第三十二話 言葉の重み11
ぷかぷかと、水面に浮かぶは空気で膨らませた板状のボート。
ゆらゆらと揺れるどこか浮遊感にも似た小気味よい振動に身を任せて瞳を閉じる。
余計な音はなく、静かな空間が広がる。
時折、水を切る音が届くがそれ以外は騒音など一つもない。
修学旅行最終日。
俺達は本来であれば桜ノ丘学園の生徒達と共に空港に向かっていたはずだった。
午後の便に乗り東京へ舞い降りて、そして神奈川へと帰宅の途に就くはずだった。
しかし、俺は正午を過ぎた時刻なのにも関わらず水面へと体を預ける。
一体、どうしてこうなったのだろうか……
考えるまでもない、綺羅坂が発した一言からことは動き始めていた。
「ということでホテルを予約してあるから、移動しましょうか」
「なに、予約……? これから俺達は空の旅ですけど?」
行きの便では空の旅は一瞬で終わってしまったので、帰りはそれなりには楽しむと決めている。
機内モードにして写真だけでも撮影して、楓に見せてあげるのだ。
その、俺にとっては最優先事項を曲げることなどできぬ。
綺羅坂の言葉に反目して言い返していると、買い物を終えて物産展を出た瞬間に黒く胴長の車が視界に写り込む。
「……」
「こんなところにリムジンとは、場違いな感じが凄いですね」
隣の雫が苦笑交じりで言った。
いや、本当に場違い感が半端じゃないよ。
俺達だけでなく、周りの通行人たちも有名人でも来たのかとチラチラこちらに視線を向けているではないか。
目立つこと、ダメ絶対。
ただでさえ学内ではトマト業者として名を馳せているのだから、これ以上有名になってしまったら大変だ。
荻原優斗の地位すらも危ぶまれるくらいに、俺が学内で有名人になるまである。
いや、これは冗談。
それにしても、相変わらず奇想天外な行動をとる人だなと綺羅坂に視線を向けると、有無を言わせることなく俺の手を引き車の車内へと引き入れる。
「あ、綺羅坂さん!? 湊君を離してください!」
雫が詰め寄ろうとするが、先に扉が閉まる。
車内から窓を少しだけ開けると、綺羅坂は勝ち誇ったような笑みを浮かべて言った。
「あなたたちは後から送迎の車が来るからゆっくり来なさい……私達は一足先にホテルへ行くことにするわ」
お嬢様のように、微笑を浮かべて小さく手を振り彼女達との会話を終えると車は走り出す。
どうして……こうなったのだ。
連れられて来たホテルは綺羅坂の家が経営しているホテルの一つだった。
彼女が赴くと事前に連絡してあったのだろう、手厚い歓迎と豪勢な部屋が用意されていた。
室内には学園のバスに詰め込んだはずの俺の荷物も置かれており、俺はマリン体験を選択していないはずだが部屋には水着が一着用意されていた。
「……これを着て来いってことか?」
当然、女性と同じ部屋になるわけにはいかないので綺羅坂と一緒ではない。
彼女も用意があるからと自分の部屋へと入っていった。
露骨な置き方をされていることを考えると、この水着を着用しろと言われているようだ……
言われると、断りたくなるのが湊君の性分。
でも、それ以上に見知らぬ場所で一人置いて行かれるなど冗談にもほどがあることが万が一にでも無いわけではない。
綺羅坂なら、機嫌を損ねればやりかねない。
恐ろしい女……それが綺羅坂怜。
姿鏡の前で水着を着用して、上には一枚シャツを羽織り姿を確認する。
サイズも完璧だ。
むしろ、なんで俺の水着のサイズを知っているのか、問いただしてみたいのだが。
それすらも叶わないだろうと思いながらも立ち尽くしていると、部屋をノックする音が鳴る。
「はい……」
「私よ、移動しましょう」
部屋の外から聞こえてきた綺羅坂の声に、少しの溜息を零しながら俺は部屋の扉を開ける。
待っていた綺羅坂は上着をパーカーで、下はすらりと綺麗なおみ足が惜しげもなく披露されている。
……目のやり場に困る。
俺は悪くないと分かっていながらも、少しだけ心拍数が上昇していることと頬が赤面していることを自覚する。
目と鼻の先で、美少女が水着姿で佇んでいるのだ。
何も感じない男子の方が少ない。
こちらの反応に満足したのか綺羅坂は微笑むと、俺の手を引きホテル内を移動した。
そして、到着した室内プールで俺は現在進行形で浮遊している。
これがオアシス……
全てを流れに身を任せる。
考えることは不要の世界、最高だ。
ちゃぷちゃぷと、水の中を進む音が聞こえて視線を横に移動させる。
そこには綺羅坂が俺とは違いボートなど使うことなく水面に浮かんでいた。
「どうかしら、わが社経営のホテルは」
「お高いんでしょうね……職権乱用って言葉知ってる?」
「当然自腹よ、それにお父様から許可もいただいているわ」
あら、そうでしたか。
なら、安心してこの時間を疲労した精神の回復に努めてもよろしいんですね。
というか、自腹って言った?
俺のポケットマネーは既に干からびているのだが、大丈夫なのだろうか。
憂鬱になるようなことは後で考えるとして、今は状況の整理をするとしよう。
俺と形は違うにせよ水面に浮かぶ綺羅坂の姿を一瞥する。
すらりと長い脚、くびれた腰、そして水面から顔を出す二つのお山。
黒の水着は、自身の武器を自覚した上でのチョイスだろう。
うん、これは非常にマズイ状況ですね。
彼女のスタイルを確認している時点で俺の脳内は既に深刻な状況まで侵されている。
進級して出会った頃よりも少しだけ伸びた黒髪は水が滴り、彼女が以前俺の家に泊まった際に化粧はしていないと言っていたことが本当であったことが分かった。
彼女の顔は、既に水で濡れているのだが整った顔は普段と変わりない。
いや、水が滴り雰囲気も妖艶にすら感じる。
本当に同い年とは思えない大人びた様子だ。
近くには誰もいない、本当の意味での二人きりの状況に思わず天井を見上げる。
まあ……ボートの上に仰向けだから、視線は最初から天井なんだけどね。
何か言おうかと、脳内で模索していると思い浮かぶのは宮下の告白場面で綺羅坂が口にした言葉だ。
『あなたが好きよ』
短く、そして単純明快な言葉だ。
捻ることなく直接的な言葉だけに、意味は深読みする余地もない。
綺羅坂が抱いていた本心から出た言葉なのだろう。
……なんで、俺なのだろうか。
水面で考える。
隣の綺羅坂も視線が交わればクスクスと含みのある笑いを浮かべてこの状況を楽しんでいた。
綺羅坂も知っているはずだ。
今の俺はとてもじゃないが彼女や雫の気持ちに応えることが出来ないと。
偽って、曖昧な関係を俺も彼女達も望まない。
答えの先延ばしと思われるかもしれないが、自身を偽り出した言葉に意味はない。
それを知っているから、分かってくれているから彼女達は俺に時間を与えているのだろう。
でも、何故なのかと考えることは辞められない。
才能も能力も容姿も経済力も、所詮は平凡。
秀でたものを持つ人には決して敵わない。
彼女達にとって分不相応なのは俺が一番自覚している。
光栄なことであり、迷惑なことでもある。
「感情を言葉にしたことで、塞き止めていた想いが一気に押し寄せる……そんな感覚なの」
水面でゆらゆらと揺れる綺羅坂が呟いた。
彼女自身も初めての体験なのだろう、一つ一つが新鮮そうな口調で言葉を紡ぐ。
俺は静かに言葉に耳を傾けた。
「私は最終的に真良君を手に入れれば良かったのだけれど……今は誰にも渡したくない、そんな気持ちかしら」
普段は大人びて見える綺羅坂も、僅かに頬を赤面させて視線をこちらに向けながら言う姿は年相応の少女の姿だった。
彼女らしからぬ姿に、こちらも思わず恥ずかしさが込み上げる。
共感性羞恥心というやつだろうか。
水中から伸ばされた小さな手が、俺の手と重なるまさにその瞬間、バタバタと走り近づく足音が聞こえてきた。
ボートの上で体を起こして見やると、雫が水色の水着を身に着けて走り寄っていた。
後ろには優斗と宮下の姿もある。
二人も同様に水着を着ているが、雫と違うのは二人は上着を羽織っているところだ。
雫は上着を羽織らずに水着姿でプールサイドを走っているので、あれだ弾んでいる。
胸部が激しく上下に動くのを気にする様子もなく、俺と綺羅坂に最も近い場所まで進むと、勢いよく水中へと飛び込んだ。
綺麗な飛び込みで水しぶきは最小限に留まる。
潜水をするように底を進み、水面に顔を出したのは俺と綺羅坂の中間地点に位置したところだ。
「ぷはぁっ……湊君、大丈夫ですか?」
「お前こそ大丈夫ですか……駆け込み水面ダイブとか」
本当、プールの前は体操をしましょうねと習ったよね。
飛び込みしてはいけませんともいわれていたはずだ。
雫は二人の間に割って入ると、自分がどのような姿であるのかを気にする様子もなく俺の腕を抱きかかえる。
綺羅坂から遠ざけるように引く姿に、逆に綺羅坂の方が表情を暗くさせる。
先ほどまで優しかった瞳は敵意に満ち、凍えるような視線が突き刺さる。
「神崎さん……放しなさい、それは私のものよ」
「何を勘違いなさっているのですか、私の湊君です」
いえ、僕の湊君です。
正確には、僕が湊君です。
暫くにらみ合う二人だったが、意外にも先に折れたのは綺羅坂だった。
彼女は溜息一つ零して、すぐに表情を普段通りのものへと変える。
そして、プールサイドに佇む優斗と宮下の姿も確認したうえで言った。
「ま、修学旅行では大して気を楽に出来なかったでしょうから、このホテルくらいではゆっくりしていってちょうだい」
そう言って、綺羅坂が手を頭上にかざすと、数人の使用人が控えていた室内から現れる。
タオルに飲み物、椅子に軽い軽食まで、至れり尽くせりだ。
どんなVIP待遇ですかね、これって。
だが、綺羅坂の言った通り修学旅行では結局ここにいるメンバーは心の底から楽しめたかと言われれば否である。
彼女の厚意だと思って、俺達は他の生徒に申し訳ないなんて微塵も感じることなく、ホテルでの一日を余分に過ごしたのだった。
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