第三十話 開幕7
まだ重たく虚ろな瞳をゆっくりと開いて部屋の窓から空を見上げる。
朝日が淡く光で空は照らされ、雲は視界には一つも見当たらない。
文化祭当日、文句なしの快晴でこの日を迎えた。
一つ、安堵の息を零してから肌寒くなり始めた室内から廊下へ出る。
キッチンへ向かい開いた扉の先でいち早く起きていた人物に挨拶を投げかける。
「……おはよ」
「おはようございます兄さん!」
すでに制服の上にエプロンという登校準備完了の状態で楓はフライパンを器用に振るっていた。
和食が多い真良家には珍しく、今日はフレンチトーストらしい。
甘い香りに今日は一日糖分を取る日なのだと覚悟する。
当分は甘いものは摂取する必要はなさそうだ……糖分だけに。
なんて親父でも言わないだろう言葉を思い浮かべながら椅子に腰かけると時計を見上げ一考する。
現時刻は六時過ぎ。
開会式は午前九時だが、八時前には一度登校して当日の状況を確認する必要がある。
だが、それを見越しても時間的には十二分に余裕がある。
朝食が完成するまでの間、昨夜テーブルの上に置いたままだった書類に目を通す。
各クラスの出店配置、来場者数の予想に売り上げ目標の数値などの情報が記載された書類の詳細さに感心していると、隣から淹れたてのコーヒーが差し出される。
「今日は私も隣のテントで売り子をする予定です」
眩い笑顔で告げた楓に、小さく頷く。
俺たち桜ノ丘学園の生徒会テントの隣では、桔梗女学院の生徒会がテントを設置している。
俺達はパンケーキ、そして隣ではクレープとスイーツ対決で勝負が行われる予定だ。
学園側には生徒会同士の交流の一環として、アンケートがてら勝負という形をとったと言ってある。
だが、本当のところは個人的な欲求であり、桔梗女学院生徒会長の瀬良の「柊茜を打ち負かしたい」という欲に過ぎない。
それを文化祭の場で行ってしまおうという案を提示することで実現したのがスイーツ対決である。
売り子で楓が協力するのであれば、売り上げが激増するのは間違いない。
ただ、うちの男子生徒が楓に一目惚れしてしまわないか、そして火野という不安要素が残っているのは否めない。
つまり、俺の妹は可愛い。
人の心配もほどほどに思考を本題へと戻す。
勝負となれば、手を抜かないのが我らが生徒会長だ。
味見を兼ねて訪れたパンケーキ屋の味に近づけるべく再現可能な範囲での試行錯誤は行ったが、それでも準備に大半の時間を割かれてしまう状況では満足の完成度とは言えないと会長は言っていた。
しかし、俺も味見をしたが十分すぎるクオリティーは確保できている。
材料費と手間を含めた価格として、三百円で提供する予定だ。
綺羅坂が問屋へ話をつけてくれていたおかげで出費は最低限で抑えられている。
赤字になることはあるまい。
となれば、問題は隣の店がどれくらいの味と価格で勝負を打ち出してくるか……
どこかの料理漫画さながら食べた瞬間に洋服が弾け飛ぶわけでもないが、頭に巻いた手ぬぐいをとって決め台詞を言いたいまである。
それに、こちらには雫と綺羅坂も加わっている。
考えられる中でも万全の状態だからこそ、勝負に関してはさほど心配していない。
それよりも、初めて運営側に参加した身としては問題なく行事を終えることができるかの方が心配だ。
その感情を押し込むように、香りと共に蒸気が立ち込めるコーヒーを一口啜る。
「楓も一度高校に行くのか?」
「はい、私は生徒会のお手伝いもありますので」
片手に器用に二枚の皿を持ちながら、俺の問いに楓が答える。
なら、次に顔を合わせるのは商店街でか桜ノ丘学園か……
口の中に広がった苦みが眠気から強制的に覚醒状態へと意識を変化させる。
これまでの、そして今後の学生生活の中でも鮮烈に記憶に残るであろう一日が始まりを迎えた。
普段よりも一時間以上早く自宅を出た通学路は静かなものだった。
住宅街を抜けて商店街に踏み入れると、多くの高校が目に入る。
二校の美術部が合作で制作したポスターには大きく本日の日付が記載されていた。
サンプルでは内容を確認していたが、正式に貼りだされているのは初めて見る。
多少、色彩に変化はあるが二校の校章と商店街のゆるキャラ的な生き物が描かれているのが子供には受けそうだ。
そんなことを考えながら立ち止まっていると、遠くで同じ制服を着た生徒が登校しているのを見て歩みを再開する。
魚屋のおっちゃんに開会式で何か奢ってもらう計画を密かに立てて邪推で口元を歪ませている姿を見られて、周りから冷めた視線を向けられたのは言うまでもない。
見上げた先に佇む正門の前には、半円型の大きなアーチもとい文化祭仕様の特設門が設置されいた。
桜を冠している高校なだけあって、モチーフは桜色だ。
緑で木々を表現して、頂点には校章と大きく『桜祭』と記されている。
代々、我が校では生徒会長が毎年直筆でこの桜祭という文字を書くらしい。
今年も会長が達筆で書き記したらしい。
そんなプチ情報を持っているだけで、去年よりかはこの文化祭という行事に対しての意識は変わってくる。
のろりと正門を過ぎるとすでに何人もの生徒が準備を進めていた。
おそらく自分たちのオリジナルのTシャツでも作成したのであろう同じカラーの衣装に身を包み、この先の行事を今か今かと待ち望んでいる表情はまさに青春真っただ中。
その背中にはクラスメイトの名前が不自然な筆記体で並んでいる。
あれ、自分の名前が書かれているか気になってしまうのは俺だけだろうか。
探してなかったときは最大級に孤独感を味わうことになるし、書かれていたとしても自分だけ苗字ってパターンもある。
むしろ、俺くらいになると並んでいる名前の順番でクラス内の序列を探り当てるという愚行に意識を向けることも多々あるのは否定できない。
露骨に真ん中に名前が書かれている生徒は女子人気が高い。
どこかの荻原とかいうやつな。
その生徒たちの中でも一際生徒が集まる場所に視線を向けると、そこには例外なく荻原優斗の姿があった。
彼も制服ではなくオレンジ色のシャツに身を包み、生徒と歓談しながら準備に取り掛かっていた。
自分のクラスでも出し物でもなく、率先して手伝うあたりがあいつらしい……
あと、そのシャツまさか俺のクラスの奴じゃないだろうな。
俺買ってないよ、というか話すら聞いてないよ。
自ら声を掛けて精神をすり減らす勇気は俺にはなく、教室がある二棟ではなく生徒会のテントがある正門前のテントへと進む。
割と早く来ていたので一番かと思っていたが先客がいた。
腕に実行委員の腕章を付けて卓上に生徒会の出店の準備を進めていた白石に声をかける。
「早いな……実行委員会の方はいいのか?」
「先輩もずいぶん早く来ましたね、そこらへんは心配ご無用です!」
「別に心配はしてないけどな……」
荷物を適当な場所に置いてから胸を張って自慢げに告げた白石に返事を返す。
途端に不機嫌そうに顔をしかめて息を零した後輩に目を向けると、彼女はとても嬉しそうに周りに目を配る。
白石にとっては初めての文化祭。
そして、自分が実行委員長を務めた文化祭が現実となって目の前に広がっているのだ。
感慨深い感情が彼女の中には渦巻いていることだろう。
「私も一応は次期副会長ですから、当日くらいは手伝わないと先輩方にあわせる顔がありません」
「……実行委員長をしている奴に文句を言う生徒はいないだろ」
賞賛こそするが非難する生徒など今の生徒会には在籍していない。
小泉も三浦も各々の立場と仕事については理解している。
だが、そんな常識的な理由ではないのだろう。
彼女の中では少なからず生徒会に自分の痕跡を残しておきたいのだ。
見かけによらず我の強い白石らしくはある。
「初めてで勝手がわからないことも多々ありましたが、ここまでは概ね予想通りに事を運ぶことができましたから」
「……」
そんな言葉が静かなテントの下で紡がれた。
言葉の後には安堵の息すら零れ出る。
白石の行動には常に異常ともいえる予想と計算の賜物である。
雫や綺羅坂、そして会長のような問題に直面した時、瞬間的に正解へと導く判断力は彼女には無い。
だが、事前に発生するであろう問題に対しての回答を何十通りと用意しておくことで解決してきた。
今回の文化祭実行委員でもその能力はいかんなく発揮されていたことだろう。
しかし、それが逆に不利になる場合もある。
白石の場合は、露骨に自身が予想していない事態に直面した際に判断力や思考能力は格段に低下する。
人間、そのような場合は誰しもが似たような状況になるものだが、彼女の場合はその落差が人一倍表れてしまう。
安堵するのであれば、それは閉会式を終えた後だ。
「当日のトラブルも予想済みか……?」
「はい!商品の出来栄えや金銭面に関しても―――」
「……なら、その予想は今のうちに胸の奥底にしまっておけ」
白石が持ってきたのであろう足元にはバケツが置いてあり、その中に水と布巾が浮かんでいた。
それを掴み十分に水を絞って卓上を拭きながら白石に告げた。
開いた口は塞がることはなく、ただ視線からは理由を求められていた。
「白石の能力を過小評価するつもりはないが、人間はロボットみたいに予め想定した動きをするわけじゃない……感情って面倒な要素が絡む以上は予想通りに問題を解決するのは難しい」
今回は学生の交流を深める場でも、模範解答をすれば内申点がもらえるかもしれない教師を相手にするわけではない。
部外者、そして生徒の親族やその他の多種多様な人間を相手にする。
金銭も絡み、多少の責任を負う立場にあるのも実行委員会だ。
それは生徒会も例外ではない。
「失敗はどう言いつくろっても失敗という結果が残る……成功よりも印象としては強くそして長く残る……一度目の失敗は二度目を消してしまうかもしれない」
かもしれない……そう、これはあくまで可能性の話だ。
雫や綺羅坂を相手にしていたら、こんな可能性だけの話をしたところで正論や他の可能性を突きつけられて終わりだ。
しかし、こと白石に関しては僅かな可能性でも一考の余地を与える。
今はそれでいい、言葉の本当の目的はあくまで本番はこれからで安心するのは今ではないということが伝わればいいのだ。
遠回りで、言い方も悪く伝わりにくいかもしれないが、俺の口から発せられるのはこんな言葉だ。
「肩の力を抜け……組織のトップが強張っていると全体にも伝染する」
そう白石に向けて告げると、俺は自分の左腕を指さした。
そして彼女の腕に付いている腕章を指さしていることを表すように、トントンと指を叩く。
「腕章、裏表逆だ」
「なっ!?」
「あと、シャツのボタン掛け間違えているぞ……」
彼女の首元のリボンの下で一目見れば気が付くであろうくらいにボタンが違う場所で掛けられて歪んでいた。
そんな分かりやすい身だしなみを気が付かないくらいに彼女は表情以上に内心で緊張していたのだろう。
振り向いて身だしなみを整えている間、後ろからはぶつくさと文句が零れていたが、それを気にしないのが先輩の余裕。
と言いつつも自分も服装におかしな場所がないのか確認するのも先輩の余裕。
二人でそんなやり取りをしていると、遠くから駆け寄りながら元気いっぱいに声を出して近づく生徒が見えた。
「二人ともおはようー!」
その姿、小泉の緊張感のなく反対に楽しみにしていたと言わんばかりの表情を見て、俺だけでなく白石も苦笑を零したのだった。
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