第8回

第八回

 いくらなんでもこれから訪ねる那古井の地にはモンモン娘のような妖怪はいないだろうと思う。那古井は水と緑に囲まれた景勝の地である。その温泉も有名である。過去には日本の名泉五十に選ばれている。なによりも余がじいさんが訪ねた土地である。疲れた人の生命力をふたたび取り戻させてくれる空気が良い、水が良い、食べ物が良い、風景が良いという那古井の土地にモンモン娘のような不浄な妖怪がかかわるはずがない。これまでたびたび余の前にあの妖怪どもが姿をあらわし悪さをするのは余に関係があるだろうか。しかし余と人間とは別の世界にあるモンモン娘を結びつける鍵はいっさいない。余はじいさんのことで那古井の地に行くだけである。

列車で同席したじいさんと若者は女のこわい話しから始まってじいさんが得意とする釣りの話しに変わっていた。その前には226事件の話しもはさまっていた。じいさんは若い頃は日本橋の方の問屋に勤めていたらしい。その頃に226事件があったらしい。その日は朝から雪が降っていてラジオから禁足令が出たそうだ。しかしじいさんの向かいに座っている挙動不審の若者にそんな話しをしても若者にはとんとぴんとこない。それからじいさんの話しは自分が日本橋の問屋で働いていたとき意外と出世したことを、処世訓として話し始めた。おらはなにも言わずにもくもくと働いただ。みんな給料が安いとか、休みが少ないとかぶつぶつと言っていたがな。おらはそんなことは一言も言わずにもくもくと働いただ。それで上の奴がこいつは見込みがあるとか思ったんだろうな。じいさんの自慢話しは続いた。学問もそうだろう。こつこつとやるのが一番だ。挙動不審の若者はじいさんの問いかけに肯定も否定もしなかった。余はじいさんの論が本当かどうかかなり危ぶんだが別に反論も浮かばなかった。同じ席のふたりはなによりも余が目をつぶって寝ていると思っているに違いないのだから、ことりとも動くことは出来ない。昔、余にこんなことがあったのを思いだした。学校時代、バスで上高地のほうに学年全体が旅行したことがある。その観光バスの中にはカラオケの装置がしつらえてあって、バスガイドが歌詞が書かれた本を持っていて、それに対応したカセットも全部そろっていてその伴奏で歌を歌うことが出来る。クラスの中でも出しゃばりのワハハ本舗の柴田のような顔をした女がそのマイクを握ると後ろのほうを振り向いてカラオケ大会を始めようよ。指名を受けた人は必ず歌わなければならないのよ。歌った人は次の人に指名しなければならないんだから。先生から歌ってよ。と喚くと突然、担任の手に渡した。担任は高橋真理子の桃色吐息を歌って次の生徒にバトンタッチした。そのときである余が目をつぶって寝たふりをしたのは。そんな生徒が何人かいた。余はこの状態を思い浮かべながら、突然そのときのことを思い出したのである。

 釣りの話しをしながらじいさんは自分の横に置いてあるクーラーボックスをあけると中から冷えた桃をとりだして目の前の若者に勧めた。「泰三さん、くえや」「ありがとう」若者はその桃を受け取った。余は薄目を開けてその様子を見ていたが、その男の名前が泰三ということを知った。しかし、その名前もすぐに忘れてしまった。「ほら、新聞紙」じいさんは新聞紙も渡した。若者はもらった桃をむきながらその皮を足下に広げた新聞紙の上に落とした。じいさんも同じようにした。ふたりで五個くらいの冷えた桃を食ってそのかすを新聞紙にくるんで足下に置いた。

「おじいさん、竜田川ではどんな魚が釣れるんだい」竜田川というのは線路にほぼ平行に流れている川の名前である。山の中の川にしては水量が豊かで水は清らかである。「やっぱり、鮎じゃな。ここは水の流れが急じゃから身がしまってうまいんじゃ。それにほかの川でとれた鮎より、身体の色が少し青っぽいんじゃ。駅の隣に山海亭という料亭みたいのがあるじゃろ。あそこで釣った魚を焼いて食わせてくれるし、そこからこんろを借りれば川端でも焼いて食えるんじや」若者はその話しに多いに興味を持ったようだった。余も同時に興味を持った。「おじいさん、那古井でつりの名人と言ったら誰なんだい」若者は歯をむき出してカップ酒を口にしながら言った。ゴリラが喜んでいるようだった。いつの間にかじいさんと若者はカッブ酒を買って口にしている。そうだな、じいさんはたばこ入れからきせるを取り出して磨きだした。「わしがそうだと言ったらいいんじゃがな。わしよりも名人がいる。まだ若い」「おじいさん、誰なんだい」「しかも、女じゃ」「おじいさん、人が悪いな。早く教えてくださいよ」「鈴木の本家の一人娘がいるじゃろう。鈴木あみ子お嬢さんだ」そのとき余は鈴木あみ子と言われても誰のことだかよくわからなかった。那古井のひとつ前の駅で若者とじいさんは降りて行った。その駅で三分ぐらい列車は停止した。機関車の車輪の回る音が止まるとときどき動力車のボイラーの蒸気を抜く音が聞こえる。その合間に川のせせらぎが聞こえるのだ。この駅にいて川のせせらぎの音が聞こえるということは川の水量が多いのか。ここが静かだということだろうか。そのほかの音としては鳥の鳴き声が聞こえるだけだったからだ。また列車が出発しようとする少し前に余の乗っている車両に誰か乗って来た。列車の入り口から客車の中央にその人が立ったとき、余は自分の目を疑った。なんでこんな人がこんな田舎に来たのだろうか。その人の姿はまるでグラビアの女王のようだった。身体の線がはっきりとわかる軽い着心地の服を着ている。天の羽衣が地上に降りて来たときはこうなのかも知れない。そのくせその顔立ちは慈愛に満ちていて白衣の天使のようだったのだ。前方の通路の中央に立つと客車の中を見渡している。この車両の中には余しか座っていない。余と目が合うと彼女はにっこりと笑った。彼女は列車の中を歩いて来ると余の斜め前の方の通路をはさんだ向かい側のところに席をとった。このさきで彼女は降りるのだろうか。余は思った。次の那古井の駅が終点である。当然、彼女も那古井の駅で降りることだろう。と云うことは彼女も那古井のどこかの温泉宿に泊まるのだろうか。那古井の地で彼女が何をするのかわからないが、彼女とそこでまた出会うかも知れないのだ。余の期待はいやがおうでも高まった。余は座っている彼女の姿をちろちろと盗み見た。そこで余の足下にあのふたりが残して行った、桃の食いカスを包んだ新聞包みがあることを思いだした。この包みをグラビア女王らしい、彼女はどう思うだろう。きっと公共心のない男と思うかも知れない。窓から捨てるか。いや、待てよ。この汽車は進行している。汽車から捨てればゴミが舞い戻って来てまた列車の窓にぶっかって窓は汚れてしまい彼女に悪い印象を与えてしまうだろう。そうだ。そこで余は思いついた。便所から捨てればいい。便所の大便のふたから外に落とせばゴミはレールの上に落ちるだろう。まだ新幹線などがこの世に現れない時代の話しだった。大便も小便もタンクにためて施設に持ち帰ることなどせずレールの上にまき散らかしていたのである。だから駅のそばでは便所に入ることは出来なかった。余は照れ笑いをしながら新聞のインキのにおいのついた包みを持ちながら便所への通路に向かった。そのあいだ余の耳の片隅にはニイニイという変な音がかすかすに聞こえていたのだが空耳だとばかり思っていた。列車の中の便所の戸を開けて中に入るとどこからかニイニイという耳障りな音がまた聞こえ始めた。便所の中は一メートル五十センチ四方の木の箱で真ん中にふたをしめてある木のふたがある。その前の壁にはしんばり棒がついている。右斜め後ろには小さな洗面台が置いてあってその下に便所掃除のための柄のついたたわしだとか、じょうろだとか、吸盤のお化けのようなものが掃除のために置いてある。余は自分の耳に神経を集中させた。音がしている方向がどこか、しょっちゅう間違えている。パトカーのサイレンの音がしても関係のないほうに顔を向ける。でもこのときはここだろうとあたりがついた。便所のすみにしか盲点はない。壁の向こう側から音がしているとは思えない。余はおそるおそる、掃除道具の置かれているほうに顔を向けた。たしかにニイニイとアブラゼミのような音が聞こえる。余は大きな吸盤の柄をとるとそっと持ち上げてみた。そのときだった。その物体は凶暴になったときのグレムリンか、フライングキラーフイッシュか、便所のすみから急に飛び出して余の顔のほんの数十センチ横を通り過ぎて便所の斜め上方にへばりついて、ニイニイと鳴いている。単細胞生物め。余ははきすてるように言った。最初の攻撃に失敗するとまた便所の壁にへばりついてニイニイと鳴いているしか能がなかった。それは体長二十センチほどのモンモン娘の新垣だった。ステゴザウルスは脳が分散されて存在すると云われている。巨大な身体をコントロールすることが出来ないからだ。新垣はほんの二十センチほどの肉体の中には小脳しかなかった。ホルモン調節と生存欲求しかなかった。余は吸盤を取り上げると壁にへばりついた新垣に押しつけた。新垣の口にはピラニアのような歯がついていてやはりニイニイと鳴いている。余は吸い付いた新垣を便器のふたを開けるとその中に入れた。下には走り去るレールが見える。吸盤をふると新垣はニイニイと叫びながら地べたにおちて行った。さよなら妖怪。余はつぶやいた。余は何事もないふりをして余の席に戻った。列車の中ではやはり例のグラビア美女が物思いにふけている。余はすっかりその姿に見とれてしまった。自分のかばんの中にあんず酒が入っていたことを思い出して鞄の中を探る。しかしなぜ余の行くところに妖怪モンモン娘が出現するのだろうか。余にはその答えを見つけることが出来ない。鞄の底のほうを探ると堅いものが指先に触れた。しかし、あんず酒ではなかった。少し離れたところに座っていたグラビア美女がその姿を見て微笑んだ。「なにを探していらっしゃるのですか」それがその女の声を聞いたはじめだった。「なにか、飲もうと思って」余はモンモン娘の一匹に襲撃されたことは言わなかった。「ちょっと待ってください」

彼女は横から缶入り飲料を取り出した。「これを飲んでください。いっぱい持っているんです。スポンサーからもらったんです」それしはお茶だった。余は恭しくそのお茶を受け取った。余は缶のプルトップを引っ張る。余は余のじいさんの茶の飲み方の話しを思い出した。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違いだ。舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方に散ればのどへ下るべき液はほとんどない。ただ馥郁たる匂いが食道から胃のなかへしみ渡るのである。歯を用いるのは卑しい。水はあまりにも軽い。玉露にいたってはこまやかなること、淡水の境を脱して、あごを疲れさすほどの硬さを知らず。結構な飲料である。眠られぬと訴えるものあらば、眠らぬも、茶を用いよと勧めたい。云々。じいさんは羊羹についてもしゃべっている。しかし余はその茶をぐびぐびとバカボンのパパのように飲んだ。飲み終わって余は深呼吸を一つした。すると例の美女は余の顔を見て満足気にほほえんだ。「ありがとう」「どういたしまして」余は彼女と旧知のあいだからのような気がした。余は彼女の名前を知りたかった。「お名前はなんと言うんですか」「井川はるらともうします」「那古井に逗留するのですか」「ええ」「どういう目的で」しかしはるら嬢は那古井を訪ねる理由を言わない。逆に余がなぜここに来たのか聞いてきた。余もその問いに答えることが出来なかった。お互いに答えることの出来ない秘密を胸に抱いたままふたりはある距離を保っていたのだった。余には少しの寂しさと同時になにか自分でも予測出来ない期待のような感覚があった。

 汽車は那古井についた。余は那古井に着いたら真っ先にしようと思うことがあった。駅出るとはるら嬢は駅の隣の料亭に行った。余は駅を出ると目の前には数え切れない杉の木が視界を覆った。その杉の木々の葉は春雨に煙っている。千年杉という言葉が心の中に浮かんだ。実際、余の視界に入っている木々が千年の命を持っているとは思えないが、余の命の百倍も生きていることは確かだろう。この世の不浄なほこりっぽいゴミを浄化してくれる自然の浄水器である。杉の葉の上に落ちる雨がたどる旅の姿が目の前に浮かぶような気持ちがする。葉のさきからしたたり落ちる雨水はすでに清らかになっている。古代の人間は杉の葉をたばねて汚れた水を濾過するための道具を作ったのではないかと勝手に考えた。川のせせらぎの音が身体に静かに響いてくる。はるか向こうには緑の山が幾十にも重なっている。はやりの言葉を言えばマイナスイオンが山々の木々から発せられ、ここを訪ねる人を直撃している。駅の前は旧街道になっていて車が一台通れるかどうかという細さだった。駅を出た直後に大きな看板が立っていて那古井あゆ釣り場と書かれていて大きな岩がくり抜かれていてその下に道が出来ていて川に降りられるようになっている。ふり返って駅とその隣に建っている料亭を見るとまるで民芸品のおもちゃの家のようにみえる。本物の木の肌をはがして屋根に張り付け、かんなをかけない荒い木の目地の見える板材で壁を作った家のように見える。大きな水車でも付いていればなおさら似合うだろう。駅のうしろも山が重なっている。幽すいな景色だった。霧雨の中を遠くでとんびが飛んでいた。川に降りていけるトンネルの入り口はえんま大王の住む地獄の入り口のように見えた。もしくは桃太郎が鬼退治に出かけた鬼ヶ島の入り口か。どこかの遊園地で南極と同じ世界を体験させるというアトラクションがあってその入り口もこんな感じだった。余はそのトンネルをくぐって中に入った。崖のようなところにはところどころ巨岩がむき出しになっていてそのあいだを木がはえていて根を横に張っている。まるで猿飛佐助が修行をしたようなところだった。しかしその階段の途中から折れ曲がっていて広場のようになっていて大きな屋根のついた調理場のような施設があった。そこは下に炭を焚けるようになっていて灰の中にさしたままの鉄ぐしもある。ここで釣り人は釣ったあゆを焼いて食べるのかも知れない。その調理場は壁のないバンガローのようだった。そのうしろは苔の生えた大きな岩の壁になっていて石清水がちょろちょろと出ている。こんろは料亭、山海亭で貸し出しますと張り紙が張られている。余は那古井の駅に着く前から列車の中でのじいさんと若者の会話が気になっていたのだ。那古井一の釣りの名人がいる。それが女で。鈴木あみ子ということを。じいさんはその女が女釣りきち三平と呼ばれるぐらいだと言っていた。余は鈴木あみ子が見たかった。たとえその本人に会えなくてもあみ子がいつも釣りをしている場所がどんなところなのか知りたかった。春雨の中を余はその階段を下りて行く。川のせせらぎの音はますます大きくなる。川を流れる水は岩にぶっかり飛翔となって細かい霧のつぶになり、空中に漂う。それは春雨の雨粒と混ぜ合わさって空中にただよっている。雨具が必要なほどの雨ではない。川底になればなるほど巨岩が多くなる。川岸には三メートル四方の小舟のような大岩が置かれている。そして余は目を疑った。大きな岩の上で三メートルほどの竿を振っている人影があった。確かにそれは女の子だった。「釣りきちあみ子」余は心の中でつぶやいた。確かに彼女は魚神であった。彼女は竿を投げ込む。そしてゆっくりと竿を半周させて上げると若鮎が糸のさきにかかっているのだった。彼女が上げた竿のさきで銀色に輝く若鮎が彼女のあやつる釣り糸のさきからのがれようと身をくねらせている。余は彼女の立っている岩の横で手を叩いた。「あなたは」「あなたが釣りきちあみ子さんですか」「ええ、どういうことですか。わたしはたしかに鈴木あみ子といいますが」「列車の中で聞いたんです。那古井で一番の釣りの名人がいるって」すると途端に鈴木あみ子の顔は不愉快な色が浮かんだ。「誰から聞いたんですか」「おじいさんですよ。きっとここの土地の人だと思います」「まったく、余計なことを言って、わたし不愉快ですわ。きっとほかにもいろんなことを言ったんでしょう」そう言いながら鈴木あみ子は自分の釣りの道具をしまい始めた。「余がいるから不愉快になったんで釣りをやめるんでしょうか」「そんなことはないわよ。ただやめたいだけ」「自分のことを知っている人が横にいるのがいやなのですかな」「いいえ、釣りというのは微妙なものなんです。気がちるわ。わたしの釣った鮎あげます」「急にもらっても」「そこに見えるでしょう。そこで鮎が焼けるんです。コンロもあるし、わたしも暇だから、そこで鮎でも食べて帰るわ」どうも鈴木あみ子を怒らせたみたいだったが、鮎をただで食べさせてくれるという。あみ子は大岩の上から降りると階段を漁果を持って上がっていった。余も彼女のあとを上がっていく。調理場につくとガスの入ったコンロに火をつけた。春雨に濡れたあみ子の顔は生まれたばかりの魚のようにつやつやとしていた。髪が濡れてよじれている。つりきちあみ子はそこに置かれている鉄ぐしを持って灰の中をいじっている。「東京から来たんですか」「ええ」「わたしのことを釣りきちなんて誰が言ったの」あみ子は釣った鮎を串刺しにしながら手で塩をつけた。調理場の横では自然の沸き清水が常時、竹のパイプのさきからちょろちょろと流れている。あみ子は鮎の串を灰に刺した。初対面の余に鮎の塩焼きをごちそうしてくれると云うのはどういうことだろう。余に信を置いたのだろうか。灰の中の炭に火をつけた。そしてその火をあびさせるために鉄ぐしをさした鮎をその火を囲むように逆さにつきさした。鮎は頭のほうから脂がしたたり落ちて行く。よいにおいがあたりにただよう。その場所の後ろは石清水をためて置く小さな池になっている。ほとんど家庭用の風呂桶と大きさはたいしてちがわない。その池から水柱が幾筋も立った。そのとき余の背後からいっせいに多数の小さな怪物が躍り出てきた。怪物はみんな凶暴な歯を持っている。しかし大きさは十五センチほどしかない。あみ子は身構えるとそこらへんにある数十本の鉄ぐしを余の背後に投げた。ぐきゃ、にいにい、ぐきゃ、にいにい、そこには数十匹の凶悪な顔をした新垣がいた。あみ子の投げた鉄ぐしは新垣のひたいに刺さり絶命した。何匹かは鮎を焼く灰の上に落ちた。余が後ろを振り返ると草陰にいた新垣が飛び出して来て余の指にかみついた。余は手を振った。かみついた新垣は離れない。新垣を振り払おうと必死になって手を振ると指先が痛い。いつだったかアメリカザリガニのはさみではさまれたとき以来の痛さだった。「それっ」あみ子が鉄ぐしを投げると新垣の額に命中して余を噛みついていた力を失って、ぐぎゃ、にいにいとうめいて地べたに落ちた。妖怪にいがきはそこら中に数十匹が死んでいた。あみ子の投げた鉄ぐしの命中率は恐ろしいほどだった。しかしなかには絶命せずに仰向けになって足をぴくぴくさせてうめいている(ё)もいる。余の(ё)が噛みついた指からは三十秒に一度くらいのわりで血がぽたりと一滴のしずくになって落ちて行く。それを見て瀕死の新垣(ё)の中の一匹はこの世の中にこれほどおもしろいものはないというような顔をしてにやにや笑っていた。その笑いには安部(●´ー`●)と同様なものがあった。余はふつふつと怒りと憎悪、この世の中でそれらのすべての暗黒面のものがわき上がってそばにある手頃な石を取り上げると余の不幸をせせら笑っている(ё)の顔面に全力でもってうち下ろした。「この野郎。この野郎。(ё)死ね。死ね」

何度も何度も(ё)の顔面に石を打ち当てた。気づくと(ё)の頭部は灰の中に埋まっている。そしてその顔はやはり不気味に笑っていた。「どうなされたんですか」すずやかな声がして余がうしろをふり返るとさっきの列車の中で出会った井川はるら嬢がそこに立っている。横ではつりきちあみ子が処置なしという表情をして両手を大きく広げてみせた。井川はるら嬢がそこに来たときには(ё)の死骸はまるで空気に同化したように霧となって消えてしまった。やはり妖怪だ。と余は思った。しかし神が創りたもうたこの世に妖怪が同化することは納得がいかない。「指から血が出ていますわよ」「どうということはないです。これも正義のためですから」「わたしがやっっけたんじゃない」あみ子はうそぶいた。あみ子は不満気だった。井川「ちょっと、待って」井川はるら嬢は余のそばに寄ってって来て余の指の傷を見る。その噛みあとに興味を持っているようだった。井川はれら嬢の目の光りは死体監察官のようだった。余「たいした傷ではありませんよ」井川「でも、ちょっと傷口を洗ったほうがいいんじゃないでしょうか。でも、どんな獣に噛まれたんですか」余「それはちょっと説明しにくいんですが」余があみ子ちゃんのほうに助けを求めると勝手にしてよ、というような表情をつりきちあみ子はした。井川「この清水がたまっている岩風呂で指を洗ったほうがいいですわ」あみ子「だめよ。そこに書いてあるでしょう。この水は岩清水を集めたきれいな水です。飲み水にするのは自由ですが、ここで洗い物などをして水を汚すことは絶対にやめてくださいってね」あみ子は鉄ぐしをもてあそんでいる。あみ子の釣ったあゆはさっきの戦闘ですっかり灰や泥まみれになって食べられなくなっていたのであみ子ちゃんはそれらをゴミ箱の中に捨てた。井川「上にある山海亭に行けば、そこで傷口を洗って、絆創膏でも貼ってもらえるんじゃない」余「そうします」余と井川はるら嬢がまた石造りの階段を上がって行くとつりきちあみ子は自分の釣り道具をまとめて余たちのあとをついて来た。あみ子「待ってよ。わたしも駅の水道でつり道具を洗うから」川岸から階段を上がってまた上まで行くと那古井の景色が一望できる。春雨に煙る杉木立を見ると余はまた人間界と仙界の境に来たのだという思いがした。仙界には少しおきゃんなつりきちあみ子がいる。そして人間界から美しい乙女が訪ねてくる。そして言い忘れたことだが妖怪たちが余の周囲を渉猟している。駅の前に来たところからあみ子は自分の釣り道具を洗うと言って駅の水道に行った。この駅にはここの川で釣りをする人間のために簡単な洗い物が出来るように水道設備が外についているのだった。余と井川はるら嬢は長年のすすですすけたこれぞ民芸品という感じの料亭山海亭の前に立った。噂によるとこの宿は日本の民芸運動の先駆者、浜田正治の家を五年がかりでこの那古井の地に移築したという。梁の古木は三百年前のものだと言われている。大きな看板のうしろにある障子をあけて井川はるら嬢が声をかけると宿にいた従業員がみんな一斉にこちらを向いた。しかし変なことにその従業員の顔はみんな同じだった。表情も同じだった。大きな川o・-・)紺野と小さな紺野がいっせいにこちらを向いた。大きな紺野は帳場に座っている。七十八パーセントに縮小された小さな紺野たちは一階の食堂で忙しく働いていた。この二階が宴席になっていて、一階の奧の方が宿と調理場になっている。井川「おかみさん。この人がけがをしたんです。傷を洗って、絆創膏を貼ってもらいたいんです」紺野「どれどれ」大きい紺野は余のそばにやって来ると余の傷口を眺めた。大きい紺野「みんな、こっちに来て」するとその場所にいた五、六匹の小さな紺野たちは余のそばに未確認小動物のように集まって来て円陣になって、余の傷口を見つめている。大きな紺野「みんな手桶に水を持ってらっしゃい」すると一斉に小さな紺野たちは宿の奧のほうに走って行った。そして木製の手桶に入った水ときれいな手ぬぐいを持って来た。余「自分でやります」余はその清涼な水の中に自分の手を入れると傷口からほんの少しだけ血が出た。そして透明な水をちょっとだけ汚した。この桶の中が地上だとしたら積乱雲が生じたようだった。余は取り出した手を手ぬぐいでふくとそれは出来ないので井川はるら嬢に絆創膏を貼ってもらった。余の心臓は少し動悸を覚えた。食堂のあがりかまちに腰掛けながら余は妖怪(ё)におそわれたことを話そうかどうか迷っていた。余の横には井川はるら嬢が座っている。食堂では縮小サイズの紺野さんたちが机の上を忙しそうに拭いたりしている。帳場に座っている大きな紺野さんは宿帳を見ながらしきりに大きな五目玉のそろばんを使って計算している。おもしろいことには大きな紺野さんも、小さな紺野さんもみんなちょんまげを結っていて、江戸時代の設定の漫画はぐれぐもの息子がかけているようなひもで耳にかける丸めがねをかけている。大きな紺野さんの後ろには大きな水槽があった。井川「大きな水槽ですね。それに大きな金魚」紺野「ここまで育てるのは大変だったのよ。あら、忘れていた」大きな紺野さんはそう言って立ち上がると便所の便器を掃除するような棒のさきにナイロンたわしのついているものをとりだして大きな水槽の内側を掃除し始めた。中では七十センチあるくらいな金魚が泳いでいる。その水はあくまで清涼で少しの淀みもない、一日と言わず何時間に一回という割合で水を交換しているのだろうか。透明な水を折り畳んだような水槽の中で大きな金魚は泳いでいる。大きな紺野さんは楽しくて仕方ないという要素を含めて愚痴を言い始めた。紺野「これでなかなか大きな宿だから掃除をするのも大変ですよ。そのうえにこの水槽の掃除をしなければならないし」

余「でしたら、金魚を川にでも放してさしあげたらよろしいのに」

すると紺野さんの目はしだいにうるうると潤んで来た。

紺野「なにを言うんですか。あなた」どうして大きな紺野さんが動揺したのかわからない。なにか川o・-・)紺野さんの根本のもっとも中心となったくずれやすいところをゆらゆらと揺らしたのだろうか。そのとき、入り口の障子がどんどんと叩かれた。紺野さんはますます動揺して

紺野「あなたたち、表に出てくれません。会いたくない人が来ているんです」その様子があまりに哀れだったので余と井川はるか嬢は表に出た。そこには洗ってきれいになった釣りの道具をかかえているあみ子ちゃんと見知らぬおばさんが立っていた。

「今日は休業しますと張り紙をしておいたのに、あんたたち剥がしたんだね。それだけならいいんだけど勝手に入って」

井川「そんなことを言って。中では紺野さんが働いていますよ」

するとおばさんはいまいましそうな顔をした。

「また、あの妖怪が出て悪さをしているんだ」

余「この人は」

あみ子「この山海亭のオーナーよ」

余「じゃあ、中で働いている大、小、合わせた紺野さんは一体誰なのよ」

「だから妖怪だと言っているでしょう」

余と井川はるか嬢が食堂の中をふり返るとそこには紺野さんたちはいずに川o・-・)帳場のところには大きなかぼちゃとごほうときゅうりが置いてある。そのうしろの大きな水槽では巨大な金魚が中に入っている松藻をゆらゆらとゆらしながらゆうゆうと泳いでいる。井川はるら嬢はこの事態にひどく興味を持っているらしかった。

井川「こんなことはよくあるんですか」

「そうよ。この前なんか、うちが百年前から継ぎ足し継ぎ足し使っている鰻のたれが少なくなっていると思って、奧のたれの入った瓶を見張っていたのよ。そうしたら、夜中に誰かがたれの入った瓶の前でたれをぺろぺろなめているのよ。顔は長い髪で見えなかった。そのふり返った顔を見たら驚いたわ」

余「誰だったんですか」

「飯田かおりだったのよ」

余はこの料亭を離れて山に登ることにした。そしてつりきちあみ子と鈴木あみ子ちゃんは町まで用事があるので行くという。余は鈴木あみ子ちゃんが何者なのか、そのときはわからなかった。ただ釣りのうまい女の子とい印象しかなかったのだ。そして余の指のけがを治療してくれた井川はるら嬢は観海寺という寺に行くという。もちろん余にはるら嬢の目的はわからない。彼女とも余はここで別れなければならない。余は心残りを感じた。初対面とはいえ彼女に指のけがの治療をしてもらい彼女の顔は余のそば二十センチまで近づいた。彼女の息づかいもばらの花のような香水のかおりも余の鼻腔を刺激した。もしかしたらそれは香水ではなく彼女の体臭だったのだろうか。まったく生理的に嫌悪を感じている人間にそんなことまでしてくれるだろうか。と同時に彼女が独身なのだろうかということが頭をもたげた。その質問をうまく聞くことが出来るだろうか。

余「お一人ですか」これは一人旅かということを意味している。と同時に結婚しているかということを聞いたつもりだったが、自分ながらこんなときに知恵が回らないのでいやになる。しかし井川はるら嬢はそのことに気づいたようだった。

井川「わたしまだ結婚していないんです」

その言葉を聞いて余の顔は自然にほころんだかも知れない。鏡がそこに置いてあったら余は赤面したことだろう。そしてその言葉に本来なら喜んでいいはずなのに余の心のどこかにはまたあらたな疑念が生じてきた。

余「もしかしたら、あなたは誰か運命の人に会いにここに来たのではありませんか」

そのぎこちない表情や子供っぽい質問に井川嬢は表情をくずした。もしかしたら余が井川はるら嬢に好意を持っているということを知っているのだろうか。

井川「運命の人、そんな人はいませんわ。もし、いるとしたら運命の骨董品かしら。うふふふふ」

井川はるら嬢の謎めいたほほえみは余を魔界の迷宮に導き入れる。余は彼女の心の中に入って行きたい欲望を感じた。彼女の心の中に隠された言葉を口から発せられる言葉とともに外界に引き出したいと思った。しかし彼女はなにも答えない。井川はるら嬢はおそらく投宿していると思われる宿へと向かった。

余は山を登っていかなければならない。

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