第6話 派閥

 尚官司女官長・李桂英は、後宮女官の頂点と言っても過言ではない。

 そんな桂英から「期待している」と言われてしまえば、流石の剣姫も気持ちが萎縮してしまう。

 何せ鈴綾は、幼少期から男だらけの環境下で武芸を磨いてきた女だ。手本となるような女性らしさや、細やかな気配りを要求されるであろう後宮において、ここは圧倒的に不利な戦場である。

 龍琰にはああ言ったが、実際に女官として上手くやっていけるかは分からない。ただ、やらねば自分と桃香の首が飛ぶから、やるしかないだけなのだから。


「そのように緊張せずとも良いのですよ、白鈴玲」

「は、はい……」


 そうは言われても、敵か味方かの区別もつかぬ場所に、武器も持たずに裸で放り込まれたような心境なのは仕方があるまい。

 顔が強張こわばる鈴綾に、桂英は変わらず冷静な態度で言葉を続けた。


「先程も言いましたが、貴女がどのような使命を持って華絢宮にやって来たのかは存じています。そして、これまでどのような生を送ってきたのかも……」


 つまり彼女は、鈴綾の本名は勿論の事、この先に待ち受ける『最悪の結末』に続く別れ道の存在も知っている。


「私が陸太師より任されたのは、貴女への教育と調査への協力です。……この部屋には防音結界があります。後宮や妃嬪の皆様方についての説明も、こちらで済ませてしまいましょう」


 後宮では桂英の、それ以外では龍琰の力を借りて……その最悪を、最良のものへと変えねばならない。

 鈴綾は改めて決意を固め、桂英の言葉に真剣に耳を傾ける。

 まず桂英は、部屋の一角に置かれた卓上に地図を広げた。鈴綾もそれを覗き込みながら、桂英の細くしなやかな指先がなぞる先を見詰める。


「まずは、後宮内の簡単な紹介から始めましょう。私達が今居るこの場所……東にあるこの区画が、尚官司の置かれた青龍殿です。西側には、尚寝司と尚功司のある白虎殿。南の尚儀司がある朱雀すざく殿。そして北にある玄武げんぶ殿には、尚服司と尚食司が置かれています」


 彼女の説明通り、地図にある東西南北の端にはそれぞれ四獣の名を冠した殿が記されていた。

 続いて桂英は、それらの中央部に指を向ける。


「それら四つの御殿の中心には、妃嬪の方々がお住まいになる宮が五つあるのですが……現在使用されているのは、その中の三つのみ」


 本来であれば、正一品しょういっぽんである四夫人がそれぞれ別の宮で生活する。そして正二品の九嬪らが暮らす宮、正三品から正五品までの二十七世婦らの宮と、計六つの宮が建てられているはずなのだ。

 けれども今の後宮には、四夫人が三人暮らしているはずだった。不可解な死を遂げた桧貴妃と、無実の罪で投獄された桃香。そして残された燦淑妃である。


「貴妃様の宮と、徳妃として迎えられるはずであった奏桃香様の宮……この二つが使用禁止となっております」

「そして賢妃はまだ居ないので、九嬪と二十七世婦の分を加えた五つの宮がある……という事ですね」

「左様です。貴女から見て右手から、貴妃様の白夜宮びゃくやきゅうと、淑妃様の嵐舞宮らんぶきゅう。そして奏氏が入られる予定であった、春歌宮しゅんかきゅうと並んでいます。それらの東側に九嬪、西側に二十七世婦の宮があるのです。ここまでは宜しいですか?」

「はい、覚えました」

「主な建物はこれらが全てです。食料庫や書庫の場所は、この後玉黄と見て回って頂きます」


 そこまで説明した桂英が地図から顔を上げ、鈴綾もそれに倣って桂英を見る。


「続いては、後宮における勢力図について解説致します」


 勢力図……という言葉に、鈴綾は内心で溜息を吐いた。

 頭で理解してはいたのだ。大陸で最も強大な勢力を誇る叡賦帝国──その帝都ともなれば、権力争いの中心地である。

 若く美しい姫君である桃香が殺しの濡れ衣を着せられた件といい、その発端である桧祝籃の死といい、宮中にろくでもない事を考える悪人が居るのは間違い無い。

 そんな場所に飛び込んだのだから、誰かを蹴落としてのし上がろうとする厄介な勢力が居るのは、至って自然な流れだ。勿論、こんな自然なんて破壊されるべきである。鈴綾はそれを成すべく、龍琰によって後宮に送り込まれたのだから。


「貴女ならご実家の関係上、よく存じているのでしょうが……帝国には、国内の防衛に重きを置く陛下に従う国防派と、より領土を拡大すべきだとする侵攻派。そのどちらでもない中立派の三つに分断されております。そして後宮において、ただ一人の四夫人となった燦淑妃のご実家である燦家は、侵攻派の筆頭です」

「淑妃の家が、侵攻派……ですか」


 皇帝・嶺明は、先帝とは異なり他国への侵略を控えている穏健派だ。

 しかし二十年前。先代皇帝・嶺游れいゆうによって、隣国の陽麟ようりん大国はわずか二年で滅亡した。

 当時の戦争で大活躍を果たした鐘家は、旧陽麟大国領の一部を領地として与えられる。その地こそが、鈴綾が生まれ育った蘭白州だった。

 戦争当時は鐘家も侵攻派として嶺游に尽くしていた。だが嶺明が即位してからは皇帝の意思に従い、国防派として国境防衛に勤しんでいる。

 つまり鈴綾と燦淑妃の家は、政治的に対立している事になる。加えて言えば、古くから鐘家と親しい奏家──桃香の実家も、国防派の有力な家の一つだ。


「それに対し、桧貴妃のご実家……桧家は国防派でございます。何事も無ければ、桃香様を加えた四夫人の過半数が国防派の妃嬪となっていた事になるのですが……」

「最終的に残ったのは、侵攻派筆頭の淑妃だった……と。これは、何とも調べ甲斐がいのある……」


 まだ憶測の域を出ないが、燦淑妃の実家が桧家とも奏家とも対立する侵攻派だったという事実は、どうにも怪しい。

 皇后候補である貴妃と、徳妃として迎えられるはずだった桃香を排除して、利益のある者は誰なのか?

 ……龍琰もこれを知っていたはずだ。だからあいつも、まずは燦淑妃について調べろと言っていたのだな。

 ただ、あからさまに淑妃が怪しすぎるようにも思えるのだが。


「……淑妃様は、他の国防派の妃嬪方を纏め上げているお方でもございます。ご本人と対面して驚かれる事もあるでしょうが、くれぐれもご油断なさらぬよう」


 驚く……? まあ、実際に会ってみれば彼女の発言の意味も判明するだろう。

 暫くして、黄玉が戻って来た。鈴綾は彼女と共に桂英に頭を下げ、女官長の元を去るのだった。

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