第二章 皇帝の花園へ

第1話 陸家へようこそ

 今この時、鍾鈴綾しょうりんりょうには、広い庭をゆっくり眺める余裕すらも無かった。

 戦場では常に冷静沈着。敵将の首を刈り取るべく、獣の如き眼光と、舞踊の如く華麗な剣技で追い詰める──それこそが、蘭白州らんびゃくしゅうの剣姫・鈴綾である。

 幼い頃から父の銀魄ぎんはくより武芸を叩き込まれ、女性らしい身のこなしや芸事とは、ほぼ無縁で生きてきた。

 で、あるからこそ……鈴綾は今、陸龍琰りくりゅうえんの行動に大混乱しているのだ。


 ──父上でもない男の屋敷に泊まるだなんて、私はどうしたら良いんだ⁉︎


 美しい庭園を抜け、立派な玄関を抜け、丁寧に磨き抜かれた床を歩いて客間へと通される。

 その間、鈴綾はずっと龍琰に背中を押されて歩き続けていた。彼女からしてみれば、ふと気が付いたら馬車から客間に飛んで来たような感覚である。


「……こっ、ここは⁉︎ 私は、いつの間にこのような部屋に……!」

「だからほら、僕の家の客間だよ? ここまで色々と部屋を案内していたんだけど、耳に入っていなかったみたいだね」

「龍琰の家……客間……」


 龍琰にそう告げられて、きょろきょろと辺りを見回す。

 四人程が余裕を持って囲める机と、高級そうではあるが派手すぎない調度品の数々。軽く見た限りの判断だが、それらの手入れや掃除は行き届いているらしい。

 すると、客間に二人の若い女性がやって来た。

 どうやらその二人は、鈴綾と龍琰に出す茶と茶菓子を運んできたようだった。この屋敷の使用人なのだろう。

 一人が皿に乗った菓子をそっと机の上に置き、その間にもう一人がてきぱきと茶を注いでいく。

 ふと彼女達に視線を向けると、二人はよく似た顔をしているのに気が付いた。双子だろうか?

 そうして手早く支度を済ませた侍女達は、静かに頭を下げて退室する。


「急な出来事が立て続けに起きたから、疲れが出てしまっているんじゃないかい? ひとまず甘い物でも食べて、少し落ち着いてから話をしようじゃないか」

「あ、ああ……そうだな」

「これは都で評判の店で買って来させたものでね、すっかり気に入ってしまったんだ。君の口にも合うと良いのだけれど……」


 そう言いながら龍琰は、小皿に乗った丸く平たい菓子を摘んで一口かじった。

 幸せそうに甘味を楽しむ龍琰を見て、鈴綾も自身の小皿に目を落とす。

 表面がてらりと光沢のある小麦の生地で、ほんのり甘い餡を包んだ焼菓子──冬餡餅とうあんもちは、都土産として父が買って来てくれたことがあった。

 それに懐かしさを覚えながら、鈴綾もそっと冬餡餅を口に運ぶ。身体が甘い物を欲していたのだろう。餡の優しい甘さが、張り詰めていた鈴綾の心を解いていくようだった。

 一緒に出された茶も、菓子によく合う。甘さが控え目な菓子であるから、茶の渋みを抑えた品種を淹れてくれたようだ。


「……美味い、な」

「そうだろう、そうだろう〜? 生地はしっとり。中の餡も甘過ぎないから、ちょっとした休憩にぴったりなんだよね!」

「……龍琰は、よく菓子を食べるのか?」

「職業柄、頭脳労働が多いからねぇ。自然と身体が甘い物を欲してしまうのさ。それにね、こういうお菓子を食べてからの方が、魔術の調子も良くなる気がするんだよ!」

「そういうものなのか……」

りんはあまり食べない方なのかい?」


 さらっと『鈴』と呼ばれてしまった。

 少々気恥ずかしいが、抗議したところで意見を聞いてもらえる気がしなかったので、ここは敢えて放置する。

 他人と距離感を縮めに来る速度が速いな、この魔術士は。


「……ああ。こういう物を必ず食べるのは、新年の祝いの席ぐらいだからな」


 そんな話をしながらお茶をしていると、あっという間に冬餡餅を平らげてしまった。

 すると、その頃合いを見計らって龍琰が口を開いた。


「……さて、小腹も満たしたところで本題に入ろうかな」


 その一言で、ふわりと緩んでいた空気が一瞬でぴりついた。

 本題とは勿論、祝籃の死についての件だ。


「君にお願いする『あの件』に関する調査だけれど、数日以内に君を後宮女官として送り込む準備を進めるつもりだ。早ければ……うん、明後日にでも」

「その件については、私がやらねばならぬのだから同意しよう。だがその前に……桃香とうこうの扱いについて、聞きたいことがある」

「ああ、それに関してはまだ心配しなくて良い。彼女に会った時、あの牢に防寒結界を張り巡らせておいたからね。少なくとも、寒さについては対策済みさ」


 叡賦えいふ帝国の冬は、特別厳しい訳ではない。

 けれども大聖宮だいせいきゅうの地獄牢は、宮中の術士達によって組まれた特殊結界によって、死に至らない限界の低温に維持されている。

 今もたった一人、あの暗く冷たい牢獄に囚われている桃香の身が、鈴綾にとって何よりも気掛かりだった。

 しかし、その特殊結界を弄っても気取られない最高峰の術士が味方に付いている。これなら桃香が寒さに震え、眠れぬ日々を過ごすことは無い。

 見張りも食事を運ぶ際以外には滅多に来ないだろうから、ある程度は不安が解消された。

 続けて龍琰は、桃香と鈴綾の処刑の日程について語り始めた。


「君達二人の処刑については、僕の方で可能な限り日程を延ばすよう働き掛ける。そもそも後宮での調査は、この時間をどれだけ稼げるかにかかっているからね。真犯人を捕えるまで、意地でも君達の処刑なんてさせないよ」

「……そうは言っても、かなりの無茶を強いることになるのだろう? 露骨に私達の肩を持つような真似をして、陛下に怪しまれたらどうするつもりだ」

「これでも僕は、それなりに交渉事には慣れている。その相手が時の皇帝であろうとも……おまけに彼は、僕の教え子だったんだよ? 僕が天子に舌戦で負けることなど、例え天地がひっくり返ってもありえないさ」


 堂々とそう宣言した龍琰の表情は、真剣そのものだ。

 若き皇帝を幼い頃から見守る師でありながら、未だその美貌が衰える気配の無い、麗しの術士・陸太師たいし

 燃える炎よりも深い紅の瞳に、帝国一と名高い術士の叡智を滲ませている。その瞳に見詰められると、龍琰の言葉に強い説得力があるように感じられるのだ。


「僕のこと……鈴ならきっと、信じてくれるだろう?」


 そう問われて、鈴綾はふっと笑みを零した。

 ……普段は頭に花でも咲いていそうな能天気な男だが、いざという時には、こうも惹き込まれる巧みな言葉を紡ぐのだな。

 龍琰はまるで、長年の交流がある友に対するような態度を鈴綾に示す。けれどもそれは、決して不愉快なものではなかった。

 出会いこそ緊迫した状況下ではあったが、こうして面と向かって話してみれば、案外親しみやすい性格をした普通の男だと思う。それが、鈴綾の抱いた龍琰への印象であった。


「ふっ……そうだな。信じているさ、共犯者殿」

「ふむ、確かにそうだね。君と僕は、とんでもない秘密を共有する共犯者だ」


 龍琰は小さく笑うと、少し冷めて飲み頃になった茶を一気に飲み干す。鈴綾も続いて器を空にした。


「だからこそ、僕はそんな共犯者である君を、この隠れ家へと招待した訳さ」

「それで私に『ここへ泊まれ』と言ったのか。しかし、先程の侍女達もそうだが……彼女達には、私のことを何と説明するんだ?」

「うーん……。ただの仕事仲間だと言っても、未婚の女性を家に連れ込むとなるとねぇ……」

「み、未婚の……女性……」


 その言葉が出た途端、折角解けた鈴綾の緊張の糸が、再び絡まり始めてしまう。

 そうなのだ。鈴綾も龍琰も、独り身なのである。

 特定の相手が居ない男女が片方の家に上り込むというこの状況に、男性経験皆無の鈴綾は内心大慌てだったのだ。

 戦場では数え切れない男達を相手にしてきた鈴綾だが、こうした平穏な空間においては、どうにも調子が狂ってしまう。

 その上、その照れ隠しとでも言わんばかりに刺々しい態度を取ってしまう。これもまた、鈴綾が婚期を逃しかけている一因だった。

 更に加えて、龍琰は驚く程に美形である。一度相手を異性として強く意識してしまうと、視線が泳いでしまって仕方がない。

 大師としての地位もあり、術士としての才にも恵まれた色男。これだけの人材であるというのに、これまで陸大師に婚約の話が持ち上がったという話は一切耳にしたことがなかった。

 そんな陸龍琰が女性を家に招くなど──祝籃しゅくらん事件の調査の為ではあるが──前代未聞の出来事なのだ。多少混乱してしまうのは当然と言えるはず。

 すると、先程まで考え込んでいた龍琰の顔が、ぱあっと晴れた。


「そうだ! 君のことは、僕が選んだ花嫁候補として皆に紹介するのはどうだろう⁉︎」

「は、花嫁候補だと⁉︎ この私がか⁉︎」

「そうとも! うんうん、我ながらこれは名案じゃないか‼︎」


 思わず身を乗り出して聞き返した鈴綾に、龍琰は満面の笑顔で何度も頷いている。


「それじゃあ早速、皆に報告してくるよ! ああ、大丈夫。流石に偽名で伝えてくるとも! どこから情報が漏れるか分からないからね!」

「いやいやいや、そういう問題ではなくてだな……⁉︎」


 そうして龍琰は、鈴綾が引き留めるよりも早く魔術で姿を消してしまった。客間から出て行った形跡が無いことから、屋敷のどこかに転移して報告に向かってしまったのだろう。

 それから間も無くして、屋敷の使用人全員に、鈴綾と龍琰の偽の婚約話が周知されてしまうのだった。

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