幕間

皇帝と太師

 鈴綾が華絢宮での職務に励み、持ち前の体力と鍛え上げられた肉体を駆使して、井戸から洗濯場まで大量の水を運搬していた頃の事。

 後宮の隣に聳え立つ豪華絢爛な帝国の象徴たる、叡賦大聖宮のとある一角。そこでは、二人の美丈夫が顔を突き合わせていた。

 一人は、叡賦帝国を統べる皇帝・嶺明。

 その向かいに佇む細身の男は、その皇帝に魔術の何たるかを教え込んだ、陸龍琰太師である。

 嶺明と龍琰は、一つの卓に向かい合って座っている。二人の表情はあまりにも対照的だ。

 雪兎のように真っ白な長髪を背中に垂らし、紅玉の瞳をそっと細めて微笑む龍琰。対してそんな龍琰を厳しく睨み付けている嶺明の目元には、くっきりとした隈が浮かんでいた。


 貴妃であった桧祝籃が急死して以来、嶺明はまともに睡眠を取れていなかった。

 後宮妃嬪の中でも特に皇帝からの寵愛を受けている、四夫人達。嶺明が即位してから徐々にその人数を増やし、遂に三人目の四夫人候補が決定した矢先に起きた、祝籃の突然の死。

 けれども皇帝は、どれだけ妻の死を悲しもうが子孫を残さねばならない。桧貴妃の為に、そして帝国の未来の為にと新たな妻を迎え入れようと決心した嶺明。

 だが、これまで熱心に愛を注いできた女が、これからその愛を分け合うはずであった少女──奏桃香の差し金で殺害されてしまった。

 彼女が新たな四夫人となるのであれば……と、信じていたはずの桃香に裏切られ、嶺明の心は激しく傷付き乱れてしまっている。


「龍琰よ……いくら太師たる其方そなたの頼みであろうとも、それだけは聞き入れられん。奏桃香、並びに鐘鈴綾の処刑は必ず執行する!」


 嶺明は叫び、拳を卓に叩き付けて主張した。

 そんな嶺明を冷静に見詰めながら、龍琰は至って穏やかにこう返す。


「いやいや、処刑を取り止めろとは言っていないさ。僕はあくまで、貴妃の事件について証拠を集めてからでも遅くはないと進言しているだけだ」

「証拠、だと……?」


 嶺明の太めの眉が、ピクリと吊り上がった。

 と同時に、咆哮する虎のような気迫で怒鳴り声を上げる。


「朕が祝籃に贈った藤の簪が、奏桃香の手に渡っていた! あれ以上の証拠がどこにある⁉︎ 他に真犯人が居るとでも言うのであれば、今この場で朕に申してみせよ‼︎」

「だからこそ、だよ。それを調べる為に、もう少し時間が欲しいんだ。何せ貴妃を害した相手は、凶器も外傷も残さずに消えてしまったんだからね」

「…………」


 静と動。

 冴える氷と猛る炎。

 正反対な感情をぶつけ合う二人の空間に、暫しの沈黙が訪れた。

 何も言い返してこない嶺明を見て、龍琰は今こそ好機とばかりに言葉を畳み掛ける。


「……沈黙は了承と受け取るよ? うんうん、良い判断だよ天子。これで万が一あの二人を処刑して、真犯人を取り逃がしてしまったら……またいつ今回のような悲劇が起きても不思議ではない。それだけは絶対に回避しなくてはならないからね」

「……其方の事だ。朕の了解を得る前に、既に手を打ってあるのだろう?」

「その通り!」


 龍琰はにっこりと笑いながら、更に言葉を続ける。


「実は今日から華絢宮に、僕の選りすぐりの者を向かわせていてね! いわゆる潜入調査という奴さ。情報漏洩を避ける為に詳細は伝えられないけれど、この僕が信頼する人物に任せているから安心してくれ給え。必ずや真犯人に繋がる証拠を掴んでくれるとも!」

「……龍琰。いくら朕と其方の間柄であろうと、やる事が大胆すぎやせぬか?」

「向こうだって貴妃を狙うだなんて大胆な事をしてきたんだ。僕らだって、これぐらいの事をしても不思議じゃないだろう?」

「どういう理屈なのだ、それは……」


 すると龍琰は椅子から立ち上がり、軽やかな足取りで扉を目指して歩いていく。

 二人の間で交わされる兄弟のような気安いやり取りは、いつしか嶺明の眉間の皺を薄めてくれていた。


「まあ、期待して待っていなさい。あの事件には、あまりにも不自然な点がある。……君が時間さえくれれば、必ずや僕達が真犯人を探し出せる。だからどうか、早まった決断をしないでおくれよ……嶺明」

「龍琰……頼んだぞ」

「ああ! この陸龍琰に、不可能な事など無いさ!」


 そうして陸龍琰は、次なる手を打つべく部屋を後にした。

 調査に向かわせた選りすぐりの者──鐘鈴綾であれば、きっと何かを掴んでくれる。龍琰にはそんな予感があったのだ。

 故に龍琰は、期待を寄せる鈴綾の為に動き続ける。

 祝籃のような目に遭う妃嬪を、もう二度と出さない為に。

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