第2話 桃色美人
それから数日の後。
鈴綾を乗せた馬車は、帝国のあらゆる中心地である都・
聖環はその名の示す通り、巨大な円形の外壁に囲われた大都市である。外壁近くには庶民が、そして中央に近付いていくにしたがって貴族達の居住区が立ち並ぶ。
その中央の高台にそびえるものこそが、皇帝の住まいである叡賦
いよいよ今日、大聖宮にて婚礼の儀が執り行われる。
鈴綾も朝早くから侍女に身支度を任せ、貴族区にある高級宿から大聖宮へ向かっていた。
平時ではほとんどしない化粧をしてもらい──戦の最中では返り血を浴びて化粧の意味が無くなってしまう為──、この日の為にと父・銀魄が仕立てさせていたという
衣は、見事な薄紫色に染め上げられていた。それは皇帝に最も信頼されし重臣と、その家族のみが纏うことが許された色である。
長年華々しい戦果をあげてきた鐘家の大将軍の娘である鈴綾も、他国からの防衛戦にて確かな成果を出している。
そんな高貴な襦裙を纏い、慣れない化粧を施された鈴綾は、初めての大聖宮に足を踏み入れた。
*
叡賦帝国での婚礼の儀では、花嫁と花婿が午前中に顔を合わせることが無い。
婚儀に招かれた客人達は、まず男女に分かれて別室へ通される。女性客は花嫁の、男性客は花婿の待つ会場で会話に華を咲かせ、二人のこれからの夫婦生活への祝福や助言を授けるのだ。
祝いの食事を楽しみながら午前中を過ごした後、真上に太陽が昇る頃合いに、全員が大広間に集められる。
そこでようやく花嫁と花婿が顔を合わせ、全ての招待客達に見守られながら神前にて誓いの言葉を述べる。そこで晴れて二人は夫婦となり、皆から割れんばかりの拍手と歓声を浴びながら儀式が終わるのだ。
鈴綾も早速、花嫁側の会場に通されたのだが……見渡す限りの煌びやかな女性達の衣装と、様々な香の匂いが混ざった空気に顔を強張らせていた。
本来であればとても良い香りのするお香を衣に移したのだろうが、婦人達がそれぞれ異なる香りを纏って一室に集まると、何とも強烈なものだった。少なくとも、化粧やらお香やらといった貴族の女性達が好む物に疎い鈴綾には、どうにも慣れない空間だ。
見た目だけなら色取り取りの花々が咲き乱れる庭園のような場所で、鈴綾はあまりにも自分が場違いであることを痛感してしまう。
やはり、婚儀には父上に参列して頂くべきだったのではないだろうか……。
その時、同じ参列者である一人の女性が入り口で立ち止まったままの鈴綾に目をやった。
「あの紫の衣……それに腰に提げた剣は、もしや……!」
女性から発されたその言葉に、周囲の婦人達も鈴綾へ視線を向けた。
ああ、またか……。
怯えを含んだいくつもの驚きの声が、鈴綾の鼓膜を震わせる。
「あれは、鐘大将軍の……」
「蘭白州の鬼人の娘が、戦地を離れて何故この大聖宮に……?」
「目を合わせてはいけないわ。恨みを買って剣の錆にされてしまうわよ……!」
誰が鬼人だ。私の父上は、帝国随一の偉大な軍人だ!
確かに自分は、この場に集ったどの婦人達よりも多くの血を浴びてきた人間だ。けれども私は陛下の為、そして帝国民の安寧の為にと剣を振るってきた!
私は、そのお役目を果たせることに意義を感じている。鐘銀魄の子として生を受けた事実を、後悔などしていない。
鈴綾は、彼女達に向けてそう叫んでやりたかった。
けれどもそれを実行したところで、婦人達からの評価が覆る訳でもない。子供の頃、既にそれを経験してしまった。だからもう、諦めている。
何故私は、女として生まれてきてしまったのだろう……?
これがもしも男としての功績であれば、誰からも褒め称えられるものであったはずだ。そんな変えようのない運命を、鈴綾は何度呪ってきたことか。
「鈴綾……? ああ、その美しい黒髪……やはり鈴綾ね!」
「……とう、こう……もしや君は、奏桃香なのか……⁉︎」
「ええ。わたくしよ、鐘鈴綾。貴女の一番の友、桃香ですわっ!」
婦人で溢れかえる人波を縫って、鈴の鳴るような愛らしい声が近付いてくる。
鈴綾の視界に現れた美女は、未だどこか少女のあどけなさの残る可憐な女性だった。
その女性は、艶のある黒髪を丁寧に結い上げ、華美ではあれど品のある
婚儀の為に仕立てられた衣の刺繍もまた豪華で、金と銀の糸を巧みに使った模様が、彼女の衣が揺れ動く度に煌めいている。
くりっとした大きな瞳が鈴綾を見上げ、桃色の婦人は愛らしい笑顔を浮かべて友の手を取った。
「お久し振りですわね、鈴綾。貴女の活躍は、お父様からよく聞いておりました。貴女が元気そうで、本当に良かったわ……!」
「ああ、桃香……! 君の方こそ、健勝そうで何よりだとも。しばらく会えない内に、また一段と綺麗になったな」
「貴女こそ、大人の女性らしい魅力的な人になっているではないですか! 思わず嫉妬してしまいそうな美しさです……」
そう言って、桃香は細く小さな手を伸ばして鈴綾の頬を撫でる。
「ふふっ。くすぐったいよ、桃香」
「あらあら……色は白いのに、肌が少し乾燥していてよ? 後でわたくしの軟膏を差し上げますから、是非それを──」
「え……いや、君が使っているのだから、きっと高価な物なんだろう? そんな物を私に使うだなんて勿体無いよ」
「駄目よ、鈴綾! まだまだ冬の真っ只中なのだから、肌の手入れをしておかないと。せっかくの美人が台無しですわ!」
「いやいや、私なんかより君の方が何倍も美人じゃないか」
鈴綾と桃香は、数年振りの再会にも関わらず、当時と全く変わらぬやり取りを繰り広げる。
軟膏を受け取ろうとしない幼馴染を説得しようとする小柄な桃香を、彼女よりすらりと背の高い鈴綾が苦笑して見下ろしていたその時。ふと、彼女の髪を飾る簪の一つが目に付いた。
他の簪よりも、一層手の込んだ銀細工。藤の花を意識したであろう小粒の宝石達が、桃香が動く度小刻みに揺れている。
「……なあ、桃香。その簪、誰かからの贈り物かい?」
「ああ、この藤の簪ですか? ……ええ、お父様からの婚礼祝いなのです。かなり値の張る品物だったようなのですが、とっても気に入っておりますの」
「私が贈った金の腰紐と、よく合っているよ」
「あ……気付いていたのね」
「当然だとも。一応、普段使いも出来る丁度良いものを選んだつもりだったんだが……今日という大事な日に身に付けてくれたこと、私は生涯忘れないよ。ありがとう、桃香」
「だ、だって……この世で一番大切な幼馴染からの贈り物なんですもの! これを皆に見せて、わたくしの友はこんなにも素敵な人なのよって教えてあげたくって……!」
頬を襦裙と同じ色に染めて恥じらう桃香は、間違い無く帝国一の美姫である。鈴綾は改めてそう確信した。
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