第三章 貴妃と淑妃の異変
第1話 親愛なる君
迎えの馬車に乗って
「ほほう……あの
「お前の目から見ても、やはり意外な事だったのか?」
食後の緑茶を飲みながら、龍琰はこくりと頷いた。
「ああ。燦淑妃は、彼女の実家と同じである侵攻派の妃嬪とは親しくしている事で有名だ。反対に、国防派や中立派の妃嬪や女官は相手にしない……と聞いていたんだけど」
「急に態度を変え始めた……という事なのだろうか」
「現時点ではそうとしか思えない。
「突然態度を改める程度で、そう簡単に派閥を拡大出来るとは思えんが……」
先日亡くなった桧
対して龍琰が真っ先に調べるべきだと告げた燦
先帝・
嶺游が存命だった頃は、鐘家も侵攻派として燦家と肩を並べていた。しかし、次の皇帝に即位した嶺明は戦を好まない人物だった。
国を豊かにし、民の暮らしを安定させる──そんな方針を掲げた嶺明に、代々皇室に仕えてきた鐘家が逆らう理由も無い。鐘家は古くから親交のある
そうして共に戦場を駆けていた鐘家と燦家は、真っ向から対立する形となっていた。
「妃嬪を取り込んだところで、彼女達の実家にまで影響を及ぼす事は考え難い。まあ、後宮で表立って対立するのを避けるぐらいは可能なんじゃないかな?」
「そういうものなのか……」
「そういうものだよ、女の園って奴は」
真面目なのか適当なのか、軽い口調で返事をする龍琰。
ひとまず二人は、ゆっくりと茶葉の甘みを堪能した。
美味い緑茶で身体が温まってきたところで、改めて龍琰が口を開く。
「……明日からの調査も、引き続き燦淑妃の周辺について調べてもらいたい。彼女がいきなり派閥を越えて交流を持つだなんて、何かしら理由があるはずだからね。加えて余裕があれば、桧貴妃の身辺についてもお願いしたい」
「私に可能な範囲で、全力を尽くそう。……
鈴綾と共に桧貴妃殺害の容疑で投獄された、奏桃香。
徳妃として後宮に迎え入れられるはずだった親友は、こうして鈴綾が茶を楽しんでいる今もなお、
くよくよしていたら、きっと桃香に叱られるのは分かっている。だから鈴綾は、出来る限りいつも通りに過ごすよう心掛けていた。
だが……それでもふとした瞬間、桃香の顔が脳裏をよぎるのだ。
大聖宮での婚礼の儀で、久々に再開した時に見た花咲くような笑顔を。
皇帝に真正面から殺気を向けられ、血の気が引いたあの悲痛な顔を。
鈴綾を信じて送り出し、宮中の闇と向き合う覚悟を与えてくれた……あの涙を。
「……私が後宮で何の手掛かりも得られなければ、私と桃香は共に死ぬしかない。彼女はあの地獄牢で、たった独りきりそんな恐怖と戦っている。なのに私は──」
「こんな所で呑気にお茶なんて飲んでるって?」
「現に……そうだろう? 私は剣を振るうしか取り柄の無い女だ。国の平和の為だと言って、人を殺める存在だ。そんな私が……本当に、桃香を救う事なんて出来るのか……?」
鈴綾の小さな唇から漏れ出た本音が、二人の鼓膜を振動させる。
こんな事を龍琰に伝えるつもりは無かったはずなのに、気が付けば口から飛び出していた。
すると龍琰は、空になった茶器を両手でそっと抱えていた鈴綾の手に触れた。
「…………っ!」
「……君だって、本当は分かってるんだろう?」
「なに、を……」
視線を落としていた鈴綾が、思わず顔を上げる。
そこには相変わらず何を考えているのか分からない、胡散臭い……けれども、とびきり優しい微笑を浮かべた龍琰の紅い瞳があった。
卓に身を乗り出して鈴綾の手を取った龍琰の、長く艶やかな純白の髪。彼が動いた際の反動で、未だに小さく毛束が揺れている。
黒髪黒目の者が多い帝国人には珍しい、人間離れした美貌に鈴綾は釘付けにされていた。彼の瞳も髪も、身体の隅々に至るまで、まるで神の手が作り上げた芸術品のようだった。
「君の友は……その命の全てを賭けて、君という人間を信じてくれている。彼女の信頼に一切の嘘偽りが無い事は、この世で君が一番知っている事じゃないか!」
「桃香からの、信頼……」
茶器を抱えた鈴綾の手を、更にその上から龍琰の両手が包み込む。
その手の温かさは、緑茶を飲んだ直後だから……という訳ではない。龍琰の心が、鈴綾の凍えた心ごと温めてくれようとしているのだと、そう感じたのだ。
「君の護りたいものを、僕も一緒に護ろう。君がもう不安を感じなくて済むように、その不安ごと僕が飲み込んであげよう」
「龍琰も……一緒に……?」
「ああ。その為に、僕は君をここへ連れ出した」
そう告げた龍琰の瞳に映る鈴綾の顔は、天才
「……君という剣は、鋭く強い。並みの男では到底敵わない領域にまで高められたその気高い刃は、称賛に値する天下一品に違いない。……だけどね、
龍琰は、包む手に込めた力をそっと強めながら言う。
「僕は……君の友を想う心と、国を憂う武士としての在り方……その真っ直ぐな生き様に魅了された男だ。そんな君が大きな困難に立ち向かうというのなら、僕はその力になりたい。君を一番近くで支えたいと……そう思ったんだ」
「龍、琰……」
「……精一杯、君の力になるよ。僕はね、鈴のようにひたむきな人間が大好きなんだ!」
「……っ、そ、そう……なのか……!」
大好きなんだ、と告げた龍琰の笑顔は、それはもう蕩けるような甘い笑みだった。
そんな爆弾級の笑みを目の前で浴びせられた鈴綾の頬は、言うまでもなく燃え盛るような熱を持ってしまう。今この場に居る女性は、武士である前に一人の乙女でしかなかったのだ。
「こう言っては自画自賛がすぎるけれど、僕は頼りになる男だよ? だからこれからも、君は自分を信じる相手を信じて、真っ直ぐに突き進んでほしいんだ。それが僕の大好きな……鈴という女性の生き方だから」
「それはっ……そそ、それは分かっている! 故に私は貴様を頼り、こうして家に置いてもらって後宮に出入りするようになった訳でだなっ……‼︎ ひ、ひとまずその手を離してはくれんか⁉︎ どうにも落ち着かなくて仕方が無いのだがっ‼︎」
「あわわっ、ごめんごめん!」
鈴綾の必死の訴えに、龍琰は慌てて元の位置に戻った。
な、何なんだこいつは! 急に私の手を取って、まるで恋人にでも愛を囁くかの如く大胆すぎる告白をしてくるとは、どういう腹積もりなのだこの男はっ‼︎
常にどこかふわふわとした態度を取る龍琰の事だ。先程の『大好きなんだ』とか言う発言も、鈴綾を女として見ているのではなく、一個人として好いている意図のものだったに決まっている。
ただでさえやけに目鼻立ちが整っていて、後宮の女性達に負けず劣らずの良い香りを漂わせて、異常なまでに耳に響く良い声を響かせるから厄介なのだ。恋愛経験どころか、片思いすら皆無な鈴綾が勘違いしても仕方が無いのである。
龍琰から寄せられる発言の数々は、単なる褒め言葉に過ぎない。惚れた腫れたの出来事とは縁の無い、目的が一致した仕事仲間としての称賛でしかないはずなのだ。
……そのはずなのに、未だに胸が高鳴るのは何故なのだ?
答えは一向に出せぬまま──核心からは必死に目を逸らしながら、鈴綾は龍琰と別れて自室に戻った。
こんな可愛げの無い私が、男から好意を持たれるなど有り得ない。少なくとも、恋愛感情なんてものを持たれるはずが無いのだ。
鈴綾は寝台の上で、眠りに就くまで何度もその言葉を繰り返し胸中で唱え続けた。
そうして夜が明け、華絢宮潜入調査の二日目……そして、鈴綾と龍琰の偽装婚約生活劇の次なる幕が、切って落とされるのだった。
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