第5話 白夜宮を知る者
書簡を携えた鈴綾が訪れたのは、上品な黒で統一された建物──
ここは昨日もやって来た場所だったが、玄武殿の中にまでは足を運んでいない。尚服司の主な仕事場である外の洗濯場と、井戸との行き来のみだったからだ。
今朝も忙しなく働く、玄武殿の女官達。彼女達のいずれかは、今回鈴綾が用のある尚食司の人間であるはずだ。
まずは、玄武殿の入り口に立つ見張りの宦官に声を掛けてみる。
「すみません。尚官司の者なのですが、尚食司女官長様へ書簡のお届けがあって参りました。女官長様はどちらにおいででしょうか?」
鈴綾の問いに、宦官の視線が頭の簪へと注がれるのが分かった。
「金の小花……確かに、尚官司の女官のようですね。尚食司女官長でしたら、この扉を抜けた左側の通路へお進み下さい。奥の方に女官長様の執務室がございます」
「ありがとうございます」
礼を言ってその場を後にしようとした鈴綾。だが、一歩踏み出した鈴綾を宦官が呼び止めた。
「今の時間帯は、朝餉の片付けと
刺激するな……という事は、皆忙しさのあまりにぴりぴりしているのか。
そこに部外者が──仮とはいえ後宮入りして間もない新人が飛び込むのだから、下手な行動をすれば尚食司女官達の逆鱗に触れる。
宦官の彼が言ってくれているように、彼女達の邪魔をしないように動くべきなのだろう。
「……分かりました。ご忠告、痛み入ります」
「いえ。最近は皆、気が立っているので……あまり事を荒立てたくないものでして」
「……左様ですか。お互い、本日の職務も励みましょう」
「ええ、頑張りましょう」
そう言って互いに小さな笑みを交わし、今度こそその場を離れた。
彼の話が事実なら、尚食司の者も今回の事件で荒れているらしい。無事に女官長から協力を得られれば良いが……。
玄武殿の内部は、外からも漂う芳しい料理の匂いに包まれていた。特に尚食司のある西側に向かうと、その香りはより一層強さを増す。
しっかりと朝餉を済ませてきたはずだというのに、食欲をそそる醤油の香りや、包丁で食材を刻む音を聴いているだけで食欲が出て来てしまうのだ。
尚食司は妃嬪だけでなく、女官と宦官の食事も用意する。毒味に毒味を重ねる妃嬪達の食事の準備は、大量の食器洗浄と並行して作業が進められていた。
巨大な調理場の横を抜けて、食料庫の更に奥に向かう。鈴綾はその通路の先に、『尚食司執務室』と書かれた札が出された扉を発見した。
「あそこか……」
すぐに扉の向こうに声を掛けようとした、その時。
「なあ、そこのあんた!」
鈴綾の背後から、女性が声を掛けて来た。
振り向いたそこには、気の強そうな印象の若い女性が立っているではないか。
彼女が着ている襦裙の色は、空色。鈴綾や黄玉より二つ上の階級、小仁の女官だ。李長官より一つ下の階級でもある。
「あんた、昨日尚服司の性悪女官にこき使われてた子だろ?」
「……ええ、そうなりますね。尚官司女官、白鈴玲です。以後、お見知り置きを」
「あたしは
瑞光と名乗った女性は、焦げ茶色の髪をした活発そうな笑顔を浮かべて言葉を続ける。
入り口で会った宦官はああ言っていたが、彼女はそこまで事件の影響を受けていないらしい。昨日の夏胤珊の時のように、変な絡まれ方をしないで済みそうで安堵した。
「鈴玲だっけ? あんた見ない顔だけど、新入りかい?」
「はい、昨日付けで尚官司に配属となりました。ところで、こちらのお部屋に女官長様がいらっしゃると伺ったのですが……」
「ああ、
「駄目、と言いますと……」
「あの人、今日は大聖宮の方であっちの料理番と会議があるとかで、昼過ぎまで帰って来ないんだよ」
「そう……なのですか。それでは、また後程改めてお伺いさせて頂きます。お教え頂き、ありがとうございます」
女官長同士で交わされる書簡なのだから、これは書簡を託された自分が直接届けるべきだろう。
「そっか。そんじゃ、気を付けて帰るんだよ! あ、ついでに黄玉に宜しく言っといておくれよ!」
別れの挨拶をして玄武殿を去ろうとしたところに、瑞光の口から見知った人物の名前が飛び出した。
「……瑞光様は、黄玉様とお知り合いなのですか?」
すると彼女は、気持ちの良い態度でこう返す。
「ああ! あの子とはこの前まで同じ所で働いてた仲間だったからね。あの頃は、貴妃様にお出しするお菓子の味見を何度も頼んだもんだよ。あたしゃ、どうにも甘いもんが苦手でね……」
「貴妃様の……白夜宮、ですか?」
「うん、そうだけど……何か聞きたい事でもあんのかい?」
白夜宮に勤めていた元侍女……聞きたい事なんて山のようにあるに決まっている!
鈴綾はぐっと拳に力を込めて、思い切って口を開いた。
「瑞光様、少々お時間を頂戴しても宜しいでしょうか!」
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