第10話 売られた喧嘩

 鈴綾達が灰色の襦裙の女官に連れて来られたのは、玄武殿近くに設置された井戸の前だった。井戸の側には、幾つもの水瓶が置かれている。


「お二人にお願いしたいのは、先程通ってきた洗濯場までの井戸水の運搬です。手順はとても簡単なものですので、説明の必要すら無いでしょうが……」


 要は、『水の入った壺を持って運べ』という事らしい。

 水瓶の大きさは両腕に抱えられる程度で、何とか女性の腕力でも運べない事もない……けれども、洗濯場までの距離を何度も往復する事になるのは確実だ。

 そのうえ井戸から水を汲むにしても、水の入った釣瓶つるべを引っ張り上げる作業も重労働。腕力酷使だけでなく、腰に負担が来るのは明白だった。

 黄玉に『肉体労働で構わない』と言ったのは確かだが、彼女が言っていたとはこれの事だったのか。初日から中々にぶっ飛んだ仕事量な気がしてならない。何故なら──


「妃嬪の方々と女官の衣服を昼までに干さねばなりませんので、それまでに洗濯に必要な分の水を全て運んで下さい。それでは、後をお願い致します」

「ええっ、あの……!」


 黄玉が呼び止めようとしたが、彼女はきびすを返したまま戻って来る気配は無い。

 全ての妃嬪と女官の、あらゆる衣服。

 それだけ聞いても全体量が把握出来ないだろうが、尚服司女官がその場を去ってから、黄玉が説明してくれた。


「尚服司では、数百人に及ぶ妃嬪方と女官の衣服を管理しているのですが……ざっくり計算しても、途方も無い数の衣服を洗う事になるんです」

「そんなに……あるのですか……。それも、水の冷たいこの時期に……」

「なので、尚服司はこの時期かなりの激務でして……。わたしも何度か要請があって補佐に来ていますが、井戸水運びは女二人程度では到底終わらないのではないかと……思いますね……」

「……完全に嫌がらせですね、これは」

「そのようですね……。どうしましょう、今からでも尚官司の他の女官に応援を頼んだ方が……」


 毎日氷のように冷え切った水に晒されて不満が溜まっているのかもしれないが、その苛立ちを新人とその指導役に……それも、階級が上の人間にぶつけるとは。

 後宮に来てから性格が捻じ曲がってしまったのか、元からそういう性分だったのかは知らないが。こうもあからさまに喧嘩を売られたとなると、どうにも対抗心が燃え上がる。


「……やってやりましょう、黄玉様」

「え……?」

「売られた喧嘩を、堂々と買ってやるのですよ」

「で、ですが……いくら何でも、これは二人で回せるような仕事量ではありませんよっ⁉︎」


 狼狽ろうばいする黄玉の反応も当然だ。

 しかしそれ以上に、鐘鈴綾という女はこうした理不尽や逆行に対して、魂を燃え上がらせてしまう性質の武人なのである。


「いいえ、私なら……そして黄玉様が居れば、簡単に乗り越えられる程度の課題です! まずは黄玉様に、それをこなす為に必要な物を調達してきてもらいたいのですが……」


 その内容を説明した鈴綾に対し、玉黄はただただ驚愕する。


「ほ、本当にそれだけで良いのですか⁉︎ いくら鈴玲様が体力自慢だからといって、とても現実的な話だとは思えないですよっ!」

「それをやってしまうのが私なのです。ですから、どうかお早く。これは時間との勝負ですので!」

「そこまで言われてしまうと……や、やるしかないですね……!」


 では、行って参ります! と言い残して駆け出していく黄玉。

 彼女の背中を見送って、鈴綾は振り返って井戸と対面する。


「さて……この私を怒らせたらどうなるか、あの女官にたっぷりと思い知らせてやりましょうか」


 不敵に笑った鈴綾は、早速釣瓶を深い井戸の中に放り込んだ。

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