第三十七話 チョコと君10
授業が始まると、その時間だけは普段通りの日常が戻ってきた……かと思ったのだが。
教室の中央前方に席を設ける神崎雫さんは怒気を、いや怨念に近いものをこちらに向けてくる。
それは授業の間であっても関係はない。
教科書を教員の視線の盾にして、横顔でこちらに注がれる視線には鋭利な刃先に近いそれを感じる。
「……」
理由は言うまでもないだろう。
クラスメイトの視線が集まる中で行われた甘い恋人のような行為は、当然のように後から登校してきた生徒達へ広まった。
雫も、登校はしていたが家庭科室で三浦の手伝いをしていたこともあり、生徒の中でも最後の方に入ってきたのだが、すぐさま女子から話を聞いてから、視線は凄まじいものへと変わった。
……別に俺がして欲しいと言ったわけではないんだけどな。
そんなことを彼女に言ったところで機嫌は治らないだろう。
「お姫様はお怒りのようね」
「どこぞの女王様の悪ふざけでな……」
隣の綺羅坂が冗談を一つ零せば、こちらも負けじとため息交じりで言い返す。
授業終了のチャイムが校内全体に響けば、昼休みが始まりを告げる。
教員が次回の授業範囲と課題について述べると、解放された生徒達が各々席を立ち行動を始める。
俺も自分の弁当を取り出して昼の時間を満喫しようかと思い凝り固まった体を伸ばして安堵の息を零すと、駆け寄る足音が一つ。
「湊君、お昼はご一緒しましょう!」
「いいけど……」
えらく食い気味で身を乗り出すように声を掛けてきた雫に思わず背を反らして答えると、自然と視線は隣に向けられる。
綺羅坂はどうするのか?
いつもなら、自分も当然のように同席する姿勢を見せるはずなのだが、今回は瞑目して口を開いた。
「今回は神崎さんにお譲りするわ、朝は好きにやらせてもらえたのだから」
「綺羅坂さんも気を付けるんですね」
「あなたほど愚直ではないだけよ」
一瞬だけ垣間見せた友情、でもやっぱりこの二人。
笑顔を見せるがその裏に秘めるお互いの黒い感情が見え隠れしていて、第三者の俺が思わず身震いしてしまう。
交差する視線も束の間、雫に袖を引かれて席を立つ。
昼食といっても教室ではないらしい。
となれば、目的地は屋上だろう。
俺は何も問わずその背について歩みを進める。
すれ違う生徒が、雫に声を掛け、彼女がすれ違いざまに応える。
彼女が引く手の先に連れられているのが俺だとわかると、見慣れた光景だが理解はできないといった表情を一様に浮かべる生徒達。
「そろそろ手を放してもいいんじゃない……?」
「ダメです、これは一種の牽制です、貴重な昼休みを邪魔されるわけにはいきません」
前を向き、表情を一切変えることなく、でも言葉は鋭い。
ずんずんと歩みを進める雫は、周囲の小言など聞こえていないように進む。
でも、袖を握る彼女の手は強張っていた。
屋上の扉を開き、建物で風から身を隠せる場所へと移動すると、フェンスを背もたれに二人で腰かける。
雫も片手で持参した弁当を開き昼食の準備を進める。
俺も隣で自分の弁当を開き、膝の上に乗せてふと視線を上げる。
頭上には一つ大きな雲が広がり、まるで俺の心境を表しているようだ。
でも、雫に下手な気遣いをさせるわけにはいかない。
いつも通りに手を合わせてから昼食を開始した。
隣の雫も俺が弁当に箸を伸ばしたのを確認すると自分もいただきますと一言呟き食事を始める。
言葉はなく、ただ二人で肩を並べて食事をするだけ。
これでいいのだろうか……。
彼女はこれで満足するのだろうか、そう思ったが意図せず合った視線は穏やかで楽しげなものだった。
ひとしきり食事を終えて、食後の一服と言わんばかりに緑茶で喉を潤していると、雫がいそいそと何かを取り出す。
それは今までの袋とは形状が違い、小さな箱を情熱的な赤の包みでくるんだものだ。
「どうぞ、湊君! 今年も頑張っちゃいました!」
「ありがとう、味わって食べるよ」
「はい! どうぞ今食べてください!」
雫は両手を差し出してどうぞどうぞ、なんて聞こえてきそうなジェスチャーで促す。
やっぱり、その場で食べて感想を貰いたのね。
作り手としては当然の反応なのか、弁当で腹一杯にならなくて幸いだった。
赤い包装を剥がし、ゆっくりと蓋を開けると中には熊の形をした可愛らしい白い固形が六つ。
流石の俺も色で分かった、ホワイトチョコレートか。
一つ摘まんで口に放り込むと、噛んだ瞬間にスナックに似た触感が襲う。
ブラックサンダーとか、そういう懐かしく好ましい触感に思わず二つ目もすぐに口へと運んでしまった。
「美味しいですか?」
「うむ、甘さもちょうど好きなくらいで美味い」
嘘偽りなく答えると雫は嬉しそうに頬を少しだけ染めると笑顔を見せる。
俺、明日糖分の取り過ぎで鼻血でも出やしないだろうか。
まあ、普段は菓子類を食べないからそれが数日分を一日に摂取しただけと考えよう。
カロリー計算しているわけでもないのに、続けざまに口に放り込むのをためらった手を、無心で動かすことが決定した。
三つ、四つと食べている間に雫は自分の弁当の片づけを始めた。
俺も、これを食べ終わったら片づけをして残りの時間をゆっくり過ごすことにしよう。
脳内でこの後の時間を想像してスケジュールを組み立てていると、珍しく屋上に足を踏み入れる生徒の足音が俺達のところまで聞こえてきた。
扉の鈍い音、笑う声、上履きが地面へ着く音。
様々な音が入り混じり、俺と雫が座る方向へと近づいてくる。
この屋上は基本的に夏は建物から離れ、冬は近づく。
声からして女子生徒二人組だろうが、こちらへ来ることは不思議なことではない。
雫も別段慌てる様子もなくごく普通に声の主の方向へと視線を向けていると、視界の中に二人の生徒が映った。
あまり見かけない顔だから、三階にあるクラスの生徒だろうか。
しかし、向こうは雫のことを当然知っているので手を上げてこちらに挨拶の言葉を告げる。
「あれ、神崎さんじゃん」
「おいーっす」
「こんにちわ、お先にお邪魔しています」
雫が丁寧に返事を返すと二人は隣に眼を向ける。
足先から頭の毛先まで、じっくりと二人して見つめる視線は居心地が悪い。
まるで、品定めされている気分だ。
……実際、品定めをしているのだろう。
隣の美少女が連れる男子がどのような人物なのか。
そして、二人は口元を歪めて嘲笑を浮かべた。
雫の耳に届かない最低限の声で笑いを零す。
別に今更そんなことで腹を立てることもしない。
そんな感情は、いつの間にか置いてきてしまった。
前を通り過ぎた後も何度も振り返り二人で肩を震わせる姿に、俺のうちに沸き上がったのは罪悪感だった。
笑われているのは俺かもしれない。
でも、俺が理由で笑われる人がいる。
その事実に対しての罪悪感だ。
二人の女子生徒は俺達から離れた場所で腰を下ろしたが屋上はフェンスで小分けされていることもあって狭い。
会話も小さく聞こえてくる程度には距離がある。
無用だと言われるかもしれない、それでも俺は制服のポケットに入れていたイヤホンをスマホに繋げると雫に手渡した。
「これ、最近気に入っている曲だから聴いてみて」
「湊君が好みを共有するのは珍しいですね」
急に何事だと小首を傾げて不思議そうな顔で雫は俺の差し出したイヤホンを耳へと付ける。
適度な音量で再生ボタンを押すと、彼女は眼を閉じて音楽に集中する。
「私ならあれを紹介とか出来ないわ」
「確かに……神崎さんも少し変わってるのかもね」
クスクスと、秘めた笑い声が僅かに耳に届く。
体を預けて空を見上げる視界には伸びた前髪が邪魔をするように眼前に広がる。
人の好みは人の数だけ存在する。
だから、それを否定も肯定もしない。
よく知らぬ女子生徒達の意見も、好みという定義において正しい答えなのだ。
自分が気にしないからと、周囲の言葉を放っておいたとして、そのせいで傷ついてしまう人が出来た。
本当の意味で、寄り添ってくれる人達が少しだが俺にもできたのだ。
「湊君? この曲は前に聴いたことがある気がするのですが」
「いや、続きもあるから……そのまま聴いてみてくれ」
「そうなんですか?」
一度は外したイヤホンを、雫は俺の言葉を聞いて元の位置にへと戻す。
これは、俺が解決すべき問題なのだ。
真良湊という一人の人間のせいで本来笑われる必要も理由もない人が笑われる。
これ以上に屈辱的なことはない。
だが、分かっていても、思っていても、俺に今の俺に出来るのは女子生徒達の声を雫に届けさせない、そんな些細なことだけだ。
「髪……切ってみようかな」
ふっと一息、目にかかる髪の毛を吹いて呟いたが、その声は誰かに届くことはない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます