第11回

第十一回

それであみ子の複雑な表情のわけがわかった。ふたりの恋人はなさぬ仲のふたりなのだ。次の日に観海寺に余はふたたび出向いた。あの哲学的な庭のところで余は井川はるら嬢にもっと聞きたいことがあったのだ。その目的のためでもあったが、井川はるら嬢の声を聞くのも目的だった。あの涼やかな声、そして美しい容姿。余は年甲斐もなく浮き立つ心で観海寺の中庭へ行った。すると例の中庭のほうから人の声が聞こえる。坊主の声が聞こえる。例のたいこ橋の影から縁側の方を盗み見ると縁側のところであみ子嬢が足をぶらぶらさせて庭のほうを見ている。

坊主「あみ子ちゃん、なぜ、悟ろうとしない」

庭を見ながら足をぶらぶらさせているあみ子の背後には太った観海寺の坊主、大徹がいる。志保田の家ですずりの鑑賞をしながらこの坊さんに会ったときはもっと衣をきちんと着ていたが、今は衣のえりのあたりが少し乱れている。その坊主の唇が下唇のあたりが突き出しているように見える。そして吐く息は見えないのだが少し息が乱れているようだった。坊さんは女座りをしてあみ子のすぐうしろに座っている。声だけは悟りきった高僧のように稟としていた。前には不同不二の乾坤を後ろには悟脱した坊主にはさまれてあみ子も随分と息苦しいことに違いない。あみ子は背後からいきなり公案をぶつけられたようであった。しかし、坊主の声に比べてその身体の方は随分と筋肉の緊張はほどけていて関節の両方に接続されている腱の引っ張る力はゆるみ、軟骨は楽をしているに違いない。坊主の問いにあみ子は無言だった。

あみ子「・・・・・」

無言のあみ子のそばに老僧は少し顔を近づけたようだった。

坊主「あみ子ちゃん、あなたはつりの名人ではなかったのか。雨月物語に僧が鯉の身体に乗りうる話しがある。ある日、僧の意識がなくなって気がつくと自分が鯉になっていて、水の中を泳いでいる。水の中で楽しく泳いでいたが、鯉に変化が起こった。漁師が来た。漁師につり上げられて自分の寺に買い上げられまな板の上で料理されようとしたときに、意識が僧のほうに戻り、僧はその鯉を料理するなという。そして鯉は川に戻されるのじゃ。わしが何を言いたいのか、わかるかな」

余にも坊主の言う話しの要領は得なかった。しかし大徹という名前のとおりもっともらしく話す。ましてあみ子には。

あみ子「・・・・・」

坊主「あみ子ちゃん、じゃあ、ここで話しを変えよう。あみ子ちゃんはようような魚を釣ってきた。どうすれば釣るのがむずかしい魚を釣ることが出来るのかな」

あみ子「魚の生態を研究すること。その知識を積むこと」

あみ子の釣りの腕前は二度しかともに行かなかった余にもよくわかった。あゆ釣り場ではあみ子愛用のつりざおのさきにあみ子の神経はつながっているようだった。いな、釣り竿のさきからさらに先の糸の先の釣り針にも神経の末端があったのかも知れない。海に行けば群青色の海の底に餌を投げ込み、その餌の匂いにつられて寄って来る魚の姿を見ているような風情があった。

坊主「魚を男と言い換えてもよし。あみ子」

いつの間にか呼び捨てになっていたそして自己の威厳を増すように少しだけあみ子のうしろの方に身をしりぞけた。こうした方が声はよく聞こえるのかもしれない。寄らば引け、ひかば押せ。逆説の真理は凡愚の人にはかゆくても手が届かないところをかかれているようで心地良い。ここで大徹は諭すように優しい調子になる。

坊主「魚の気持ちになることが一番だ。あみ子ちゃん。自分が滝沢くんの気持ちになることだ。自分があみ子ちゃんか、あみ子ちゃんが滝沢くんか。そこまでいくのだ」

あみ子「でも、言い伝えがありますわ。言い伝えを破ってセックスしたら彼の家は大損をだしました」

坊主「喝。あみ子、滝沢くんの心の中に入っていこうと念ずるのじゃ。目を覚ますのじゃあみ子ちゃん」

あみ子「・・・・」

余はこの坊主の行動を危ぶんだ。この坊主は西洋画で寺のふすまを描いたらどんなものかと余に聞いた。子供の描く画のほうが純粋でおもしろいと言った。余ははやとちりをして子供の方が純粋だからおもしろいのかと聞くとそうではないという。じゃあ、なぜおもしろいかというと子供の描く画には形がない。色だけである。そしてある場合はかたちだけの画を描き、色のないものもある。色と形は不即不離だと思って今日まできた余の目がさめた。いつも同じ場所に立っているものをはなして立たせればおもしろい。対象と表現にもそれがいえる。対象と表現も別のものである。対象と余が思っているものもそれは心の中の表現の幻影に過ぎぬ。それらが別々だと肝に銘じたとき、それらがまたあらたな姿を持って創造がなされるのである。坊主らしいことを言った。そのときの坊主のすっきりと立つ姿はなかった。いつの間にかあみ子と呼び捨てになっていた。そして坊主の身体があみ子にさらに二十センチ近づいているのを確認した。人生相談にかこつけて女に男が近づくのは常套手段である。つりの奥義を会得したつりきちちあみ子にしてこのていたらくであろうか。あみ子あぶない。あぶないあみ子。しかし余の心配は杞憂だった。

あみ子「和尚さん、わたし帰ります」

あみ子は縁側から飛び降りるとこちらのほうに早足で歩いてくる。向こうから来るあみ子と余の目は合う。ばつが悪かった。あみ子の目はうっすらと濡れている。あみ子は無言で行き過ぎた。

小坊主「志保田の家に泊まっているお客さん、なにを見ているんですかな」

寺の小坊主の了然が声をかけた。

小坊主「見てたんでしょう」

余「見てない」

小坊主「嘘だ。見てた」

余「見てた」

小坊主「和尚さんがまたあみ子さんを泣かしたでしょう。滝沢くんのことを言うとすぐ泣いちゃうんだな。愛しているんだよ。きっと」

余「関心ない」

小坊主「じゃあ、なんでここにいるんですか」

余「井川はるら嬢に会いに来たんだ」

小坊主「はるらさんなら、原たさんから電話があって出ていきましたよ」

その言葉を聞いた余の心情は内心穏やかではなかった。だいたい井川はるら嬢がどんな目的でここに来たのかわからないし、男に会いに来たのだとは信じたくなかった。しかし、観海寺には以前に原た泰三も泊まったことがあるという話しだ。もしかしたら原た泰三がこの寺に泊まるように井川はるら嬢に言ったのかも知れない。そうすると原た泰三と井川はるら嬢とはどういう関係になっているというのだろうか。余ははなはだ不満だった。すぐに観海寺を退散した。

 そのまま志保田の宿に戻るのはこころもとなかった。余の心の片隅には満たされぬ思いがある。満たされぬのは同じ平面の上に乗っていながら手が届かぬからである。視力においてはそれが見える。しかし腕力においてはそれに手が届かぬ。あの神秘的な滝に再び行こうと思った。あのエメラルド色の水を見れば心が落ち着くのではないかと思ったからだ。観海寺の裏の方から滝へ抜ける路がある。どういう宗教的な意味があるのかわからない石塔の間をぬけて行くとほぼ垂直にむきだしの岩盤の上に鉄の梯子のようなものがついていてそこを上がって行くと岩の間の路があった。その路は迷路のようになっていたがそれが路に迷わせようという意図ではなくて急な斜面をゆっくりと登らせて行こうという意図がわかった。それほど樹木がなかった路に樹木がふえていき、ボブスレーの競技路のはてにトンネルがあり、そのトンネルの上の方はいろいろなつたで覆われている。そのトンネルをくぐると下の地面が水っぽくなった。その路を登って行くと滝の横の方に出た。前に来たときの上がり口は五十メートルくらい離れている。そこから上がったときにはその上がり口には気づかなかったのだ。そこにはやはりエメラルド色の水がたたえられている。二十メートルぐらいの高さから滝が落ちて来る。余はこういう場所にこそ水竜が住んでいるのではないかと思った。余は靴も靴下も脱いで滝壺のへりに足をつけて見る。冷たいが我慢できないほどの冷たさではない。上から落ちていく水の背後にある崖には点々と名前のわからない樹木が逆さに生えている。根のところが逆さになっていて途中から上に向いているのだ。それらの木々がたてに割れた岩の透き間から生えている。岩の透き間に土がたまってそこに木が根をはる。根がさらに伸びていけば岩は剥離する。余は滝の音しかしないこの静寂に身をまかしているとにたにたの存在を感じた。滝のへりのところに妖怪(●´ー`●)安部なつみが足首のところまで滝つぼにひたりながらにたにたとこちらを見ていた。なつみの扁平した足首は滝底の石をたしかにつかんでいる。

余は唖然とした。なぜこんなところに(●´ー`●)安部なつみがいるのだろうか。

(●´ー`●)安部「暑いわ」

そう言って安部は悩ましげな視線を余に向けた。あきらかに情欲を持って余にせまろうとする目の光りだ。

(●´ー`●)安部は豊満な肉体の上、全裸のままで胴体のところに黄色なバスタオルを一枚まいただけだった。全裸というのは想像だけだったがその黄色いバスタオルの下になんの下着も着ていないようなのは明らかだった。下着の線が全く見えない。

(●´ー`●)安部「暑いわ」

(●´ー`●)安部はふたたびそう言うと身をかがめて手の平で水をすくうと自分の膝小僧のあたりにかけた。透明な水は(●´ー`●)安部のふくらはぎを伝って下に落ちて行った。安部が身をかがんだとき胸の隙間が余の目にふれた。バスタオルの下のほうが飛び散る水で濡れた。余が唖然としてその様子を見ていると安部なつみは突然、余のほうにはしってきて余の首に両手を回すと胸を余の身体に押しつけてきた。余は全力で安部の身体をひきはなすと安部は滝の水の中に尻餅をついて座った。バスタオルはすっかりと水を吸っておしりの形がはっきりと見える。

余「なんで、余につきまとうのだ」

(●´ー`●)安部「なんでって、なんで、あなたがご主人さまだからでしょう」

安部はにたにた笑いをしながら二三歩、余のそばに寄ってくる。

余「余がお前のご主人になった覚えはない、帰れ、妖怪」

すると(●´ー`●)安部は少し悲しそうな表情をした。それが演技なのか、真実なのか、余にはわからない。

(●´ー`●)安部「そんなに邪険にしないでちょうだい」

立ち上がった安部は再び余のそばに来ると余の片腕をとって自分の両腕をからめて来た。バスタオルの上の方はみだれて来て安部の両の乳房が余の身体の横のほうに押しつけられている。ものが余の身体に当たっているという感じはなく、温度だけを感じていた。そしてぴったりと密着しながら顔を上げて余の表情見る。

(●´ー`●)安部「ご主人さま」

それからまた少しあいだを開いて口を半ば開いて悩ましくいった。妖怪にしては歯並びの良い歯と口の中の赤いのどや下が見える。のどという洞窟の上をしめらしている唾液も見える。

(●´ー`●)安部「ご主人さま、あなたはわたしのご主人さまなのよ。わかってらして」

余が何も言えなかったのは自分の意志に反して感覚が反応していたからである。このときは安部は自分のすべすべした太ももまでも余に押しつけていたのである。つまり両方のふとももを開いて余の片方の太ももを挟んでいた。これは余が逃げられないようにとの安部の戦略に違いない。余のあごの下あたりにある安部の頭は急に回転すると余の顔を見上げた。

(●´ー`●)安部「ご主人さまがわたしに心を開いてくれないのは、きっと、あの女がいるからね」

余「あの女って誰だよ」

余は恐ろしさにぶるぶるとふるえていた。

(●´ー`●)安部「観海寺に泊まっているあの女よ。あの女は大人しそうな顔をしているけど大変な女よ」

余「どういうふうに大変なんだよ」

(●´ー`●)安部「ご主人さまを騙している」

その言葉は余にとって聞き捨てがならなかった。さっきの原た泰三の電話の件があったからである。余は疑心暗鬼になっていた。あんなきれいな女性に男がいないわけがない。それが原た泰三なのではないだろうか。それは論理的帰結というわけではなく、なんとなく直感であった。コップの中の水が汚れていく論理であった。

(●´ー`●)安部「わたし、ご主人さまを不幸にしたくないんです」

安部は急にしおらしい顔になった。

余「じゃあ、彼女に男がいるということなのか」

すると安部はゆっくりと首を傾けた。余は躊躇していた。その名前を聞きたくなかった。それは余の心を鷲掴みにする鷹の爪ほどの威力がある。安部はその残虐な道具を手に入れているのだ。

余「誰なんだ」

(●´ー`●)安部「原た泰三です」

安部はおごそかに宣言した。地獄の番人が運命の扉をあけるよりも厳粛なものだった。

余の頭の中で除夜の鐘クラスの鐘がごーん、ごーんと鳴った。見も知らぬ外国の街角の広場に余は取り残されたような気がした。

余「でも、井川はるらさんは、余が男に会いに来たのかと言ったら、そうではないと言ったぞ」

するとこんなおもしろいことはないというように笑って

(●´ー`●)安部「男でも、女でも異性に持てたいとい気持ちはみんな同じですよ。ご主人さま。永遠にご主人さまにお仕えし続けるのはわたしたちだけ。ご主人さまの気を引こうと思って、あの女はうそをついたんですよ」

余「でも、証拠がないじゃないか。証拠が」

すると安部は背中のほうで両手を動かすと一枚の写真を取り出した。妖怪だからどんな魔法も使えるらしい。余はその写真が目の前に取り出されると両膝の力が急に抜けるような気がした。その写真の中で井川はるら嬢と原た泰三が微笑んで一緒に写っているではないか。安部は上目使いににたにたしている。

余「お、お、お、お前。た、た、確かに一緒に写真に写っていることはいるが、これでふたりが恋人であるとは結論出来ないじゃないか」

(●´ー`●)安部「ご主人さま、まだわたくしめの言うことが信用出来ないのでございますか。こちらへいらっしゃって」

余は安部につれられて滝壺のはじのほうに来た。そこに樹木の隙間があってそこから海岸のほうが見える。海岸には小さな喫茶店があり、オープンデッキのところに椅子やテーブルが出されていてお茶をすることが出来るようになっている。それは肉眼では見えない。余が海辺に行ったとき、それを確認したのだ。

(●´ー`●)安部「ほら、小さな人影が見えますね。これをご覧になってください」

安部はふたたび後ろのほうで両手をごちゃごちゃさせると今度は双眼鏡を取り出し、余に渡した。お前はどらえもんか。余はつぶやいた。無言で渡された双眼鏡を余は受け取るとそのパラソルの下にある人影に焦点を合わせた。すると丸いテーブルに向かい合って井川はるら嬢と原た泰三がうれしそうに談笑しているではないか。お互いに心を許しあっている。その話し方は恋人のそれである。余はそのまま双眼鏡を背後にある安部に渡すと今度は安部は看護婦のような顔をして余の片手の指をからんできた。その間中、余はあわわ、とか、あぅぅぅぅとか声にもならない声をもらしていた。

「遠くの親戚よりも近くの他人、額縁の中のごちそうよりも、テーブルの上のホットケーキ」

安部はまたわけのわからないことを言った。

(●´ー`●)安部「ご主人さま、こっちにいらして」

滝壺のはじのほうで木陰になっているベットくらいの表面が平らな大きなみどりいろ岩のあるほうに安部は余を誘った。余も滝の中にくろぶしまでつけて歩いていた。その岩はどんな自然現象か知らないがほぼ水平になっていて表面はベッドのように平らである。そのときはすでに安部のまいていたバスタオルはすっかりととれていて全裸になっていた。安部の片手にはバスタオルが握られていた。その岩のところに来ると安部はバスタオルをその表面にひいてみずから仰向けになってその上に寝そべった。しかしその動作をするときも安部の手は余の手を放さなかったので安部の重さで余も安部の上に覆い被さった。安部の裸体はその岩の上に完全に収まっていた。倒れた余の身体の頭部は安部の乳房の上に自然と落ち、余の顔は安部の乳房に接触した。すると安部の両手は余の頭部を押さえて無理矢理、余の口が安部の乳首を吸い付くように動かした。余は衝撃の事実を目にしたために自暴自棄になっていた。

(●´ー`●)安部「ご主人さま、ご主人さまー、ご主人さまぁー」

余は安部の身体が小刻みにふるえているのを感じた。行為をなしたあと余は自分の身体に変化がないか危ぶんだ。一方的に妖怪どもの性的アタックを拒否しているのも、道徳的な理由からではない。一般に言われている妖怪と性交渉をすると精気をすわれるのではないかと思ったからだ。明治の落語界に

変革をもたらした三遊亭園朝の怪談話し、ボタン灯籠などでも見込まれた男が幽界にひきずりこまれるという話しがあるではないか。自分の足を見ると確かに生えている。しかし余には精神的な満足は起こらなかった。行為のあとで安部は余に言った。「やりたくなったら、すぐにわたしを呼んでくださいね。ご主人さま、わたしはそのために存在しているんですから」「・・・・」

 井川はるら嬢のことが頭の中から離れなかった。宿の畳の上に寝転がって古びた杉で出来た杉で出来た天井板の木目を眺めていても井川はるら嬢の顔が木の板の前の方に浮かんでくる。しかし、しばらく観海寺を訪れようとするのはやめにしようかと思った。アルバイトの女の子が志保田の家の離れに伊藤若ちゅうの画があるというので見に行くことにする。この家は建て増しに建て増して創られているので平面的な広がりだけではなく、上下にも広がっていてまるで古ぼけた木造の建造物でなかったら千九百六十年代に建てられた現代建築のようで、見方を変えれば子供の遊ぶ大きな石段のような感じがする。しかし離れの隠居所だけは他の建物とつながっていないのですっきりした印象を余に与えた。いつも一輪差しの木瓜の花がかざられていて馥郁たる香りをその周囲数メートルにただよわせている。誰がいつも花を取り替えているのか、余は知らぬ。しかしいつも一晩明けると新しい花になっている。木瓜の花は一晩でしおれるに違いないから毎日代えるのだろう。その一番南側の玄関から花崗岩の置き石の上を伝って左に沿って曲がって行くとひいらぎを竹ではさんで作った垣ねがあり、その垣ねの途切れるところにしおり戸があって離れの隠居所につながっている。置き石で出来た路の横には菖蒲池があって中国の剣のような葉が真っ直ぐに上を向いて田んぼの中にたくさん生えているがまだ花は咲いていない。その離れの前に田んぼのような池があった。菖蒲池の前には雨戸が開けられていて障子が春の日のうららかな陽光を浴びている。余が見に行くと言ったから掃除がすませてあったらしい。「入りますよ」余がそう言っても返事がないのでたたきの上に履き物を脱いでそのまま上がりかまちの上から余は上がって畳みの上をふみしめる。玄関から上がるとそこは四畳半の部屋だった。右から障子を通して太陽の光が和室の中をぼんやりと照らしている。障子の中を通った光が行き場をなくして、天井に漆喰の壁に畳みに跳ね返ってその部屋の中で出口もみつからない永久運動をしている。さらに余は足をすすめて白地に牛車だとか、鼓だとか、扇だとかが有田焼きのような色で図が下から二十センチぐらいのところに描かれているふすまを開けると、玄関に接している部屋よりもその部屋のほうが明るかった。左手に絵がかかっている。右手には障子戸が、前方にも障子戸がある。明るいわけだ。四っに区切られたうちの二辺から採光されている。そこは縁側でつながっているので縁側からまわって障子戸を開けてその部屋に入れば良かったが玄関のほうから縁側に出ることは出来ない。床の間にあおに色の掛け軸が下げられていた。群魚貝甲図、伊藤若ちゅうの作に間違いはない。その鮮やかな色となまめかしい感覚におどろかされる。この絵の中で魚と貝が斜め下の方向を向いて並べられて描かれている。こんなひなびた温泉で高価な画に出会ったので驚いた。盗難のおそれはないのだろうかと余は危ぶんだ。ずいぶんと細かく描き込んである。余はツタンカーメンの棺がはるかエジプトから持ってこられて一般公開されたときのように顔を近づけてその部分部分を詳細に観察した。随分と細かい絹の下地の上に薄塗りで描かれている。これは驚きだ。余は画の技法について詳しいことは知らぬが、油絵と違って絵の具の重ね塗りということは日本画では出来ぬと思うのだがこれほど色がしっかりと出ているということは、まるで重ね塗りをしたようである。この絵の贋作は多いそうで、本物を似せようとして厚塗りの偽物を作るものもいるのだが、その厚塗りで偽物とばれるそうである。これは本の受け売りなのだが。つまり上等の絹の下地と絵の具を使っているということを意味している。そして古いのに今描かれたように色彩が鮮やかなのは高価な絵の具を使っているからである。伊藤若ちゅうはその制作費を全部ポケットマネーから出したそうだ。京都錦小路の青物問屋の嫡子でのちに商売を譲って動物や植物なんかを描いて一生を過ごすわけだ。かと言ってその生活は特別に貧乏だったというわけではないが華美だったというわけでもない。しかし世捨て人のような生活をしていたらしい。絵描きといのは不思議な人種である。芸術家というのは芸人である。なんやかやと言っても世の中の人間を楽しませ、愉快な気持ちにさせて、桃源に誘ったり、現世ではめったに味わえない異境の入り口に立たせたり、空を飛ぶ英雄や灼熱地獄の罪人の気分を味わわせたりするものである。それを味わった観客がその別乾坤の三文字の中でもう一つの人生を味わってまた現実世界に戻って気分を一新するものである。しかし、絵描きは芸をしない。誰に見せるかわからぬ絵を描くばかりである。完全なる自己満足。ゴッホを見ろ、ゴーギャンを見ろ。生きているときは絵も売れず不遇と貧窮のうちに死んでいった。

しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチは描きかけの絵をいくらでも作って準貴族のような生活をしていたという人がいるかも知れない。材料費の何万倍もの作品を金持ちに売って、ダ・ヴィンチは詐欺師である。しかし歴史の中にはいくらでも詐欺師がいる。ピカソしかり、ルーベンスしかり。しかし、世の中には絵描きが好きだという人間がいる。その絵よりもである。卓越した詐欺師には卓越した戦略と巧妙きわまりない話術が必要だろう。それらの誘惑に乗ったものは信じられないような大枚を払って絵を購入する。金があまって仕方ないという人間に会ったことはないが地上を一瞬にしてまわることの出来る羽のついたサンダルをはいて探せばいくらでもいるのかも知れない。そう言った選民が何を買うか金の使い道に困ったとき、まず金の地金を買うだろう。しかし、それで金庫がいっぱいになったとき、つぎに土地を買うかも知れない。しかし王様でもないのだから占有する土地は制限されるだろう。つぎに人間でも買おうかと思っても人道上、それは許されない。工場で大量生産されたものを買っても意味がない。単価が安いから莫大な数のものを買わなければならないから。そこで地上で唯一無二で、多数決で価値ありとみなされているものに目がいく。それが絵画なのかも知れない。この那古井の宿はそんなお宝であふれている。菖蒲池に面した四枚の障子のまん中があいてあみ子ちゃんが顔を出した。

あみ子「あなたが画を見たいと言ったと聞いたから床の間にかけておいたんです。気に入りましたか」

余「大変、高そうな画ですね」

あみ子「同じものが京都の相国寺にあるといいます。でもうちの画の方がいい画だとおじいちゃんが言っていました」

余「こんな画がまだたくさんあるんですか」

あみ子「倉のほうにたくさんありますよ。なんなら、もっと見る」

余「遠慮しておきましょう。余は骨董屋でも美術評論家でもないですから」

あみ子「原た泰三さんはうちの倉に入っていろいろと見ましたよ」

余「原た泰三さんが。あの人は文学士でしょう。わけがわからないなあ」

あみ子「あなたは原た泰三さんが嫌いなようね」

余「そんなことはない」

あみ子「観海寺に泊まっている井川はるらさんと一緒にうちに来て、倉の中を見せてくれと言ったのよ」

余「井川はるらさんはなんと言っていたのですか」

あみ子「これだけのものがあれば売ったらだいぶお金になりますよと言っていました」

余「あみ子ちゃんの家ではこんなお宝を無造作に飾っておくのですかな」

余は多少不愉快な調子をこめて言った。

あみ子「なんでです。那古井の里ででうちのものを盗む人なんて一人もいませんよ。田舎の人ばっかりなんですから」

余「田舎の人こそあぶない。赤心を売り物にして、自分の腹の中には真心しか詰まっていませんというような顔をして人をだしぬくんですから。そんなことだから、くよう眼の十一個ある硯を盗まれたりするんですよ。それであなたは滝沢繁明くんと結婚できなくなっちゃったんじゃありませんか」

あみ子「じゃあ、那古井の人が盗んだというわけ。見つけて来てちょうだいよ。その人を見つけてきて」

余「余にそんなことを言われても」

余はなぜかうろたえていた。あみ子は縁側に腰掛けてまだ花の生えていない菖蒲池のほうを見ていた。そして急に振り向くと

あみ子「わたしこんなことをしている場合ではないわ。町に行かなければならないんです。そこに豆箪笥があるでしょう。その中に手鏡があるからとってちょうだい」

余はあみ子にそう言われたので床の間の横にあるくぬぎの木で出来た豆箪笥の引き出しを開けてみた。その中には大きな櫛と手鏡が入っている。引き出しの中にかくれんぼをしている子供のように寝ていた。

あみ子「手鏡だけではなく、櫛も入っているでしょう。それもこっちに貸してください」

あみ子は靴を履いたままだった。靴を履いたまま縁側に腰掛けて身体だけひねってこちらを見ている。それでいろいろと余に化粧道具をとってくれなどと言っているのだった。あみ子は縁側に腰掛けたまま、手鏡を左手に右には櫛を持って髪をとかしていた。無作為の誘惑、本人はその気はないのだが、あみ子にはその本能があるに違いない。髪をとかし終えると余にふたびその道具を返してそのまましおり戸を通って走り去るようにどこかに行ってしまった。余はふたたび出した手鏡を引き出しの中にしまおうと思ったが、なんの関係もない男の前で化粧をするあみ子の精神状態はどんなものかと思った。いな、あみ子の精神状態ではなく、余との関わりである。あみ子とともに湯船にもつかった。海でつりもした。このままで行けばあみ子は厠に入っていて紙がないので戸をあけて手を差し出し、紙がないのとか言って余に紙を持って来させるかも知れない。危ない。危ない。手鏡をとって自分の顔を映してみる。そこにはひとり桃源に遊ぶ遊山の詩人のかげはなく、画の前に立つ鑑賞者が画中の人になっている。

 独り、ゆうこうの内に座し

 琴を弾じてまた長唱す

 深林、人知らず

 明月来たりて相照らす

などと竹林の賢人をきどってうそぶいてみても生活に疲れ、井川はるら嬢に心乱されている匹夫野人のすがたがある。危ない。危ない。余は現実世界に引き戻された。女がつりをするという。女だてらに釣りをするという。個人は自由であるという。趣味嗜好はおのがじし勝手に追求するべしという。世に同好会というものがある。下着収集同好会、女子トイレ研究会、使用済み口紅収集会。欲望にしたがえばいくらでも同好会ののぼりは立てられる。世の人に人人具足の趣味があり、その欲望を成就する方法も万策ある。その算法によればその形態は無尽ごうとなる。諧謔文学のたねはつきない。文明はあらゆるかぎりの手段をつくして、個性を発達せしめたるのち、あらゆるかぎりの方法によってこの個性を踏みつけようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよというのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由をほしいままにしたものが、この鉄柵外にも自由を欲しくなるのは自然の勢いである。憐れむべき文明の国民は日夜この鉄柵にかみついて咆哮している。文明は個人に自由を与えて虎のごとくたけからしめたるあと、これを陥穽の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。この平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人をにらめて、寝ころんでいると同様な平和である。檻の鉄棒が一本でもぬけたらー世はめちゃくちゃになる。第二のフランス革命はこの時に起こるのであろう。個人の革命は今すでに日夜に起こりつつある。北欧の詩人イプセンはこの革命の起こるべき状態についてつぶさにその例証を吾人に与えた。世はあみ子の猛烈に、見境なく、川釣りでも海釣りでも、なんでも手を出し、異性に注意を払わないぞんざいぶりと、世のまわりにはりめぐらせている堕落への道への陥穽を比較して、ーあぶない、あぶない。気をつけねばあぶないと思う。現代の文明はこのあぶないで鼻をつかれるぐらい充満している。おさきまっくらに盲動するあみ子はあぶない標本の一つである。

あみ子のことはひとまずおいておこう。

世はふたたび鏡を見てみる。顎のあたり、頬のあたり、耳たぶから下がって頬の裏側のあたりにぽつぽつと胡麻のおはぎのように無精髭が生えている。はなはだ見苦しい。こんな顔をしてあみ子と対面していたのだろうか。余は髭を剃ろうと思った。そして余の気に入ったひげそりをさがした。

ちょうどいつも使っているひげそりの刃がなくなっているのを知り、アルバイトの女の子に近所でそのひげそりの刃が買えるのか聞くと、隣町の雑貨屋でなければ置いていないという話しだった。余はその目的のために列車に乗ることにした。あの民芸品のような駅に行くと駅員がひとりしかいない。そのひとりの駅員が切符の販売から、駅の掃除、列車の到着の準備からなにからなにまでやっている。十分ごとに列車が到着したらこんなことは出来ない。一時間に一本も列車はとまらない。ひなびたこの温泉の町では住民は普段の昼には列車などには乗らないのだろう。余は松ヤニのような色をした切符売り場で一番安い切符を買った。大理石の上に小銭を投げ出すと厚紙で出来た切符を駅員は渡した。余はその切符を握りしめた。この古びた駅舎の天井は高い。その上、上のほうはすすでよごれていて光も少なくってどうなっているのかよくわからない。駅の待合室は古びた温泉に似つかわしくなく広い。駅の待合室には噴水のようなものが置いてあり、引いてきた温泉がさきの方から上に向かってちょろちょろと吹き出している。それはタイル張りで作られていて青や赤や白いタイルが張られている。そこにアルマイトのコップが金くさりでつながれてついていて誰でも自由に飲めるようになっている。胃腸病に利くようだ。列車を利用する人間の中には毎日利用する人間もいるそうだ。これで胃潰瘍が完治したと言っている人間に会ったこともある。そして駅の隅に高砂のじいさん、ばあさんをかたどった木彫りの像が鎮座ましましている。ばあさんは熊手を持っている。じいさんの表情もばあさんの表情も柔らかだった。余がこんな彫り物を見たのは七五三の千歳飴の袋だけだったが、桜の木を彫って作ってあるのでメープルソースのような色をしている。じいさんの像の頭の上もばあさんの像の頭の上も物理的に柔らかいものでこすられて摩耗していて何十分の一ミリか摩耗している。彼らの身長はほんのちょっとだけ低くなっている。しかしそれは大事なことではない。一部だけ削られてしまっているからバランスが崩れているのだ。しかしそこにある偉力を感ずるのは多くの人がその頭をさわったという時間の堆積を感得するからにほかならない。そのふたつの像の背後には野球場の観客ぐらいの数の人間が目には見えないが並んでいるというわけだ。うしろには横が二メートル、高さが一メートルぐらいのホーローびきの大きな看板があって山紫水明のこの地の絵地図が載っている。個々の場所の名所の建物や湖が大きく拡大されて描かれていてその間を風呂屋の看板のペンキ画のような杉や檜の木の路が現実よりもはるかに短く描かれている。ここにある駅もその看板の中にある。駅の画が描かれている。ふなの解剖図のように駅の内部が見える。駅の中にはこの高砂もある。高砂の愛称は願かけの高砂と云うそうである。一度別れた恋人もこの高砂の頭をなでればよりが戻るそうだ。案の定それで多くの若者がその頭をなでたのだろう。男が別れた女とのよりを戻したいときは婆のほうの頭をなでるのである。女が別れた男との再びの再会を願うときは爺の頭をなでるのである。この話しを聞いて本当ならあみ子と滝沢のことが思い浮かぶはずであるのに、余は井川はるら嬢の姿を思い浮かべてしまった。余と同じ感情を抱いてこの翁像の前に立つ旅人の姿が偲ばれた。駅の待合室には老人がふたり座って気楽な世間話をしている。

「今年の松茸はよくとれるみたいだよ」

「ちょうどいいぐらいに雨が降ったからなあ」「去年はざるに五杯もとったが、今年は七杯ぐらいいくかも知れない」

「みんな大きいのか」

「そうだよ」

「去年は京都の料理屋がわざわざ来て全部買い付けてくれたさ」

「それでその金は何に使ったのさ」

「ほら、これ、この懐中時計を買ったのさ」

「ほら、見せてくれ」

「いいなあ」

「いいさ」

ふたりの老人は余の恋いの悩みなど知らずに気楽に自慢の懐中時計を見せあっている。

 この温泉町の駅舎の天井から突然歌が聞こえた。駅舎の天井はどこまでも高く、そのはじが見えないような気がした。その見えないところから歌が聞こえてくるような気がする。歌が降りてくるような気がする。その見えない場所にスピーカーでもあるのだろうか。春なのにまだ少し寒い山間の空気をふるわせる。

 草津よいとこ一度はおいで、どっこいしょ。お湯の中にもこーりゃ、花が咲くよ。ちょいな。ちょいな。

山間の川をいかだに乗ったそま人がいかだをあやつる手際もあざやかに下って行く。

お医者さまでも草津の湯でも、どっこいしょ。恋いの病は、ほりゃ、なおりゃあせぬよ。ちょいなちょいな。

 余には確かに春にふる雨の銀せんのように、なんとも感慨深い響きのある美しい声がはるか遠くに嬰児のときに聞いた子守歌のように聞こえていたのである。

余はホームのほうに上がる。ホームの両側に列車が逆方向で停まるようになっている。そこに意外な人がいた。井川はるら嬢がすっくりとホームのなかほどに立っていたのである。井川はるら嬢のその背後には左のほうにバケツをふせたような峰がそびえている。杉か檜かわからぬが根元から頂きまでことごとく青黒いなかに、山桜が薄赤くだんだらにたなびいて、つぎめがしかと見えぬくらい靄が濃い。少し手前に禿げ山が一つ、群をぬきんでて眉に迫る。はげた側面は巨人の斧で削り取ったか、鋭き平面を作ってまた下へ行くと杉かけやきがはえていてその下には清流が流れている。天辺に一本見えるのは赤松だろう。とびがそのあたりを春雨を切りながら縦横に飛んでいる。原た泰三の恋人かも知れない女、井川はるら嬢はそのその景色を背景に立っている。まことに画にもなり、詩にもなる風情であった。しかし井川はるら嬢は余とは逆方向のホームに立っていた。

井川はるら「毎日、観海寺に来ていらっしゃったのに、昨日はいらっしゃらなかったのでどうしたのかなと思って心配していたんですよ」

余「いいえ、ありがとうございます」

井川はるら「どちらへ行かれるんですか」

余「ひげそりを買いに行こうと思いまして」

そのうち余の乗る列車が向こうのほうから低くレールを鳴らしてやって来た。点と見えたものが余の油断を見透かすように大きくなって余の視界のすべてを占有する。みやげもの屋で売っている竹で出来たへびのおもちゃのようだった。余はそれに飛び乗った。余の内心は複雑な思いがあった。列車の扉がしまるときに余が

余「あなたは意外とプレーガールなんですね」

と言うと井川はるら嬢は変な顔をした。

余はそのとき知らなかったのだが駅の物陰で安部と紺野さんが

(●´ー`●)安部「プレーガール、キュッ、キュッ」

川o・-・)紺野「プレーガール、キュッ、キュッ」

つぶやいていたことを知らなかった。

あのミジンコ以下の知能の持ち主の新垣までもが同じ文言を口にしていた。

 余が目を覚ますと枕のほうには坂井抱一の屏風が立てかけてある。萩と月が題材になっている。屏風の仲から鈴虫の鳴き声が聞こえるような気がする。余に涼やかな気分になってもらおうとして屏風を引っ張り出して来たのであろうか。

ふとんの両側を見ると妖怪(●´ー`●)安部も妖怪川o・-・)紺野さんもいなかった。三匹の妖怪たちと余はついに契約をかわした。妖怪たちの話しによると、余をご主人様とあがめたたえて三匹の妖怪たちは余のしもべとして永久に余に奉仕をするという契約だった。しかし妖怪が永久の命を持ち、余が凡なる人間であるかぎり、その契約は途中でうち切られるだろう。しかし妖怪たちはなんの不服もなく、その契約書にサインをすることはある条件を余が許諾すればいいと言った。(●´ー`●)安部に関して言えば

(●´ー`●)安部「ご主人さま、わたしはご主人様に永久にお仕え申し上げます。しかし、その契約書をかわす前にあなたのしもべの願いを一つだけ聞いていただけますでしょうか。私に預金通帳を作ってください」

妖怪の話しによると妖怪は銀行に行っても預金通帳を作れないそうである。それはそうだろうそもそも住民台帳がないのだから。(●´ー`●)安部には余の名義で預金通帳を作ることを確約した。川o・-・)紺野さんに関して言えば

川o・-・)紺野さん「ご主人さま、わたしは命よりも大切にしているものがございます」

余には紺野さんの考えていることがわかった。瞳の仲にその答えが書いてあり、それを読めるような気がした。妖怪紺野さんのうしろには大きな水槽が置いてあり、その中には七十センチもある金魚が悠々と泳いでいる。それはいつものことで、紺野さんのいるところにこの金魚はいて、この金魚のいるところに紺野さんはいる。余には金魚が七十センチもの大きさになるということが驚異だったが。それを天上にあるりんろうや無上のほうろのように大切にしている紺野さんの理由がわからなかった。

余「そのばかみたいに大きな金魚だろう」

紺野さんはばかみたいと言われて少し立腹して頬をふくらませた。

川o・-・)紺野さん「ご主人さまにはそうでございます。この金魚は命よりも大切なもの、いつもしもべめのそばに置いておき、掃除をすることをお許しください」

余「いいだろう。しもべよ。でもなぜ、その金魚を大切にするのだ。余にそのわけを教えてくれないか」

すると紺野さんは今さっきまで飲みかけの牛乳のコップがテーブルを離れたすきになくなった人のようにうろたえた。

川o・-・)紺野さん「ご主人さま、ご主人さまのお望みでもそれだけは言うことが出来ません」

余「まあ、いいだろう。それで妖怪(ё)新垣はどんな条件があるのだ」

余がそう聞いても(ё)新垣に思考力はなかった。ただ、(ё)ニイ、ニイと繰り返すのみでそもそも契約書の概念がなかった。妖怪はもちろんサインは出来ないし、はんこも持っていなかったから余は(ё)新垣の手を出してボインを押させようとするとそれはザリガニの手だった。ザリガニの手に朱肉を塗って契約書にはんこを押させてもその紙にはロールシャッハテストの図形のようなものが変な形で残っただけだった。そのうえぶつぶつのついたかたいからで覆われているはさみだったから契約書の紙は変なようにくしゃくしゃになって一部に穴があいた。世の良識ある人から見れば妖怪なんかとなぜ契約書をまじわせたのだと言う人がいるかも知れない。きっとたたりがあるぞと言うだろう。しかし向こうのほうが乗り気だったのだ。契約書の内容も永久に余をご主人さまとして妖怪たちはしもべとしてつかえるということだけだったのでなんの問題もないと思っていた。それに余はなぜ余の前に妖怪たちが表れたのかも解明できない。なによりも井川はるら嬢のことで余は自暴自棄になっていたからだ。(●´ー`●)安部は余にセックスを供与してくれた。この温泉地でまじわせた契約によって妖怪たちは余が泊まっている部屋で寝ることになった。余はあみ子に相撲とりが使っているような巨大なふとんを貸してくれるように要求した。あみ子は大きなふとんを持って来た。夜はその大きなふとんの中央に余が寝てその両隣に(●´ー`●)安部と川o・-・)紺野さんが寝た。(ё)新垣はふとんの中に寝ず、床の間の柱にその鋭い歯でかみつくとまるで五月の風になびく鯉のぼりのように空中で水平になったまま睡眠をとったのである。(ё)新垣が寝ていることはそのまぶたが閉じられていることから明らかだった。カメレオンが半眼を閉じて枝にその奇妙なかたちをしている手をからませて周囲にえさのないことを確認して安心して寝ている姿に似ている。もちろん餌が来れば本能で目を覚ましてその異状に長い舌で餌を絡め取って口の中に入れてしまうのだ。妖怪も夜、寝るのである。世はそのことを知った。妖怪がここにいることはもちろん誰にも秘密だった。夜ふとんに入るたびに(●´ー`●)安部は余の身体をまさぐってきた。そのやりかたも少し変わっていた。三人、いや、一人と二匹が寝ている巨大なふとんの枕元には行灯のようなかたちをしているライトが置かれている。六十ワットと三ワットの電球がその四角い傘の中に入っていてひもを引っ張るとそれらの電球の点灯が切り替わってかすかな明かりがふとんの枕元を照らすだけの明るさにすることもできる。余の寝ている部屋はあみ子がいつもは使っている部屋だった。この部屋には雪見障子がついていてその外には縁側があり、外は庭になっている。庭にはいろいろな庭木がはえていて、ジンチョウゲの香りが障子を締め切ってもこの部屋に入ってくるようだった。その庭に咲く白い花が月光をあびて輝く。その花の明るさぐらいの光をこの行灯は発していて余の横に寝ている(●´ー`●)安部の頭を浮かび上がらせている。ひとつのふとんに三つ並べられた枕の中で(●´ー`●)の頭はその自重でまくらをへこませている。(●´ー`●)安部の顔は向こうを向いている。顔は向こうを向いたままで安部の上を向いている片手は余の身体をまさぐってくる。腹から太ももから蛇が感覚器で周囲を認識するように余の身体をさすってくる。そして目的のものに巡り会ったときクリームパンのような手の平に力を入れて余の身体の中心を確保すると今度は顔をこちらのほうに向けて身体をくるりと反転させてにやにやと笑うと唇を余の唇に重ねるのだった。つねに(●´ー`●)安部のほうから仕掛けてきた。しかし余はつねに妖怪の性的アタックを受けていたのかというとそうではない。夜中に目を覚まして(●´ー`●)安部とごそごそしているあいだ、川o・-・)紺野さんはすやすやと向こうを向いて寝ていた。余は小学生が使うゴムボールほどの大きさの川o・-・)紺野さんの頭をみると欲望がうずうずとうずいて来た。(●´ー`●)安部は小声で余の耳元にささやくようにやっちゃいなさい、と言った。余は川o・-・)紺野さんの両耳を両手で押さえるとその冷たい髪の感触のする後頭部に唇をおしつけた。紺野さんは急に目を覚ました。

川o・-・)紺野「ご主人さま、なにをなさるんですか。やめてください」

余「余と契約をまじわしたではないか。しもべよ」

川o・-・)紺野「やめて、やめて」

川o・-・)紺野さんは余から逃げようとして身体を魚のようにくねらせた。しかし余はがっちりと紺野さんの後頭部をつかんでいる。余は川o・-・)紺野さんの後頭部にさらに唇をおしつけた。川o・-・)紺野さんの冷たい黒髪が余の口の中に入る。髪の向こうに川o・-・)紺野さんの頭皮が直接余の唇に触れる。余は思い切り息を吸うと川o・-・)紺野さんの頭蓋骨と頭皮の間に間隙が出来る。

「ご主人さま、ご主人さま、ご主人さまぁ」

「紺野さん、紺野さん、紺野さあーん」

余は紺野さんに対しては人間吸引機と化していた。その間、新垣は空中を浮遊するはえを待っていて、それらしい音がするとライオンがあくびをするように目を一度だけしばたかせて、首を歌舞伎役者がやるように大見得を切ってぐるりと回した。

 その紺野さんが余が起きるとたたみのところで正座している。その横には(●´ー`●)安部も(ё)新垣もそれぞれの仕方で座っていた。

川o・-・)紺野「ご主人さまのかばんの中を見たらこんなものが入っていたんです」

川o・-・)紺野さんの横には口の開けられた余のかばんが置かれている。そこから川o・-・)紺野さんは白い絹製のものを取り出した。

余「それは」

余はくちゃくちゃになったふとんの上で土俵の上で投げ飛ばされて尻餅をついてあたりを眺めている相撲取りのように紺野さんのもっている白い衣料をみつめると紺野さんはそれを広げた。

川o・-・)紺野「名前が書いてあります」

それは女物のパンティだった。パンティには花文字で名前が刺繍してある。

川o・-・)紺野「あみ子」

紺野さんがつぶやいた。

余「そんなものがなんで余のかばんの中に入っているのだ。余はそんなものを見たこともない」

川o・-・)紺野「ご主人さま、わたし、それを持ち主に返しに行きます」

余「やめろ。なんでそんなことをしようとする」

川o・-・)紺野さんの話し方にはなんの悪意もなく、全くの善意から出ているようだったが、その結果はまったく違う。

余「やめて、やめてください。余はそちらのご主人さまだろう。そんなことをしたら余はあみ子ちゃんにどう思われてしまうかわからないじゃないか」

(●´ー`●)安部「そうだ、そうだわ。わたしが誰にも見つからないようにお風呂のたき付けにして燃やしてあげる。でも、ご主人さま、わたしたちにも条件があります」

(ё)新垣「ニイ、ニイ」

新垣までも口をそろえた。

(●´ー`●)安部「今日から私たちもご主人さまの親族として朝げ、夕げ、そしてお昼の食卓には一緒につけるようにしてもらいたいんです」

余「なんで」

(●´ー`●)安部「だって、ご主人さまと一緒にごはんを食べたいんだもん」

川o・-・)紺野「一緒に外で散歩もしたいし」

(ё)新垣「ニイ、ニイ」

そこで余は妖怪たちの申し出を受けることにした。余が志保田のものに親戚の女の子が三人訪ねて来たのでそのようにしてくれと頼むと、こころよく返事をした。その夜の食事は余のほかに三人のモンモン娘もともにとることになった。食事をとる人数が多いので土間になっている台所からまかない部屋が続いていて、まかない部屋にはこの家の紋の入った昔からの椀や銚子や据え膳が棚の中に整然と収納されているのだが、そこから少しだけ段が高くなっていてそこに八畳くらい畳敷きの部屋がある。そこで志保田の家族は食事をしているのだが、余やモンモン娘たちも飯を食べることになった。その部屋に入ると鏡のようにつるつるした床の間に五葉松の大きな盆栽が置かれている。殷や周の時代の青銅器のように古色蒼然とした鉢に植木は植えられている。色だけではない。形も少し変わっている。それがこぶが変な具合に出来ていて鉢とうまい具合につり合いがとれていて、一たす一が三や四になったように大昔の武人が床の間に立っているようだった。部屋の横はまかない部屋につながっていて、床の間の正面には廊下があって廊下の前には梅の古木のある日本庭園になっている。部屋の中には大きな紫檀の卓が置かれている。かもいには中国の桂林あたりの風景の透かし彫りがなされているが時代がかっていて木の木目の色が渋く染まっている。それぞれのものがそれぞれの場所に理由があって置かれているのだが合成樹脂の外装のテレビ受像器だけが異質な感じを与える。ただの真っ黒だったら、安物ぽく見えるのだが、黒の中に微妙に小豆色が加わっていて、暗いところではまるっきりの黒だが、少し日向に出ると小豆色が表に出てくる。それがこのどこにでもあるようなテレビ受像機に少し重みをもたせている。二十二インチのそれが五葉松の床の間の横の部屋の隅に置かれていた。余やモンモン娘たちがその部屋に入って行くと老人とあみ子はもう座って待っていた。

余「これが余が話していた親戚たちの女です」

(●´ー`●)安部「夏目なつみといいます」

川o・-・)紺野「夏目あさみといいます」

(ё)新垣「ニイガキ、ニイニイ」

(●´ー`●)安部が横で夏目りさと言っていると言った。

一人だけがわけのわからない言葉を発した。

あみ子「こっちに座って」

あみ子と老人の向かい側に四つのうぐいす色に金地のはいった座布団が並べられていて余はその座布団の上に腰をおろした。卓の上にはそれぞれの茶碗が伏せられている。牡蛎のフライがキャベツの千切りの横に五、六個置いてあり、別の小皿にはポテトフライが山盛りに載せられている。それらの皿を結ぶところにソースの容器がある。卓を傷つけることをおそれたのか、白いレースのクロスがしかれている。余は妖怪も飯を食うことを最近、知ったからそのことをあまり驚かなかった。

余「遠慮なく、いただきます」

余がそう言う前に妖怪たちはすでにはしを手に持って食事をはじめている。新垣の前には老人が座っている。両方の耳の横が髪を束ねて編まずにおろしている髪型をしているこの妖怪の顔を老人はじっと見つめた。

老人「お嬢ちゃん。出身、どこ、南方」

(ё)新垣「ニイ、ニイ」

老人「おいなりさん、好き」

(ё)新垣「ニイ、ニイ」

老人「おじいちゃんもおいなりさん、好き。おいなりさん、作れば良かったのにね」

(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニイ」

老人「うちのあみ子が鮎釣り場で妖怪におそわれたんだって、身長が十五センチしかなかったんだってさ。お嬢ちゃん、身長何センチ、お嬢ちゃんじゃないよね。お嬢ちゃん、大きいもんね」

(ё)新垣「ニイ、ニイ」

老人「歯を見せてご覧」

(ё)新垣「ニイ、ニイ」

老人「おっ、おっ、立派な歯だ。立派、立派。おじいちゃんがあとで鰹節あげよう」

(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニイ」

余が牡蛎フライを三個目食い終わった時点で川o・-・)紺野さんはもうご飯を三杯目のお変わりをしていた。床の間の五葉松は立派なものだった。本物の何百分の一かの大きさでそれ本来の大きさをあらわしているのだから素晴らしい。松は海岸に多く植える。風が吹いてもそれに身をまかせて変な具合にねじれて立っている。舞台でもねじれた松の画を立てるだけでそこが海岸になる。松が海辺か、海辺が松か、あれだけで大きな海辺を一人でもっている。だいたい葉が針のように細い。一つの細い枝に葉が五つついている。画を描くときも便利だ。そして地面に根を広く張っている。松というのはどこにでもある。余の通っていた小学校の裏庭にもあった。くぬぎやどんぐりの生えている雑木林の中で木の空いている場所があり、そこに一本だけ生えていた。きっと誰かがわざわざ植えたものではないだろう。松ぼっくりが大きくなっていって、ある日、天候のかげんか何かで傘がぱっと開いて、風に飛ばされて羽のついているたねが遠くに飛ばされてそこをすみかとして大きくなっていくのだろう。人間いたるところに青山あり、という名文句がある。大望を抱いてどこででも骨を埋めよという意味だが、その句だけでは人のいる場所にはどこにでも墓場がある。つまり戦争があった場所だととる人もいるかも知れない。肯定的に見れば旅立つ人を励ます文句だが、大きな歴史に翻弄される人間の姿をあらわしていると言えないこともない。蘇東坡もまたへんぺんとした浮き世に身をまかせた詩人だった。大きな運命だけではない、風にもまれる羽のようにと、恋いの歌を歌った歌もあった。

余「立派な盆栽ですね」

あみ子「いつもは日のあたる廊下に出し放しで全然、世話をしていないんです。みんなでご飯を食べるからって床の間に何もないのも寂しいでしょう。それで床の間に飾っているんです」

老人「わしはいつも世話をしているよ」

遠くで話しを聞いていた老人が答えた。

あみ子「夜のニュースを聞くのを忘れていた」

あみ子は畳の上に投げ出しているリモコンをとるとこの部屋に似つかわしくないテレビ受像機のスイッチを入れた。余はこの山間の別世界に入れられてからせわしく、自動車が排気ガスをまきちらしながら人のあいだをぬって走り、それを追う交通巡査が警笛を鳴らし、一つでも多くの品物を売ろうとする商人が声を張り上げて客をよびとめて、客がメニューと出て来たものが違うとウエートレスに文句を言い、誰と誰が仲が良いかと芸能記者がしっこく追い回し、それを毎日、テレビで流し、いろいろな事件の責任のなすり合い、選挙演説、人間界のせわしく、身の置き所もない、競争や、雑音をしばらく忘れていた。テレビのスイッチが入ると相変わらずの進歩のない、日々、余が下界にいたときはその中にどっぷりとつかっている人間生存のための雑音が流れて来た。

あみ子「東北で鮎釣りが解禁されたんですって。那古井ではもう解禁されているのに、やはり寒いほうは遅れるのね」

テレビの画像には釣りの格好をした人間たちが川に降りたっている姿が映っている。あみ子は牡蛎フライをはしで口のところに持って行きながらその画面を見ていた。それからアナウンサーがまた出て来て中国の奥地の農村の沼で大きなナマズがとれたというニュースが流れた。紺野さんはそのニュースをじっと見つめている。紺野さんは三杯目のご飯を食べ終わるところだった。その農村の風景はかすみにもやった奇岩に囲まれた仙郷だった。その仙郷を同じような場所から電波を通して眺めているというのはおもしろい。水墨画で日本の画家が奇妙な場所を描いているが、本土には実際にそのような場所があったのである。風景画などを見て表現のためにゆがめて描いているなどという印象を受けたりするが実際にはその画家の住んでいる場所にはそういう場所があるのである。その点ではもし南極や北極で生まれ育った人間が画家になったらどんな画を描くのだろうか。生まれつきオーロラを独自の視点で描く画家も出てくるかも知れない。伊藤じゃくちゅうは象を描かなかった。その理由というのも象を見たことがなかったからだ。しかし、象自身は徳川綱吉か、吉宗の時代にすでに来ている。もっと前にインド象が来ているだろう。

余「伊藤じゃくちゅうの群魚貝甲図を見せてもらいました。素晴らしいものですね」

老人「あれは相国寺にあるものより素晴らしい出来映えです」

余「若ちゅうの水墨画もあるのですか」

老人「あります」

余「精緻な筆遣いで描かれているのですか」

余は若ちゅうと水墨画とは結びつかなかった。

老人「それがおおまかな筆使いで描かれているんですな。筆の遊びのようなことを使っている」

またアナウンサーが出て来て今度は違うニュースを取り上げた。滋賀県の古い寺の古文書が発見されたといニュースだった。それは安土桃山時代の武将に関したものだった。それを発見して分析した学者の説によると、忠君と呼ばれていた武将が実は敵方に内通していて自分の主君を毒殺したということだった。それだけではなく、自分の支配地の農民も随分と残虐なやりかたで殺しているということがあきらかになった。と言っている。余が学生時代に習ったときにはその武将は大変尊敬すべき人間ということになっていた。それである小説家が新聞小説でそのように描いていて一般の印象もそういうことになっている。しかし、事実はその逆でそのほうが真実だと学者は断言しているし、それに異論を唱えているものもいない。

老人「だいぶ、価値をさげたね」

川o・-・)紺野「今まで偉いと思われていた人が悪人だったということですか」

あみ子「でも、そういうことって、よくあるじゃない。おじいさんはよく、知っているだろうけど」

老人「悪人というわけでもないけど、前後で評価が下がったのは乃木将軍だろうな」

あみ子「そのかわり、東郷平八郎の評価がさらに上がったのね」

(●´ー`●)安部「歴史の時間に教科書なんかに出て来る人の子孫ってどんな気持ちなのかしら」

川o・-・)紺野「教科書に出てくるって、いい意味でも悪い意味でもですか」

(●´ー`●)安部「もちろんよ」

老人「立派な人だと認められている人の子孫はいいだろうが、悪い評価の人の場合は大変だと思うわ。たとえば吉良上野介なんかは子孫だけでもなく、その土地の人までもが本当は吉良上野介は立派な領主だったとか、運動をしているという話しじゃ」

川o・-・)紺野「お札に顔が載っている人の子孫なんてどんな思いで生きているのかしら」

あみ子「お札に載っている人はいいわよ。いい印象しか与えられていないから。わたしなんてみんなに何を言われているか、わからないんだから」

(ё)新垣「ニイ、ニイ」

川o・-・)紺野「でも、そんな人だって、その評価は絶対というわけではないんでしょう。太平洋戦争の前は持ち上げられてお札になっていた人の評価が一変したこともあったのではないかしら」

老人「そういうこともある」

(ё)新垣「ニイ、ニイ」

テレビのニュースが茶の間の話題を提供してくれた。話題の提供というよりもこの茶の間に物議をかもした。余は始終黙っていた。余のじいさんもお札に顔が載っている。余の隣に座っている(●´ー`●)安部は余が黙っている顔を見ていつものニタニタ笑いをしている。(●´ー`●)安部はなにかを知っているのかも知れない。次の日、楠雅儀が落ち延びてひそんでいたという洞窟を見に行くことにする。麓から見ると断崖絶壁にあり、中世の琵琶法師が命がけで登ったようなところだと思っていたが、そこに行く利便な路が開かれているそうだ。ばあさんの茶屋では木に隠れて円空の彫った険しい岩の切りあとしか見えなかったが、二百メートル下から普段着でも上がっていける路があるそうだ。余が老人から聞いてその路の入り口に行くと羅生門を小さくしたような門が建っている。余はその門の下をくぐった。両側には山間部に生えている樹木が茂っている。路そのものは岩を彫って登りやすい。路のすべてではないがところどころに朽ちているが平安時代の裏小路のような屋根がついている。そこを歩いていくと桂木門になった、路はちょうど中間ぐらいだろう。そこをくぐると一気に視界が広がった。路の左側は落ちて行かないように鉄の鎖が張られているがその鎖を張っている鉄の棒が途中で抜けでもしたら大変なことだろう。下で見たときのように崖になっていたのだ。酔狂な物見遊山でもここまでは上がって来ないようだった。大きな木がいっぱい視界より下のところに生えていて木のてっぺんがたくさん並んでいてこんもりした緑の毛糸で出来た小山のように見える。はるか下に清流が見える。ぽつんぽつんと藁葺きの農家の屋根が見える。庭にはなにかわからないが農作業の道具らしいものが置いてある。やがて楠雅儀があみ子ちゃんの先祖と結ばれたという洞窟の入り口に来た。ここが志保田の家のルーツである。洞窟の両側は茂みになっていて茂みの向こうには空に浮かんでいる雲が見えるその下のあたりにはたにしの集団のような山に植林された木が見える。山の方に向けられた視線をもとに戻す。さらに洞窟の入り口に近寄る。中に誰かいるようだ。余はまたどきりとした。入り口のかげに隠れて中のほうを見るとふたりの人影がある。二つの人影は奧の方でかがんでつづらのようなものをさかんに調べている。そしてふたりはこしかけてこちらを向いた。その顔を見て驚いた。井川はるら嬢と原た泰三ではないか。

洞窟の中はうまい具合に外からの光が入るようになっているのでそのことがわかった。余は中に入るべきかどうか躊躇した。

(●´ー`●)安部「ご主人さまー」

川o・-・)紺野「ご主人さまー」

(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニイ、ニイー」

坂道を上がってくる三匹の姿があった。

(●´ー`●)安部「ご主人さま、なんで、どこへ行くとも言わないで行ってしまうんですもの」

川o・-・)紺野「ご主人さま、洞窟の中でなぜ立ち止まっているんですか。この中に入りたいんじゃないの」

(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニイ」

余「うるさい。黙ってろ。静かにしろ」

余はまた洞窟の中をうかがった。三匹も余のうしろから洞窟の中を盗み見る。

(●´ー`●)安部「なるほどね」

川o・-・)紺野「なにが、なるほどなんですか」

(ё)新垣「ニイ、ニイ」

(●´ー`●)安部「ご主人さまはまだ、あんなくわせものに未練があるんだ。私たちというものがありながら」

余「うるさい。妖怪の分際で」

(●´ー`●)安部「もう、あの女は原た泰三の女だということはあきらかじゃないですか」

(●´ー`●)安部は孔雀の羽で出来たうちわを取り出して自分の方に涼やかな風を送った。余は頭をかきむしった。しかし、なぜ余がこの洞窟に来たことを知っていたのだろう。余に一つの疑問が生じた。三匹が妖怪だということを忘れていた。こんなことは簡単なはずだ。余の居場所を知ることなど。

余「しかし、なぜ、余がこの洞窟に来たことを知っているのだ」

(●´ー`●)安部「愛よ。愛の力よ。私たちのご主人さまですもの。当たり前じゃないですか」

川o・-・)紺野「これです」

川o・-・)紺野さんは自分のポケットから携帯電話を取り出すとボタンを操作した。突然、余のシャツの胸ポケットの中のものが鳴り出した。余はそこに電源を入れたまま携帯電話を入れておいたことを忘れていた。

川o・-・)紺野「今度、新しく出来た機種でこっちで電話をかけると相手のいる場所までわかるんです。最新式のGPSというわけね。もちろん人工衛星の下にいなければわからないんです」

妖怪たちも携帯電話を持っていたのか、余は自分の不覚を恥じた。と同時にしぼんだ粟粒が消えてまた別の場所から粟粒生じるようにある考えがひらめいた。大正時代の軍艦の設計者で足立政則という人間がいる。砲弾を自動的に装てんする装置を開発して功があった。その息子で足立愛田という映画監督がいる。その監督の作った「お墓に立てたマイホーム」という昔見た映画のことを思い出した。いかがわしい場所にお墓がたくさんあり、それらのお墓はみんな無縁仏だった。その土地の所有者が死んでその土地を譲られることになった主人公はある住宅土地会社にマイホームを建ててもらうことにする。しかし、どんな理由からかは覚えていないのだがその土地をその会社はどうしても欲しくてマイホームを建てながらその家にいろいろな細工をしようとする。家が建ってから住人がその家の不思議珍妙さに嫌気がさして家を手放すのではないかと悪知恵をめぐらしたのだ。その建設中の家がおかしいというので主人公の妻は大工たちの会話を盗み聞きするために携帯電話を通話中の状態にして置いてくるのだ。余もその方法を思いついたのだ。

余「お前たちは姿を消すことが出来るのか」

(●´ー`●)安部「人間の目に見えないようにするということですか。ご主人さま」

余「もちろん、そうだ」

川o・-・)紺野「そんなことは簡単です」

余は紺野さんの持っている携帯電話をひったくるようにとると電源を入れ、通話中にした。余「この携帯をふたりに気づかれないようにしてふたりのそばに置いてくることは出来ないか」

余の言葉が終わらないうちに(ё)新垣はその携帯をとると姿を消した。しばらくして(ё)新垣は余の前に戻って来た。

余「うまく、ふたりのそばに携帯を置いてきたか」

(ё)新垣「ニイ、ニイ」

その返事を聞くまでもなく、余の持っている携帯からは彼らの話声が聞こえてくる。

「そんなことをしたら、彼は悲しむわ」

「幸せのためではないですか」

「でも」

「愛されていると思うのですか」

「少なくとも嫌ってはいないと思う」

「進歩のためには必要ですよ」

「でも、なんか、可愛そう」

「自殺なんか、しないでしょう。ちょっと悲しむぐらい」

「滝から飛び込むかもしれませんよ」

「まさか」

余のはらわたは再びむんずと鷲掴みにされたような気がした。そのとき、余の携帯をのぞき込んでいた(ё)新垣が変な声を発した。

(ё)新垣「ニイガキ、ニタ、ニタ、ニイガキ、ニタ、ニタ」

余は(ё)新垣が携帯の話し口に近づいて話しているのを引き離した。しかし、事態は最悪だった。洞窟の中からふたりの男女が出てきた。片手には妖怪が所有している携帯を持っている。ふたりは余たちの前に立った。余が携帯を持つ手の力なく、ぼんやりとしていると(ё)新垣は余の携帯を取り上げ

(ё)新垣「ニイ、ニイ、ニイガキ、ニイ、ニイ」

と電話に声をのせると井川はるら嬢の持っている携帯からその声が出てきた。

井川はるら「こんなことをしてわたしたちの会話を聞いていたんですか。それも妖怪を手下に使って」

原た泰三は無言でその様子を見ている。この状況を妖怪たちは喜んでいるようにも悲しんでいるようにも見えた。

(●´ー`●)安部「プレーガール、キュッ、キュッ」

川o・-・)紺野「プレーガール、キュッ、キュッ」

(ё)新垣「プレーガール、ニイ、ニイ」

井川はるら「最低ですね。とにかく、この携帯は返すわ」

余は井川はるら嬢に嫌われてしまったようだった。余の落胆は冬の凍るような日々を前にした秋のようだった。

 花間 一壺の酒

 酒をくむは、われひとり、

 相親しむものもなし。

 杯をあげて明月を迎え

 その映る影は三人

 月、すでに 飲むを解せず

 影、おのずとわれに従う。

 月と影とを供なって

 行楽、すべからく春に及ぶかな

 われ歌えば 月 徘徊し

 われ舞えば 影もそれにしたがう。

 醒めるとき、ともに喜びをわかちあい

 酔ってのちおのおの分散する。

 永く無情の友となり、

 いつかふたたびまた会おう

 あの遙かな天の川の向こうで

余は志保田の家の中庭に竹の長椅子を出して酒をちびりちびりと月を肴に月を友として世の無常について語り合っていた。

 妖怪たちは余の部屋でこいこいをやっている。立て膝もあらわにもろ肌脱いで片手には芋焼酎のびんを握りながら畳の上に札を叩いていた。

障子に映る妖怪たちの姿は歓声とともに大きくなったり、小さくなったりする。誰かの札が揃ったのかも知れぬ。急に大きなときの声が聞こえた。

 余の悲しみを知るものは月のみしかなかった。いや、月だけではない。月の光で余の影ができる。この世に生を受けてから久しく、いつでもこの影は余の伴侶であった。失意のときも得意のときも余のそばを離れず、無情の友なのだった。ありがとう、もうひとりの自分よ。

 所詮、余に永遠に仕えると契約を交わしたといってもまだ十代の女の子ではないか。彼女らに恋いの情けがわかるわけがない。なかにはミジンコ並の知能の妖怪もいるのだ。相変わらず修学旅行の晩のようなキャキャした笑い声が聞こえる。別れということを考えてみた。別れを知らずに芸術家は芸術家になれるだろうかということがある。人はいつかすべてのものから別れなければならぬ。そのことを知らずに真実が見えるだろうか。そのことを本当に知っているものこそ真の偉大な芸術家である。余は別れを知っている、この点では有資格者である。

 それにしても妖怪たちのキャッキャッと騒ぎ声はうるさい。余をほっぽらかしておいて、ご主人さまを忘れているとは失格である。中庭に月に誘われたのか、あみ子がやって来た。

あみ子「なに、ひとりでお酒を飲んでいるのですか」

余「ひとりで酒を飲みたいときもあります」

あみ子「わからなくはないけど」

余「それはどういう言い方ですか、わからなくもないとは」

大きな声を出したあとで余は反省した、ここにもつらい別れを経験したひとりの女がいるのだ。しかし、本当に滝沢繁明となぜわかれることになったのだろう。つりの名人にして悟りきれないところがあるのだろうか。

あみ子「みんな、楽しそうですね」

余「あいつらのことですか。あんなガキはほっとけばいいんですよ。修学旅行じゃあるまいし」

あみ子「あの子たちに無視されているから、怒っているわけ、子供みたいね」

余「人間はみんな子供ですよ」

あみ子「みんなあなたのことを考えていますよ。今日、わたしが町に行くからと言ったら、なつみさんが、わたしに頼んだんです。これ」

あみ子は余に包装紙に丁寧に包まれた筆箱のようなものを渡した。余はそれを受け取ると包みを開け始めた。

あみ子「なつみさんがあなたに渡してくれって」

黒い丈夫そうな箱が出てきた。金色の文字が入っている。箱を開けてびっくりした。中からは海外ブランドの高級腕時計が入っていたのである。さっそく余はその時計を左手にまいてみた。あきらかに余には勿体ない品物である。金色に光る本体についている窓ガラスはダイヤのようだった。時計の秒針がカチカチと時を刻んでいる。

あみ子「これも渡してくれって」

そう言って手渡された封筒は厚い。中を開けてみると五十万円ほど入っているではないか。余はその札びらとともに障子のほうを見た。ありがとう(●´ー`●)安部なつみ、いや、妖怪、(●´ー`●)安部なつみさま、余はそのときはそれらの金がどうやって作られたのか、深く考えもしなかった。きっと妖怪が妖術を使ったんだろうと思った。そして余の名義で作った預金通帳にはもっと大変な金額が入っているのかも知れないと思った。これは大変なことである。(●´ー`●)安部はどのくらい金を稼げるのだろうか。妖怪にしておくのは惜しい。余もそろそろ現実に目を向けるべきだろうか。


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