第3話 疑惑の美姫

 桃香と和やかに会話する鈴綾を目の当たりにした婦人達は、それきり鈴綾に関する話題を口に出さなくなった。あくまで、鈴綾の耳に届く範囲では……の話だが。

 たったそれだけの配慮。だが、桃香に話し掛けられる前より過ごしやすい環境になったのは間違い無い。


「ごめんなさい、そろそろ他の御婦人方ともお話してこなくてはならないの」

「ああ、こちらこそすまない。私にばかり時間を取らせてしまったな」


 数年越しに顔を合わせたせいか、これでもかと話題が尽きなかった二人。

 けれども今日の婚儀に招かれたのは鈴綾だけではなく、帝国とその同盟国からも多くの要人が足を運んでいる。いくら仲が良いからといって、桃香を独占するのは鐘家としても喜ばしいことではない。


「……また後で話そう。それまで適当に料理でも食べて、時間を潰しているよ」

「……そう、ね。生きてさえいれば、またいつでも貴女とお話出来るんですもの」


 生きてさえいれば。

 そんな言葉が桃香の口から飛び出したあたり、やはり先日の桧祝籃の不審死が引っ掛かっているのだろう。

 また後で、と言い残して去っていく友の背中を見送りながら、鈴綾は改めて気を引き締めた。無意識に触れていた腰の愛剣に目を落とし、そっと撫でる。


「私がもしも男であれば、桃香と駆け落ちでもしていたかもしれないな……」


 ぽつりと漏らした本音は、鈴綾以外の耳に届くことなく周囲の声に掻き消された。




 *




 それから数刻の後、遂に儀式が執り行われる大広間へと婚礼の舞台が切り替わる。

 男女に分かれていた参列者達が集合したのは、叡賦大聖宮で最も広く絢爛豪華な広間。その最奥にて、皇帝・嶺明とその妃となる桃香が、今日初めて顔を合わせた。

 参列者が並ぶその最前列に、鈴綾の姿もあった。紫の襦裙に身を包んだ重臣と、その代理の者達がずらりと並んでいるのだ。

 最愛の友の晴れ姿。そして、叡賦帝国の歴史に残るであろう美姫の婚儀を最前列で見届けるという、この幸運。

 今日まで無事に生き延びてきた甲斐があったものだと、鈴綾は静かに頷いて微笑んだ。


 鈴綾らの後方には、同じく襦裙の色による役職分けの順に参列者が控えている。

 叡賦帝国の宮中では、大きく分類して六つの位に階級が存在していた。上から順に紫・青・赤・黄・白・黒と色分けされる。階級が上であればある程、皇帝より寵愛を受ける者として扱われるのだ。

 そして皇帝は、深い紫に金の刺繍が施された襦裙を纏う。

 叡賦帝国に住まう者は、皇帝よりも濃い紫色の物を身に付けてはならない。それは帝国にて最も高貴であり、神聖なる血筋を脈々と受け継ぐ皇族にのみ許された色。

 その隣に並ぶ美女の桃色の衣は、今日より皇帝の上級妃となる桃香と、その侍女にのみ許される色となるのだ。


 待ちに待った、桃香の新たなる門出。

 皇帝とその妃となる美女に、叡賦帝国の守護神へ結婚の誓いを立てる祝詞のりとが、宮中神官長の口より紡がれようとした──その直前。


「……神官長。神への祝詞を止めよ」


 皇帝・嶺明が、儀式の中断を申し出たのだ。

 これは一体何事かと、空気が凍る。

 それもそのはず。嶺明の発したその言葉に、その視線に……桃香への疑念と憤怒が、これでもかと込められていたからだった。

 ただ、皇帝の抱く感情にはもう一つ『あるもの』も混ざっていた。それに気が付いたのは、鈴綾をはじめとする武人のみであろう。


 ──殺気。


 皇帝が自ら選び抜いた美姫に向けられるはずのない感情が、今まさに桃香へと向かっているのである。

 そんなものをこれまで一度も感じたことの無いであろう桃香だが、彼の間近に立つ彼女にはが分かってしまったらしい。

 化粧によって唇は赤く染まっているが、薄く開かれた口から吐き出される呼吸は荒く。その場に立っているのが奇跡という程に、女らしく小さな身体が小刻みに震えているのがよく見えた。

 陛下は、桃香に何故殺気を向けているのだ……⁉︎

 永遠にも思える程の長い沈黙の後に、その理由が嶺明本人の口から語られた。


「……奏家の娘、桃香よ。何故貴様の髪に、ちんの愛した桧祝籃に贈った簪が挿してあるのだ……‼︎」

「えっ……桧貴妃きひの……?」


 桧貴妃とは、つい先日に命を落とし上級妃の一人。桧家の姫・祝籃の後宮での呼び名だ。

 嶺明が語った内容が事実であれば、後宮にて死亡した祝籃の……それも皇帝より直々に授かった簪を、どういう訳か桃香が身に付けてしまっていることになる。

 何故だ……⁉︎ 桃香は確か、あの簪は父から贈られた物だと言っていたはずだ。それを陛下が祝籃様の物と見間違えた……? 否、陛下はそんな愚かなお方ではない。ならば何故……?

 あまりに衝撃的な出来事に、その場の誰もが閉口したまま。

 鈴綾も桃香も頭が真っ白になり、一歩も動けずに立ち尽くすばかりである。


「もしや貴様……朕からの寵を独占せんと、祝を害したかっ⁉︎」

「そ、そんなっ……わわ、わたくしは、そのような恐ろしいことっ……!」

「でなければ、その簪はどう説明する!」

「わた、わたくし……わたくし、はっ……」

「言い逃れすら出来ぬのか……! まあ良い、調べれば自ずと真実に辿り着こう……。誰か、この者を捕らえよ! 大聖宮の地下深く、地獄牢へと繋いでおけ‼︎」


 先代とは対照的に穏やかな気質だと有名だった現皇帝は、怒りの果てにか弱き姫君を冷たい地下牢へ叩き込めと命じた。

 すぐさま桃香は兵士達に取り押さえられ、何の抵抗も出来ずに大広間の外へと連行されていく。


「いやっ……いやぁっ! わたくしは、貴妃様を害してなどおりませぬ! 助けて……助けてっ、鈴綾‼︎」

「……っ、桃香……桃香ぉぉぉおおぉっ‼︎」


 子供のように首を振って泣きじゃくる桃香に手を伸ばし、感情のままに駆け出した鈴綾。

 しかし、当然のように邪魔が入る。宮中に配備された、精鋭揃いの兵達だ。

 彼らは一人残らず剣を抜き、そのほこさきを鈴綾へと向ける。反射的に鈴綾も自身の剣に手を伸ばし──


「おっと、そこまでにしておいた方が良い」


 兵士達と鈴綾の間に割って入った、薄紫の襦裙を着た若い男。

 その男の髪は、異国の血が混じっているのだろうか。透き通るような白銀だった。加えて、温和そうなその瞳の色は血のように紅い。

 彼もまた、帝国の重臣なのだろう。


「ここで君が剣を抜けば、天子てんしは蘭白州に全兵力を向けるだろう。そうなれば、鐘家は君が原因で叡賦帝国の全てを敵に回すことになる」

「この鐘鈴綾が、そのような脅しに屈するような女だとでも……?」


 自分が桃香を救うことで鐘家が存続の危機に陥ったとしても、鈴綾と父・銀魄の力があれば生き延びることは可能だろう。

 現に、帝国一の武家は鐘家なのだ。一族総出であれば、余程のことが無い限り全員が死に晒すようなことはあり得ない。


「君や家族の者達なら、無事で済むかもね。でも……戦乱に巻き込まれる蘭白の民達や、奏家の人々はどうなるかな?」

「…………っ!」


 男の発言に、鈴綾は顔を歪めた。

 もし桃香を救い出し、都から脱出出来たとして……それは自動的に、鐘家だけでなく奏家の者達も、その両家が治める州の民草までもを巻き込む戦の幕開けとなる。

 何の罪も無い多くの人々を巻き添えにするのは、決して鈴綾の望みではない。むしろ鈴綾は、そんな弱き人々の平穏を護るべく剣を振るう者なのだから。

 だが……それでは、桃香は救えない! このままでは、私の無二の友は濡れ衣を着せられたままではないか!

 そんな鈴綾の葛藤を全て見通しているかのように、目の前の白銀の男は、ゆるりと口元に笑みを浮かべた。


「……ここはどうか、僕に任せてはくれないか? 悪いようにはしないよ」


 ……この男を、信じるべきなのだろうか?

 けれど、そうしなくては桃香だけでなく奏家の人々にまで危害が及び、民草の多くが戦火に巻き込まれてしまう。


 最早鈴綾に、選択肢など残されてはいなかったのだ。




 *




 それから半刻(およそ一時間)もせぬ内に、皇帝・嶺明の名の下、新たな声明が時報紙として都中にばら撒かれ始めた。



『錦華州は奏家が姫・桃香、後宮最上位妃嬪の桧祝籃に対する殺害容疑にて捕縛!


 奏桃香、叡賦大聖宮の地獄牢に投獄する。


 並びに共犯の容疑にて、蘭白州は鐘家が姫・鈴綾を同じく地獄牢に投獄する。


 奏桃香の後宮入りは破棄とし、桃香・鈴綾の両名は死罪とする方針が固められた。


 尚、両名の処刑の日取りは未定である。』



 その報せを綴った時報紙は、都を大きく震撼させた。

 叡賦帝国始まって以来の大罪人が同時に二人も誕生した衝撃は、脅威的な速度で帝国の隅々にまで拡大していくのだった。

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