第3話 影からの刺客

「鈴玲様、お疲れ様でした! お陰様で、時間内に作業を終える事が出来ました」

「お役に立てたようで何よりです。また何かありましたら、私共にお声掛け下さい」


 かなりの量ではあったものの、予定通りに洗濯物を取り込み終えた鈴綾。

 妃嬪達の分は尚服司の女官達が担当してくれたお陰で、以前の水汲みよりも数段手早く作業を完了出来た。

 途中、重たそうに籠を運ぶ女官が居たので運搬を手伝ったり、取り込む最中に風で飛ばされた洗濯物が地面に落ちてしまう前に、鈴綾が颯爽と駆け付けて宙で掴んだり……と、少々他の女官にも手を貸しつつの作業であった。


「それでは、私はこれにて失礼致します」

「ご助力頂き、ありがとうございました!」

「鈴玲様、本日は誠にありがとうございました!」


 鈴綾が礼をして立ち去ろうとすると、手を貸した女官達が深々と頭を下げて見送ってくれる。

 先日の水汲みの件での罪悪感もあるのだろうが、今日こうして鈴綾と直に触れ合った彼女達は、鈴綾の誠実さに惹かれていた。

 昇進欲のあった胤珊に表立って逆らえなかった女官達にとって、胤珊を尚服司から遠ざけてくれた鈴綾は、正に救世主だ。

 加えて周囲に気配りも出来る、凛とした立ち振る舞いの鈴綾。新人女官ではあるものの、不思議と頼り甲斐のある彼女に好意的な感情を抱く者が多かったのである。


 鈴綾としては、自分に出来るだけの事をしたつもりだった。

 実家は武家で、その家の娘として生まれた鈴綾にとって、掃除や洗濯といった家事にはあまり縁が無かった。

 幼馴染の桃香は皇帝の妻となるべく、相応しい教育を受けていたが……鈴綾は手芸や舞などの勉強をせず、どれだけ人の命を刈り取る技術を習得するかに心血を注いできた女だ。

 武器の扱い、身体の扱い、戦術の勉強、武人としての心構え──それらは後宮の女としては不必要なものであり、それしか知らない鈴綾がこの場で役立てる才能など、無いに等しい……はずだった。

 けれど、彼女達は……私が偶然手を貸したに過ぎないというのに、あんなにも嬉しそうに笑ってくれた。心からの感謝を述べてくれた。

 戦働きでしか評価されてこなかった鈴綾にとって、ここで得た全く新たな反応。

 天才剣姫けんきはやされ、同時に恐れられていた頃では絶対に味わえなかった温かな感情が、鈴綾の胸の奥にじんわりと広がっていく。


「私の手は……人を斬るだけのものでは、なかったのだな」


 ぽつりと呟いた言葉は、静かに真昼の空気に溶けていった。

 昼餉の時刻を迎えた後宮内は、外を出歩く者も少ない。鈴綾の他には人気も無く、小鳥のさえずりだけが聞こえる。

 鈴綾も食事を摂るべく、一度青龍殿へ戻ろうとしていた──その時だ。


「……っ、何奴⁉︎」


 庭園の側を歩いていた鈴綾の背後から、鋭い殺気。

 瞬時にその場から飛び退いた鈴綾の鼻先を掠めたのは、細い金属の針だった。

 針が飛んで来た方向に目を向けると、太い樹木の陰に潜む男の姿がある。その人物は木の陰にしゃがみ込み、手に筒状の物を持っていた。

 もしや、あれは吹き矢か……⁉︎

 ならば先程の針の先端には、毒が塗られていたに違い無い。周囲に人影が無い事から、あの針は鈴綾を狙って射出されたものなのだろう。

 しかし、何故あの男は私を狙って……否、理由を考えるのは後で良い。今は一刻も早くあの男を捕らえ、危険を排除するのみだ!


「くっ……!」


 鈴綾への奇襲が失敗したと知るや否や、男は木の陰から走り出し逃走する。


「逃すかっ!」


 けれども鈴綾もそれを見越して、男が走り出すのとほぼ同時に駆け出していた。逃げたのは玄武殿の方角だ。

 全速力で駆け抜ける男を追いながら、鈴綾は視界の端に捉えた木の棒──玄武殿横の物干し場にあった、物干し竿を拝借する。

 軽い寄り道をしたせいで男との距離が離れてしまったものの、鍛え抜かれた鈴綾の脚力と体力の前には、例え男であろうと常人に過ぎない。

 いつしか男の背中が目の前にまで迫ったところで、鈴綾は手にしていた物干し竿で、男の後頭部に激しい突きを入れる。


「ぬわっ⁉︎」


 前のめりに体勢を崩した男は速度が緩み、遂に鈴綾の手が届く位置にまでやって来た。

 鈴綾は勢いをそのままに、男の背中に思い切り体当たりをして転ばせる。すかさずその上に馬乗りになり、鈴綾の長い三つ編みを後頭部で纏めていた小花のかんざしを引き抜く。

 金の簪の先端は、肉を貫く程に鋭い。それを男の首筋に向けながら、鈴綾は問うた。


「貴様……何者だ? 何故私を狙った?」

「うぐっ……」


 男の着ているものは、宦官が身に付ける服だった。

 つまりこの人物は、元から後宮で働く宦官であるか、何らかの手段で宦官服を入手した外部の人間だと考えられる。

 どちらにしろ女官の命を狙ったろくでもない男に変わりは無いので、鈴綾は遠慮無く男を追い詰める言葉を吐き出した。手にした簪を、ぴたりと肌に突き付けながら。


「ひぃっ……⁉︎」

「……真実を告げないのであれば、私は容赦無く貴様の首にこれを突き立てる。それをするだけの技術はあるし、他人の命を刈り取った経験も豊富だ。それでも口を割らぬというのなら──」


 ただただ淡々と、冷酷に告げる鈴綾。

 冷え切った鈴綾の眼が、必死に首を回してこちらを振り向く男の眼とぶつかり合う。

 地面に倒れ伏す男は、自分を簡単に取り押さえたこの女が嘘など何一つ言っていないのだと、本能的に察知した。

 思わず恐ろしさに震え上がる男の身体に触れながら、鈴綾は言葉を続ける。


「──この場で貴様を殺める事を、私は決して躊躇ちゅうちょせぬぞ」

「……っ、わ、分かった! 頼む、頼むからっ、命だけは助けてくれぇ‼︎」

「……初めからそう素直にしていれば良かったのだ。手間を掛けさせるな」


 鈴綾の尋常ならざる殺気に当てられて、呆気なく折れた男。

 実の所、この人物を殺す事に利益は無い。ここで情報を吐かせなければ、誰が鈴綾を殺したがっていたのか分からなくなるからだ。

 けれども鐘家の姫としては、相手に舐められる訳にもいかない。

 戦場で培った殺気を武器き、徹底的に相手を追い詰めて情報を引き出す。それがこの場で最も正しい手法だろうと判断しただけの事だった。

 背中に馬乗りになった状態は維持したまま、鈴綾は少しだけ男の首筋から簪を引き離した。それでも男が少しでも不審な動きをすれば、いつでも殺せるだけの用意は出来ている。

 しかし、早く済ませなければ誰かにこの状況を目撃されてしまうだろう。それはあまり良いとは言えない。


「手短に済ませろ。……私を狙うよう命じたのは、どこの誰だ?」


 すると男は、情け無く声を震わせながら言う。


「さ……燦……燦大尉、だ……」

「燦大尉、だと……?」


 男の口から告げられたのは、ある意味では想定内の──ある意味では予想外の人物の名前だった。

 燦大尉……燦という名には、鈴綾も覚えがあったからだ。


「……燦大尉というのは、淑妃様の縁者だな」

「あ、ああ……。燦大尉……燦項馬こうば様は、淑妃様の兄君にあたられるお方だ……!」

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