第三十八話 送る者と送られる者5
「真良……おい、聞いているのか真良!」
学年の教員の中でも一番のベテランの歴史教員が叱咤する声が教室だけでなく廊下にまで響く。
自分が呼ばれていることにそこで初めて気が付いた俺は、思わず俯いた視線を上げて肩を震わす。
突然近くで驚かされた、そんな感覚だ。
「あっ……すみません」
クラスメイト達からの視線と、教員の若干不機嫌な視線が同時に向けられる。
どこの教室でもよく見かける授業に集中していない生徒を叱る先生の図だ。
しかし、自分が同じ立場になるのは久しい。
真剣とは言えないが、他のクラスメイト達よりも目立たないように取り組んでいる姿をいつもなら作っていた。
教科書もノートも、いつ指されても答えられる程度には身構えて授業には望んでいる。
だが、今日に限っては教科書は黒板の内容とはかけ離れたページを開き、ノートはまっさらのまま、何を問われて指されたのかすら把握できていない。
教室前方に眼を向けたことから不意に視界に映る雫は真面目に受けなさいと言わんばかりに頬を膨らませ、優斗は口角を上げてニヤニヤと笑みを浮かべていた。
隣の綺羅坂からは溜息が零れて、クラスのいたるところで失笑が零れた。
「……今からは授業に集中するように。教科書の76ページを開きなさい」
「すみません……」
指定されたページを開き、問われた問題について自分なりの答えを考えてから答えると、教員は納得したように頷く。
何事もなく再開された授業に生徒達の意識は向けられ、俺をいまだに見続ける生徒は一人もいない。
戻った授業風景の中で自分のノートに視線を移す。
そこには、授業とは無関係の数字が殴り書きされているだけだった。
授業終了のチャイムが鳴ると課題を残して教員は去った。
一斉に解放された生徒達は友人たちと小さなグループで集まり、他愛もない会話に夢中になる。
そんな中、煮詰まり凝り固まった思考を和らげるために自販機で飲み物を買うべく席を立つ。
生徒の間を抜け、教室から出て廊下を進むと後ろから軽やかに近づく足音が一つ。
「珍しいな、湊が先生から注意されるなんて」
「……それを楽しそうに見ていた奴が俺の隣にいるがな」
「そりゃ、普段は何考えているか分からないような奴がポカンと呆けて怒られてれば笑っちまうよ」
思い出して笑う優斗は、俺の右脇腹を指で突いてからかってくる。
その手を払うと歩幅を伸ばし、少しだけ歩くスピードを上げて距離を取る。
十分しかない小休憩の間に行く場所など限られていて、距離を離そうが同じ場所へとたどり着く。
俺は冬なのに冷たいお茶を買うと、一気に喉に流し込む。
……これで、少しは頭が冷めてくれるだろうか。
いや、そんなことはないだろう。
物理的に冷やしたところで意味など無いであろうことは理解したうえで、これはただの気休めだ。
それほどまでに、状況は芳しくない。
綺羅坂と会話をしてから二日、状況に進展はない。
火野君と体育館で見取り図を使い生徒達の位置や壇上の配置、教員たちの立ち位置まで細々した部分の確認は出来たが、肝心の内容については煮詰まっていた。
生徒の意志を尊重するために教員たちからの口出しは無い。
自由という状況は今回に関しては不利益だ。
人数が少ない分、経験のある教員たちの意見は自分達の考えと比較対象として役に立つ。
それが例年と似ている物だとしても、在校生と接してきた人達から出る言葉や意見は貴重だ。
最低でもあと二人、可能であれば三人は人員が欲しい。
自販機で温かい紅茶を購入した優斗が、壁に寄りかかりこちらを見据える。
何か考えるように意味ありげな視線の後に、彼は口を開いた。
「まあ、何を考えているか分からないから接しやすいってのもあるけど」
「……なに、褒めるために来たの?」
気持ち悪いです、辞めてください。
少女漫画なら瞳がキラキラ、顔面キラキラ、セリフもキラキラ。
一昔前の作画でボーイズな展開一直線だ。
みなゆうなの、ゆうみななの?
そこだけは気になるから教えてもらってもいいですかね。
当然だが、優斗がわざわざ自販機までついてきたのは、そんな恥ずかしいセリフを言うためではないはずだ。
優雅にティータイムを楽しむ優斗に視線を向けていると、続く声が小さく廊下に響く。
「大変なんだろ、送別会の準備」
「楽ではない」
「湊が授業中に先生から注意されるくらいだもんな」
間を置くことなく即答で答えると、ケタケタと揚げ足を取りながら優斗は言う。
紅茶の飲み口をじっと見つめていて、適度に着崩した制服とブラウンの髪と珍しくイヤーカフを付けた耳元がキラリと光った。
……ムカつくほどに整っていて、小洒落た男子高校生してやがる。
だが、意外にも彼の声音からは事実確認をしたかっただけのような、あっさりした感覚を抱かせる。
「……」
「なんだ、手伝うって言うかと思ったのか?」
ニヤリと優斗は口を歪ませて告げた。
こいつに思い通りの光景を想像していたとは、なんだか無性に悔しい。
裏を返すと傍から見ていてそこまで分かりやすいほどに焦りが浮かんでいたのだろうと思うと、何も言い返す言葉が浮かばなかった。
「理由は別に聞かないけど、今回は一人でやりたいんだろ?」
他の生徒よりも付き合いが長いから、言葉にしなくても何となく分かる距離感。
近づき過ぎず、決して突き放すわけでもない。
忘れかけていた優斗との距離感。
こいつとの距離感がなんだか落ち着いて、昔の俺は親しみを感じたのだ。
「と言っても、面白そうな問題に何もしないってのは無しだ、優斗君が一つアドバイスをしてやろう」
指を立て、胸を張りながら少しだけ偉そうに、優斗はこちらを見る。
「湊が嫌いなものは大体の生徒が好きで、湊が好きなものは大体の生徒が嫌いだ……それが好き嫌い以外のものでも似たようなもんだ」
「なんだそれ……なぞなぞか?」
思わず聞き返した俺に、優斗は満足そうに悪い笑みを浮かべて背を向ける。
まだ半分は残っているだろう紅茶を一気に飲み干して、近くの缶捨てのカゴにバスケのシュートさながら投げ入れると、一人教室へと戻っていった。
最後の笑みは、アドバイスに対して俺がどんな答えを出すのかを楽しみにしているかのように、少年のような笑みを浮かべて。
「なんだあいつは……」
分かったような気がして、それでいて未だに本質まで荻原優斗という人間を理解できない。
あの言い方では俺が逆張りしている天邪鬼みたいではないか。
いや……一般的に見ればそうなのか。
アドバイスと言いながらも、真意をいまいち分かりきっていないが体感時計で授業まで時間も少ないだろう。
毎度、時計代わりにしか登場の機会がないスマホ君を取り出して時刻を確認すると、あと三分で授業開始の鐘がなるところだった。
……まずい、これは走って戻らないと間に合わない。
優斗も格好よく去ったが、姿が見えない場所からは絶対にダッシュで戻っているに違いない。
去る姿を眺めてしまっていた分、出遅れてしまった。
スマホをポケットにしまいながら走り出そうとした時に、何か気がかりで手を止めてスマホを凝視する。
『湊が嫌いなものは大体の生徒が好きで、湊が好きなものは大体の生徒が嫌いだ』
優斗の言葉が脳内再生される。
「あ……」
脳内でずっと絡まった糸が解けたように、少し優斗の言葉の意味が理解できた気がした。
その瞬間に、弾けるように指は一人の連絡先をタップして通話を掛ける。
数コールで相手は出てくれて、その後ろからは教室特有の喧騒な声がBGMで流れ込む。
「火野君、スマホだ」
『スマホ? 突然どうしたっすか?』
そうだ、優斗の言葉は実に的を得たアドバイスだ。
あからさまな協力を今の俺が嫌いだろうと配慮して、遠回しに言ってくれたおかげで気が付けたまである。
たぶん、正面からはっきりと言葉の真意を言われても、マイナスに色々と考えて真に受けなかったかもしれない。
だから感謝しよう、からあげくんのチーズ味で俺の感謝意を伝える最終手段をとるのも辞さない。
火野君には放課後に詳しく説明するが、一つ目の前の問題の解決の足掛かりが見つかったかもしれないと思うと、思わず口元に微笑が浮かんだ。
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