●´ー`●)安部はパンティをはいていなかった。

「昨日も三回もやったわよね」

(●´ー`●)安部はうるんだ目をして売春婦のように余の瞳を見つめた。

そしてまた声高々に大笑いを始めた。

 余は本当にどうかしていた。余は有頂天だった。余は熱病にかかっていたような気がする。あの日、あのとき余はどうしていたのだろう。確かに春にしては少し変わった天気だった。暖かいという感覚を通り越してなま暖かい風が吹いていた。赤煉瓦の壁の前では春のさかりをつげるもんしろ蝶が生の喜びを高らかに歌うように乱舞していた。

 余に不可能なことはないような気がしていた。

妖怪(●´ー`●)安部は余に金ぴかの海外製高級腕時計を送ってくれた。そして銀行の通帳をくれた。その通帳にはいつも数字のゼロがいくつも並んでいた。

 余はなんでも出来るような気がしていた。

余は阿古井の街に行った。阿古井の街には場外馬券場がある。その前日から余は神の啓示を受けていた。余に祝福があるという天の言葉を聞いていた。

 余は一財産を作る気になって通帳の全額をおろし、さらに天一報という馬にかける気になっていた。天一坊ではない。天一報である。天一坊では葵転覆計画になってしまう。なにしろ余には神がついていたから、通帳の金では足りない。天一報は必ず来る。来るのだ。余にはわかっていた。余は通帳の金を元手にしてさらに金をつぎ込むことを考えた。そこにおばあさんの顔をロゴにした金融会社が見えた。余はそこで通帳の全額を担保にしてその十倍の金を借りた。余はその全部をつぎ込んだ。余は高額納税者になるはずだった。

だった。

「ばか」

余はうつむいた。でも(●´ー`●)安部がなぜ、そのことを知っているのだ。

「これがなんだかわかる」

(●´ー`●)安部は一枚の紙切れをひらひらさせた。それは余の借金証書である。

「騙したな」

「おっと、危ない。これはコピーよ」

「妖怪、やっぱり、お前は妖怪だ」

「妖怪、いいじゃない。わたしが妖術を使えばこんなことをするなんて朝飯前よ。架空の金融会社を作ることなんて朝飯前よ」

「で、なにが、お前の要望なんだ」

「とりあえず、わたしには逆らえないってことね。もう、主人と召使いの関係は逆転しているってことなの。こんなことが公になったらあなたの家名はどうなることでしょうね。あなたはわたしの身体におぼれていればそれでいいのよ。さて、とりあえず、まず、ここで一発やる」

(●´ー`●)安部は挑発的な目で余を見つめた。

「いやだ」

余はまだ少しの自負心というものをかろうじて持っていた。

「我慢しなくていいのよ。ここでやりたいんでしょう。わたしの身体が欲しいんでしょう。あげるわよ。それに許してあげる」

「なにを」

「わたしのことを「なっち」と呼んでいいわよ。さあ、いいなさい。なっち、ここでやろうって。そうしたら、ここでからだを開いてあげるから」

「うう。うう」

余は心を抑えた。ここで「なっち」と呼びかけたら余の心は心張り棒を失ってしまう。自分というものがなくなってしまう気がしたからだ。

「な、な、な、な、な、なめこ汁赤出汁。誰とでも遊んでくれるなっち。やりまん女なっち」

すると岩の上に座っていた(●´ー`●)安部はその上に仁王立ちになって、実際よりも巨大化したように余には感じられた。そして天上には漠として黒い雷雲がおこり、あたりは暗くなった。そして雲の中では巨大な龍が泳ぎ、無尽劫の大きさの鉄輪を地上で巨人が押し回しているようにごろごろと低く雷が鳴った。と同時に瞬光が天上と地上のあいだを切り裂いた。一瞬にして天と地が無数の太い稲妻で結ばれた。光の塊が爆発したようにあたりは明るくなり、

天狗山の中腹に生えている一本杉がめりめりと音を立てて折れた。

「まったく、強情な男だね。なっちと一声呼べばいいんだよ」

「でも、純愛だってあると思う」

余は雷の恐ろしげな音に両耳をふさいだ。

「純愛だって、なにをまた寝ぼけたことを言っているのだ。この男は。世の中にそんなものはないんだよ。わたしが一番嫌いなのは純愛だとか、プラトニックラブだとか、そんな歯の浮くような言葉なんだよ」

「じゃあ、どんな言葉が好きなんだよ」

余は虚勢を張った。そのくせ恐ろしさに身体はぶるぶるとふるえていた。

「ふん、言葉なんて虚しいものはわたしは信用しないよ。わたしが信ずるものはこの身体、そうセックスよ。身体と身体の絡み合いよ。粘膜と粘膜の交合よ。わたしはこの身体で世界中の男を跪かせてやるからね。ふほほほほほ」

(●´ー`●)安部は組んでいた膝をまた組み直して片足を上げた。(●´ー`●)安部の白い大根足が宙を舞った。

「でも、でも、純愛って存在するよ。あみ子ちゃんと滝沢くんは純愛中なんだ。ふたりはお互いに思い合っているよ。ふたりの愛は永遠だよ。誰がどんなことをしたってふたりのあいだを引き裂くことは出来ないよ」

「まったく、何を言ってるんだね。このうすらとんかちが。永遠の愛なんて存在しないんだよ。男と女の愛なんて薄紙を一枚裂くよりも簡単なんだからね。ふん、こんなところで時間を食っちまった。わたしは一稼ぎしに行かなきゃならないんだからね」

(●´ー`●)安部の身体のまわりにいちだのつむじ風がおこってその渦の中に(●´ー`●)安部は隠れて、その見たこともないような外国のねじれたマカロニみたいな風ごと(●´ー`●)安部の身体は空中に飛んで行った。

 「安部、また稼ぎに行ったな」

余は(●´ー`●)安部に殺されるかも知れないと思ったのでひとまず安心した。

余は那古井の宿に戻ると京都の北の方にあるお寺みたいに緑色の苔一面に覆われている中庭の上に裸足でおりた。なんというお寺だったか。一度行ったことがある。高山寺だっただろうか。はっきりとしたことはわからない。足の裏を心地よい刺激が刺す。建仁寺垣で覆われた庭の中には山の方から清水が引いてあって斜めに切った竹の切り口から水滴が落ちる仕組みになっている。その落ちて行く先にはうずらの卵みたいな石がたくさん敷いてあって水琴窟が入っているらしい。水で濡れた石の色は宝石よりも美しいとは言わないが心をなめらかにする。黒緑をしている。耳をすますとその音が微かに聞こえる。その瓶のまわりに盆栽みたいに小型な紅葉の木が植わっている。建仁寺垣の向こうには春の海が見える。どこまでもたおやかでおだやかである。余は井川はるら嬢のことを考えていた。しかし、このときは余の心を不快にする原た泰三の顔は浮かばなかった。これはどういう精神作用だろうか。春草が秋になれば枯れて地に倒れるように記憶というものも日々更新されていく。夜と昼があり、眠りというものがあるのもこの更新作用を有効に働かせるための神様が人間に与えてくれた贈り物だというようなことを医学者が言っていた。まだ失恋の痛手から逃れられぬ余ではあるが、原た泰三の顔が細部まで余の頭に浮かぶだんどりからは遠のいていた。時間は有り難い。

 井川はるら嬢にもちらりと十二倍くよう眼の硯のことを話した。十二倍くよう眼というのは余の発明である。眼が十二個あるからそう名付けた。しかし、最近、その包んだ袋を開けて現物を見たら九つしか眼はなくなっていた。だから今は九倍くよう眼の硯と呼ぶしかない。井川はるら嬢の話しによるとその蓋も大事なものだそうだ。そのことは観海寺の小坊主もそう言っていた。宗教的な意味合いがあるのかも知れぬ。余は実家の納戸からそれを持って来るとき、たいして大事なものではないと思っておったから、ほっぽらかして置いた。そんな大事なものならここに本体と一緒に持って来なければならんだろう。余は実家の母親にそれを那古井の宿まで郵便でも運送屋でもよいから送るように電話をかけた。それが一週間前のことだ。それがまだここに届かないのはおかしい。余はアルバイトの女に駅のそばにある郵便局へ行ったら余の荷物が届いていないか調べてくれと頼んでおいた。

 縁側のところにアルバイトの女がやって来た。余は裸足になっていた足にまた下駄を急いで履いた。

「お客さん、郵便局へ行って来ましたよ」

「そうか、ありがとう」

「もう、郵便局にはお客さんの荷物は届いていたそうですよ。でも、この宿に届く前にお客さんの身分証明書を持った人が来てその荷物を持って行ったそうですよ。以上、わたしは洗濯物があるから行きますからね」

アルバイトの女は遠くからそう言うと縁側の奧の方に小走りで洗濯物の駕籠を抱えながら行ってしまった。余はもっと聞きたいことがあったのに手元不如意な感じが残った。でもなんで井川はるら嬢はそのふたも大事だということを言ったのだろう。余は失恋の痛みも乗り越えて井川はるら嬢のところにまた行かなければならないかと思った。心苦しくもあり、また楽しみでもあった。

 余が苔を裸足の足で踏む独特の健康法を試みたあと、縁側に腰掛けておじいさんのようにぼんやりと海を見ているとニイニイという音がする。ふり返るとそこには川o・-・)紺野さんと(ё)新垣が立っていた。

「ご主人さま」

(●´ー`●)安部はすでに余のことを召使いのように扱っていたが川o・-・)紺野さんは余のことをまだ「ご主人様」だと思っているのかも知れない。(ё)新垣はなんと考えているのかわからぬ。少なくとも犬とアメーバーの間に存在する生物には違いないと思うのだが。(ё)新垣の歯は相変わらず鋭い、くるみの殻も砕くかも知れない。このような頑強な歯を見たのは中国びっくり人間発見という番組に出て来た四川省安南群在住のリー・ウンチョンさん以来である。リー・ウンチョンさんは天井からつり下げられた鉄の線に噛みついてそのまま空中に浮かんで三十回転もした。余はテレビに(ё)新垣を出して一儲けしようかと考えたこともあった。その(ё)新垣も上目遣いに余の方を見ている。これは余に頼み事がある証拠である。

「ご主人さま、錦帯橋につれて行ってください」

川o・-・)紺野さんと(ё)新垣が並んで余の方を向いていた。

「錦帯橋、それは岩国にあるものだろう」

錦帯橋、山口県の岩国市にある錦川を横断して五つの橋をつらね、架橋となす。半円のような個々の橋が五つつらなった姿は美しい。江戸時代に作られた。しかしここは山口県ではない。

「ここは山口県ではない。残念ながらそこには行けないよ。少なくとも駅で切符を買って列車に乗らなければならない」

「あみ子ちゃんがこの郷にも錦帯橋があると言いました」

「ニイ、ニイ」

(ё)新垣も同意する。

「場所はわかるのか」

「あみ子ちゃんが地図をくれました」

余は川o・-・)紺野さんと(ё)新垣をつれて散歩がてらにそこに行ってみることにする。川o・-・)紺野さんの手には確かにその地図が握られている。その橋はこの郷のはずれにあるそうな。この郷に最初に駅に降り立ったとき、鮎が泳いでいる川があった。その川の上流に向かって河畔を歩いて行くらしい。水が流れて砂が堆積しているところはそのまま歩いて行ける。流れが岩を切り取っているところはそのまま進めば水の中に落ちる。陸の方へ上がって熊笹をかき分け、林の中を進まなければならない。そのときもいつも川を意識して林のあいだから川の流れを見て、渓流の音を聞きながらさきに進まなければならない。河畔を歩くと云っても岩のごろごろしている河原を歩いて行くので散歩のようではない。歩いて行くというよりも大きな岩を乗り越えて行く。岩の横に川の流れで岩が削られたところがあって、そこが測道のようになっているが人が一人通るぐらいの幅しかなく、横の岩にへばりつくようにして上流に向かって行く。そんな岩登りを何度か繰り返すと比較的歩きやすい川端になった。しかし、雨期になって川の水が増えたらここは川の底になるだろう。

川o・-・)「ご主人さま、わたし暴走機関車という映画を見たいんです」

「なんで」

川o・-・)紺野さんの言葉は余の神経を不安定にした。川o・-・)紺野さんは何で暴走機関車なんてものを持ち出したのだろうか。その暴走という言葉に余と(●´ー`●)安部との秘め事に対して川o・-・)紺野さんが何か考えているのではないかという不安感である。川o・-・)紺野さんが何かを意図してその暴走を持ち出しているのではないかという気持ちである。(●´ー`●)安部と余の関係が逆転していることを川o・-・)紺野さんが知っているのではないかという疑念である。しかしそのときまで余は暴走機関車なんて題名の映画があるなどということはまったく知らなかった。しかし、それは実際にはあったのであるが。映画界の巨匠、故黒沢明が脚本だけを書いていて外国人が映画化した映画があったのだ。しかし、もう一度言えば余の精神の平衡を少し狂わせたのはその暴走という言葉のニュアンスである。それが暗喩でないと誰が言えるだろう。それの仕掛け人が川o・-・)紺野さんだと言っているのではない。それが目に見えない何者か、暴走、つまりそれは(●´ー`●)安部の行動そのものに違いない。(●´ー`●)安部のセックス漬けの生活、誰とでも寝る(●´ー`●)安部。余は毎日のように(●´ー`●)安部とのセックスに夜を費やしている。しかし、相手は余だけではないのだ。さまざまな男とやっている。それの筆頭はお塩だろう。それを単なる性欲の所作だとすれば淫乱雌豚の(●´ー`●)安部だと言ってもあの妖怪の名誉に傷がつく。(●´ー`●)安部とのセックスにより、余は解放感を味わう。もちろん、(●´ー`●)安部が心の中に何を考えているのかはわからない。しかし、肌と肌を接して唇を重ねているときにはたとえ心の中がどうなっているかわからないにしても、(●´ー`●)安部のすべてをわかったような気持ちになる。実際、余は(●´ー`●)安部の身体のすみずみまで知っている。夜、一つの大きなふとんの中には川o・-・)紺野さんもいる。しかし、余は川o・-・)紺野さんの姿には不安を感じる。川o・-・)紺野さんとはやったことがない。川o・-・)紺野さんはまだ若すぎる。(●´ー`●)安部のようには行かない。もしかしたら(●´ー`●)安部の身体を通り抜けて行った男たちはみんな(●´ー`●)安部のことをすべて知り尽くしているのかも知れないと思っているのかも知れない。そこで男は詐欺に会うのだろう。枕さがしでさいふを抜き取られることになる。妖怪とはいえ罪なことをしている(●´ー`●)安部である。永遠に年をとらず男の精液を絞り尽くして生きていく(●´ー`●)安部。そして(●´ー`●)安部とセックスをした数え切れない男たち。なるほど妖怪というものは恐ろしい。妖怪が人間と共存出来ないのは道理である。

 川岸に生えている木がトンネルのようになって薄暗くなっている上流の方から笹舟のようなものが流れて来る。小さな舟だ。艫にはエンジンがついているようだった。川の流れに上下している舟の姿が大きくなっていくにつれて傘を被った船頭の姿も見えた。

滝沢繁明である。今度は滝沢繁明は簑笠を被って船頭の格好をしている。いやはやいろいろな格好をする男だ。小舟が上下するたびに滝沢の姿も上下する。余は大きく手を振った。川o・-・)紺野さんも手を振った。(ё)新垣も手を振った。滝沢繁明は舟のエンジンを逆転させて川の流れに逆らう。微妙に舟はゆっくりと下り始める。それと同時に滝沢繁明は舵を微妙にいじくる。小舟は川岸に寄ってほとんど停止している状態になる。舟の中からとも綱を岸の方へ投げ捨てる。川o・-・)紺野さんと(ё)新垣がその綱の方に走り寄って行く。

(ё)新垣が綱を口でくわえた。

「そこに地面に根を張っている岩があるでしょう。そこに綱をくくりつけてください」

滝沢繁明が小舟の中から大きな声で叫んだ。(ё)新垣が綱を口にくわえたまま、その岩の方に走って行った。余も川o・-・)紺野さんも一緒にその綱を引っ張っている間に(ё)新垣がその岩に綱をまきつけて結んだ。小舟は川岸に着いて水の流れにしたがって木の葉のようにぷかぷかと浮かんでいる。水が透明だったので余はこのときはじめてこの手の舟の底のほう見た。小舟の喫水線のところから流れに沿って斜めの線状が幾筋も川面に走っている。これで船頭がいなくてもこの小舟が流れていく心配はない。簑笠地蔵のような格好をした滝沢繁明が河原に降り立った。

余「変わったところでお会いしますな。今度は川下りの船頭さんですかな」

滝沢「ええ、上流の方へお客さんをつれて行って帰るところだったんです」

滝沢がなんで船頭をしているか、その理由は言わずもがなである。余の横には川o・-・)紺野さんも(ё)新垣も立っている。滝沢繁明は川の前に立っている。川の向こうにはもくもくと生えている木の茂みがいくつも折り重なり、横方向にも並んでいる。

 (ё)新垣は珍しいものを見るように滝沢を見ている。

滝沢「そうだ、おにぎりがあるんです。食べませんか」

滝沢は岸につながれている小舟の中をのぞき込んだ。そして不安定な船底に手を伸ばすと熊笹の皮に包まれたおにぎりの包みを取り出した。握り飯の好きな男だ。でも誰が握ってくれたのだろう。余はそんな考えがふと起こった。しかし、余はそんな探偵みたいなことをやる気にはならなかった。その包みを川o・-・)紺野さんと(ё)新垣はじっと見つめている。われわれは少し川端から離れた大きな岩を椅子がわりにして四人並んで座った。滝沢は大きなおにぎりの包みを左手で膝の上にのせた。余は一瞬おやと思った。滝沢の左手には白い包帯が巻かれている。

余「左手をけがしているようですが、どうしたのですかな」

滝沢「何でもないんです」

滝沢はわざとなんでもないんだということを強調するように握り飯の包みを解く、するとちょうど良い具合に海苔をまいた大きなおむすびが四つ出てきた。滝沢はそのおにぎりを四人で分ける。余はそれにかぶりつく。

滝沢「川の上流に三人で上がって行くつもりですか。どこへ行くつもりですか」

その問いには余ではなく、川o・-・)紺野さんが答えた。川o・-・)紺野さんの後ろにはいつのまにか大きな水槽があって、その中には七十センチもある大きな金魚が泳いでいる。それはいつもと同じことだった。

川o・-・)紺野「錦帯橋を見に行くつもりなんです。この地図はあみ子ちゃんにもらいました」

「はあ、錦帯橋に」

滝沢は間延びしておむすびにかじり付きながら川o・-・)紺野さんの方を見た。

「錦帯橋って橋が五つも架かっているのですかな」

滝沢はおもしろそうに笑う。

「橋は一つだけですよ。この川の両岸を結んでいる岩で出来た橋なんです。でも、人間が作った橋ではありませんよ。自然現象で出来た橋なんです」

「じゃあ、人が使っているというわけではないのですかな」

「いいえ、使っていますよ。どういう具合で出来たのか、よくわからないんですけど、この川の両側を繋ぐような大きな岩の塊なんです。その岩の中に大きな穴が開いていて川が流れているんです。いつの時代だかわからないんですけどその岩の上の方を削って人が通れるようになっているんです」

「その上を通るとどこへ行くことが出来るのでしょうかな」

「隣の県に続く近道なんですよ。昔からこの那古井の住民は一旗揚げるためにこの郷を出るときにはその橋を渡って行くんです」

「歴史的な橋なんですな」

「そうなんです」

四人並んでいるはずなのに並んで握り飯を食っているのは三人しかいない。余が横を見ると(ё)新垣は岩から降りて水たまりの前でパンダ座りをしながら透明な水たまりの方を見ながら握り飯を食っている。水たまりの中には一つの物体にエメラルド色と溶岩が冷めて固まる直前のような赤い色を持ったじゅん菜みたいなものが動きまわっている。よく見るといもりだ。(ё)新垣はそのいもりを見ながら何か音声を発している。余はこれまで(ё)新垣の持ちうる単語はニイガキ、とニイのみでそれの組み合わせですべての会話をこなしているとばかり思っていた。たしかにこのときの(ё)新垣の会話もこれまでの方法を踏襲していたが、一聴してこれまでと違う。いもりの動きに明らかに呼応している。(ё)新垣のニイ、ニイもニイガキももっと多彩で変化があり、感情の微妙なひだもあらわされていた。水の中のいもりも喜びを表現するようにさかんに動きまわる。そして(ё)新垣もときとして背中をそらして大笑いをする。

「ほら、(ё)新垣がイモリと話して喜んでおるぞ」

「体表面の色が青っぽくなっていますね。交尾期が近づいているのかもしれません。あのイモリはおすでしょう」

「なんで」

「だって(ё)新垣さんはめすなんでしょう」

余は妖怪たちの出現がうつぼつとする日々を過ごしはじめてから、つねに気になっていた疑問があった。妖怪たちと情誼を通ずる間柄となってから、妖怪たちには前世があり、前世で遂げられぬ思いのために妖怪になったというようなことをほのめかされたりした。そのことについて本気で聞いたことはない。猿や栗鼠しか鳴かない山の中にいることがその質問をして見ようという気にならせた。余はイモリと遊ぶ(ё)新垣を横で見ながらその質問を川o・-・)紺野さんにして見ることにした。

余「妖怪たちよ。今、その答えを余に与えて欲しい。自分たちは前世では妖怪ではなく、この世に未練を残して妖怪になったのだと言ったではないか。余にその顛末を教えて欲しい」

「僕も聞きたいな」

滝沢繁明もおむすびをほおばりながら同意した。そのときはもう川o・-・)紺野さんはひとりおにぎりを食べ終わっていたので滝沢繁明は川o・-・)紺野さんの話しが滑らかに進むようにお茶を勧めた。川o・-・)紺野さんは進められたお茶をすすった。川o・-・)紺野さんはまったりとした顔になった。


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