第11話 予期せぬ増援
太陽が真昼を示す天頂に至った頃だった。
鈴綾と黄玉に井戸水運びを頼んだ灰色の襦裙の女官は、約束の時間を前に、玄武殿の井戸に向かっていた。
井戸水の運搬は、女性には重労働だ。それも普段なら、大人数で交代しながら行う作業である。とても女性二人でやり切れる仕事ではない。
しかしこの尚服司女官──
胤珊の実家は地方の農村で、その中でも比較的に美人であった為に後宮に取り立てられた。けれども所詮はただの平民の娘でしかなく、胤珊よりも見目麗しい女性は星の数程揃っているのがこの場所だ。
生まれつき自尊心の高い胤珊は、その現実に直面してそれはもう荒れた。荒れに荒れまくった。
結果として胤珊は、女官として後宮でのし上がってやろうと決意したのである。
まずは配属された尚服司で取り巻きを増やすべく、自分と同じ平民の娘達を威圧して、自身の派閥に取り込んだ。後宮入りして二年となった今では、尚服司女官の若い者達は胤珊に逆らえない状態になっている。逆らえばどのような仕打ちに遭うか分からない、恐怖による支配だった。
けれども胤珊には、貴族出身の女官のような後ろ盾が無かった。それにより、彼女は高貴な家の出である女官達からは反感を買っている。
そんな胤珊だからこそなのか、自分よりも優秀な若い娘や新入りには容赦が無かった。
──あれだけの仕事を、たった二人でこなせるはずないわ。きっと今頃、無様に地面に膝をついて泣いている頃でしょうね!
自然と滲み出てしまう笑みを堪えきれず、口元が緩む。
そのまま胤珊が井戸に向かうと、鈴綾と黄玉の姿を視界に捉えた。
*
「あっ、来ましたよ……!」
「ふむ……予定通りの到着ですね」
水汲みの終わりである真昼に現れたのは、例の尚服司女官だ。
鈴綾達に無茶な仕事を振ったという自覚があるのだろう。彼女はこちらを馬鹿にするような、蔑んだ笑みを浮かべていた。
「……お疲れ様です。約束の時間になりましたので、様子を見に参りました」
井戸からの水汲みと運搬は、本来は黒と白の襦裙を着る女官がするはずだった仕事らしいのだが……それを押し付けた張本人は、今の今までどこで何をしていたのだろうか?
そんな疑問を思い切りぶつけてしまいたいところだが、今は置いておこう。後でたっぷり絞ってやれば良いのだから。
「きちんとお役目を果たされたかどうか、私の目で確認させて頂きます。どうぞお二人様も、洗濯場までご同行お願い致します」
早々に彼女が背を向けて歩き出す。鈴綾と黄玉も、無言で後について行った。
どうやら灰色の襦裙を纏った女官は、わざわざ洗濯場を通らずに遠回りしてここまでやって来たらしい。洗濯場までの移動中、彼女の口からそう語られたのだ。
きっとこの女官は、今から向かう洗濯場の悲惨な光景を頭の中で想像して、それを目の当たりにするのが楽しみで仕方が無いはずだ。何せ数百人分の衣服を洗うのに必要な量の水を運ぶのだから、そんな重労働をたった二人の女にこなせるはずがないに決まっている。
……そう妄信しているからこそ、彼女はこうして歩きながらも時折肩を震わせ、笑いを堪えているのだろう。
だが、その逞しい妄想が打ち砕かれる瞬間が訪れる──。
「え……? あ、貴女っ……今、何と……!」
「ですから、尚官司女官のお二人がそれは見事な手際で、お昼までに洗濯に必要な分の水を運んで下さったのですが……」
洗濯場に到着し、灰色の襦裙の女官はすぐさま洗濯担当の女官に声を掛けた。そして返って来た答えが、これである。
頼まれた通り、鈴綾と黄玉はたった二人で井戸水の運搬を成し遂げた。
「そんな……そ、そんな事がある訳がっ……!」
「ですが事実として、今朝の分の衣類は全て洗浄されております」
狼狽える女官に、鈴綾が淡々と告げる。
「洗われた物は全て物干し場に干された後ですが……そちらもご確認なされた方が宜しいのでは?」
「……っ! ええ、そうさせて頂きます!」
そう言って、灰色の女官は洗濯場から急ぎ足で立ち去った。鈴綾達も後を追う。
洗濯場から離れた拓けたその場所は、日光を遮るものが無く風通しも良い。そこに等間隔に打ち込まれた木と縄の物干し台がずらりと並んでおり、妃嬪と女官の位に別けて衣服が干されていた。
冬場は夏に比べて乾きが悪いので、彼女が鈴綾達を急かした理由がこれだった。その上で、二人は制限時間までに役目を終えたのである。
それを目の当たりにした女官は、遂にその場でへたり込んでしまった。まるで『こんなはずではなかったのに』とでも言いたげな、酷く衝撃を受けた顔をして。
女官は声を震わせながら言う。
「ど……どうして……? これだけの洗濯物があったのに、どうしてこんな事が実現しているというの……?」
ほらな。やっぱりこの女、私達に無理難題をふっかけたつもりだったんじゃないか。
「水汲みの大部分は、鈴玲様がなさって下さいました。わたしはちょっとしたお手伝いしか出来ていないのです」
「それは、どういう……」
「釣瓶に入った水を引き上げたり、水瓶を乗せたり降ろしたり……といった作業を鈴玲様が。わたしは尚食司の方から台車をお借りして、鈴玲様が台車を引かれる際に後ろから押していくぐらいしかしておりません」
「だ、台車……? 台車って、荷物を運ぶ時に使う……あの……? で、でも、例え台車を使ったとしても、とても女二人で運びきれる仕事量じゃなかったはずだわ! 二人でやったなんて嘘に決まってる‼︎」
「嘘ではない。この
急に怒鳴り始めた女官を嗜める声が、突如として鈴綾達の鼓膜を震わせた。
その声の主へと顔を向けると、絶世の美女が居た。彼女の後方には、三人の侍女らしき姿もある。
謎の美女はちらりと鈴綾に目をやったかと思うと、すぐに視線を戻し、更に言葉を続けた。
「何か玄武殿の方で二人の女官がこき使われていると聞き、ちと気になったものでなぁ……。侍女の一人に様子を見に行かせたら、尚官司の女官達がたった二人で水汲みをさせられておると報告を受けたのじゃ」
「あ……ああ、貴女様はっ……‼︎」
尚服司女官は、自身が纏う灰色の襦裙のように顔から血の気が引いていく。
突如として現れた真紅の衣を纏ったその美女は、勝気な笑みのまま、心底愉快そうにこう告げた。
「……桧貴妃が亡くなられ、後宮に迎え入れられるはずだった徳妃候補が投獄され、これから残された者達で一丸となって陛下をお支えせねばならないこの大事において──その和を乱す不届き者が出たとなれば、この淑妃こと
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