第二十五話 開票と離別7



 懐かしい感覚だった。

 朝、楓と別れるように家を出て、一人に通学路を歩く。

 

 教室について、音楽を聴いて時間を過ごしてから授業を受ける。

 昼休みは人気の少ない場所で楓特製の弁当を食べて、午後の授業に臨む。


 生徒会の活動は無く、授業の終わりを告げる鐘を聞くとふらふらと帰路につく。

 ほんの少し前まではこれが当たり前の日常だったはずなのに、違和感の方が大きい。あの騒々しい日常に慣れ始めていた証拠だ。



 歩く場所の大半に、過去の記憶としての光景が脳裏に浮かび上がる。

 それを避けるように違う道を使うようになった。


 人間の記憶なんて自らの意思で消せるものではない。

 無駄な行動だと分かっていても、今の自分には余計な思考はストレスなだけだ。



 川沿いにある広場で小学生たちが野球をしていた。

 表情は輝いて、今を楽しむ以外の考えなどあの子たちの脳内にはないのだろう。


 それが一番だ。

 一つ、また一つと大人に近づくにつれて無邪気さは失われていく。

 

 精神が大人になり、周りの目を窺うようになり、集団に溶け込むことに慣れる。

 目の前の少年達を見ると、本当に俺達は成長しているのだろうかと疑問にすら思ってしまう。


 何かを捨てて、無邪気さを捨てて、それが本当に成長なのだろうか。

 真っ白のキャンバスを黒く染めているだけで、本当は何も成長できていないのではないだろうか。


 まあ、そんな精神論を考えたところで無用の産物だ。


 止まっていた歩みを再開させると、目の前から二人組の少年と少女が駆けて、そして通り過ぎた。

 外見的には似ていないので、幼馴染なのだろうか。


 振り返って、その姿を見送っていると同じ制服の少女の姿を捉えた。


「懐かしいですね……私達もあんな風に遊んでましたね」


「……俺が連れ回されていたの間違いだろ」


 俺と同じ方向に振り返る雫は、懐かしむように告げた。

 一瞬、何故この道を歩いているのか、なんて疑問が浮かんだが答えなど考えるまでもなかった。


 家も向かいで、普段の道に俺が歩いていない時点で帰宅ルートは絞られる。

 少し遠回りになるがこの道から帰っていることを彼女は察したのだろう。


 少年たちの姿が完全に見えなくなるまでその場で立ち尽くして、そして前を向く。

 隣には雫が肩を並べて同じ歩幅で歩く。


「……」


「……」


 互いに視線を周りの風景に移すが、言葉は交わさない。

 彼女とこの道を歩くのはどれくらいぶりだろうか。


 

 雫はただ微笑を浮かべていた。

 言葉など不要、そう言っているかのように。


 川沿いを進み、住宅街に入る手前、古びた民家の前で立ち止まる。

 所々錆びていて、今は面影もないがこの家は昔駄菓子屋を営業していた。


 老夫婦で営んでいたこの店は、お世辞にも繁盛しているとは言えない。

 ただ、子供たちの姿を見るのが楽しいと言って、俺達が中学生になるまでの間何十年も営業していた。


 だが、町の人口も少なくなり、子供の数も減り始め歴史を少しづつ重ねていたこの店も数年前に閉店してしまった。

 最後の営業日に、雫と楓の三人でこの店を訪れたのは記憶に強く残っていた。


「……湊君、普段は無駄遣いしないのに、このお店に来ると決まって沢山買ってましたよね」


「駄菓子ってなんだか無性に食べたくなるからな……昔のほうが今よりもお金を使う頻度も少ないから、俺の経済はここで回っていた」


 むしろ、この駄菓子屋の経済を俺が回していたまである。

 ……勿論、冗談だが。


 子供の小遣いなんてたかが知れている。


 俺の言葉にクスりと笑いを零す雫は、目を細めた。


「でも、買うのはいつも私や楓ちゃんが好きな物でしたね。欲しがったら上げようと思っていたんですか?」


「……忘れた」


 些細な少年心をぶり返さないでほしい。

 まあ、当時の俺も幼いながら兄の優しさや、幼馴染にカッコいい姿を見せたかったのかもしれない。

 

 今となっては昔のことで、忘れ去った過去だ。



 彼女は懐かしむためにここに来たのだろうか。

 違う、そんなわけない。


「……怒ってますよね」


「何が」


「体育祭……私が誘ったのに、私何も言えなくて」


 気にしていたのか。

 そんなもの、怒ってなどいないと前にも伝えたはずだ。


 でも、それが彼女の中では小骨のように胸の奥に引っかかっていたのかもしれない。


「あの状況で言えなくても仕方ないだろ……この前も気にしてないって言わなかったか」


「ですが……結局、私は前と何も変わってませんでした」


 『もう、周りの目は気にしない』いつだったか、彼女が言った。

 それは、彼女自身が変わることを決意したきっかけであり、常に胸に抱いていた課題だった。


 だが、そんなに簡単に人間変われるのなら、世界はもっと平和だろうしトラブルも少ない。

 俺も、彼女も、周りの誰しもが例外ではなく、人間が変わるのは時間が掛かるものだ。


 最初の一歩を踏み出すのがとても難しくて、そして先にも地道な道が待っている。

 嫌で、戻ってしまいたくなるような道が。


 その一つ目に彼女も、俺も差し掛かっただけのこと。

 そして、俺と彼女は戻ってしまった。


 それは、悪い選択なのだと一概には言えない。

 ただ、雫にとっては悪い選択だったのだと、彼女自身が後悔しているように見えた。


「高校時代の友人は大事にしろってよく言われるだろ……クラスメイトに印象悪くされるよりはマシだと思えば気も楽になる」


「……嘘は相手に分からないように言うものですよ……だから言ったでしょ?湊君は嘘が付けない人だって」


「……」


 雫は頭を横に振る。


 何度も繰り返すようだが、年月とは怖いものだ。

 その年数の分だけ、相手が考えている心情に近い答えを導き出してしまう。


 彼女の自傷にも似た笑みから目を逸らすように首を横に向ける。

 古い建物から離れるように進む俺達は、見慣れた住宅街に入る。


 住宅街の中でも大通りを抜けて、よく見る公園の横を通り過ぎる。

 そして、真良家と神崎家を分ける道路の前で立ち止まると、互いに向かい合う形で立ち尽くす。


「体育祭の件は、私のせいであのような形に固まりつつありますが、それでも私なりの答えを出すつもりです」


「……心配は必要も無さそうだな」


 その瞳は、すでに答えを得ているようだった。

 その言葉に僅かな安堵の息を零して真良家の敷地に足を踏み入れた。


 玄関の鍵を開けて、空いた扉を引く瞬間に雫が言葉を紡いだ。


「湊君!……私は湊君以外とは一緒に種目に出るつもりはありませんよ」


 振り向いた先で、笑って見せる少女は何を思い、何を考えてその言葉を口にしたのだろうか。

 その答えを知るのは、もう少し先になりそうだ。

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