小話

放課後と温泉


 高校に限らず、学生の生活において主なる出来事は学校で起こることが多い。

 それは、職業学生という肩書の通り、一日の大半を学校で活動していることが他ならない理由だ。


 早朝の挨拶、昼食の談笑、放課後の娯楽、時には授業中に教師の目の盗んで会話に花咲かせることもある。

 例外なく、俺も同じことが言える。


 何かイレギュラーの出来事があるのは、たいていが学校にいる間に起きていた。

 今日も、想定外の発言が隣から告げられた。


「……温泉に行きたいわね」


「……温泉か、最近は行かなくなったけど案外好きだったな」



 温泉は嫌いではない。

 体の汚れを落とすだけでなく疲れやストレスも緩和できて、何より一人の時間を満喫できる。

 

 そこに会話は必要ない。

 ただ、湯船につかって日々の悩み云々から解放されて無心で体を休めるのは良いことだ。


 俺達の住む町では小さな銭湯くらいで、大掛かりな温泉施設は無いが車さえあれば行けない距離ではない。

 ましてや綺羅坂なら運転手付きで簡単に赴くことが出来るだろう。


 場所や時間を考慮するなら、箱根あたりが無難だろうか。

 俺の脳内検索では、温泉で日帰りのキーワードで思い付くのは箱根くらいだ。


 なんて、彼女の発言について自分なりの思考を巡らせていると彼女は僅かに声のトーンを上げた。


「そう、それは良かったわ。では今日の放課後にでも行きましょうか」


「嫌だ」


 反対の言葉は脊髄反射のように無意識のうちに発していた。


 何を言い出すんだこの女は。

 授業中にも関わらずスマホを取り出していた綺羅坂は、既に画面上に数か所の温泉施設を表示させていた。

 

 考えは同じだったのか、検索欄には箱根と入力されている。

 温泉が嫌いではないと言っても、放課後にふらりと行くほど行動力は無い。


 それに、俺にだって放課後の用事がある。

 誰よりも早く帰宅することを競う帰宅部という部活に所属している俺には、迅速に家に帰るという使命がある。

 もはや、授業よりも大切な学校行事と言っても過言ではない。


 そして加えるのなら、風呂で汗を流して楓が作る夕食を待ちながらリビングのソファで寝ころんでいたい。


 即答で綺羅坂からの提案を断ると、視線を黒板に向ける。

 そこには教師から出題された問題をいとも簡単に回答している雫の姿があった。


 生徒の多くが未回答の問題を、彼女は難なく解いていた。


 クラスの男子生徒の多くが憧れにも似た視線で雫を凝視している中、問題を解いて自分の席に戻るために振り返った雫と視線が交わる。


「……」


「……」


 獲物でも補足した肉食獣のような鋭い視線。

 あれは……狩りをする獣の視線だ。


 俺と綺羅坂の会話でも聞かれていたの?

 ここから聞こえるとか、もはや同じ人間の聴覚とは思えないのだが。


 地獄耳という言葉もあるが、あれは案外本当の話なのかもしれない。


 背筋に悪寒を感じていると、綺羅坂は諦めず次なる提案をしていた。


「仕方がないわね、今日は近場で譲歩してあげるわ……ここなんてどうかしら?」


「なんで行くことが前提で話が進んでいるんだ……」


 なぜ、彼女が妥協してあげているかのような態度なのだろうか。


 そもそも、俺が承諾した記憶がないのだが。

 雫が席に座るのを確認するまで視線を外へと逸らして、隣からの言葉を適当に流して返すことでやり過ごした。


「では、次の問題だが―――」


 問題の解説を終えた教師が、次の問題へと授業を進めるのに生徒達は耳を傾ける。

 本当に聞いているのか、それとも反対の耳から流れ出てしまっているのか。


 普段なら、適当にノートに問題と解答を書き写すだけで、授業の内容など大半は聞き流しているが、今日に限っては例外で教師の話に耳を傾ける。

 ……でないと、隣の女子生徒からの放課後の温泉プレゼンテーションがうるさくて仕方がない。





 放課後、校内に一日の終了を知らせる鐘が鳴り響くのを確認すると迅速に席を立つ。

 陸上選手顔負けのスタートに成功した俺は、誰よりも早く廊下に出たはずだった。


 だが、気が付くと視界が反転していた。

 そう”反転”していたのだ。



 背中には強烈な衝撃と痛み、そして胸には息が詰まるような感覚が走る。


「うげっ」


 突然の衝撃に間抜けな声が出た。

 すると、頭上から綺羅坂の声が耳に届く。


「校内を走るのは禁止のはずよ?生徒会の役員が校則を破るだなんてダメよ」


 あらかじめ俺が逃げ出すことを予測していたのか、綺羅坂は起き上がった俺の背に体を乗せて体を拘束する。


 捕まるとか以前に、教室内で誰よりも早く動いたはずなのに、俺よりも先に戸の前で立ち塞がっているのだろうか。


 少年漫画ならともかく、現実において驚異的な身体能力で先回りされたことに少々男としてのプライドに傷がつく。

 まあ、傷がついて困るような大層なプライドもないのだが。


 完全に教室内で異質な状況を作り上げた綺羅坂と俺には、嫌でもクラスメイトの視線が集まる。

 当然、優斗もこちらを見ていた。


 眉を上げてため息を零すかのように肩を下げ、こちらを見てくるその視線を俺は忘れない。

 絶対に仕返しをしてやると決意の眼差しを優斗へと向ける。


 次に雫の座る方に視線を移すが彼女の姿はそこには無い。

 変わりに頭上から雫の声がした。


「綺羅坂さん、教室で騒ぎを起こす様な行動は控えてください……それから湊君から手を離してください」


「あら、それは申し訳ないわね、以後気を付けることにするわ……あなたも近寄り過ぎには注意しなさい」


 怖いよ……女の闘い怖いよ。

 完全に二人とも俺の頭上で怒気の含んだ声で話をしている。


 語尾に付け足された言葉なんて、二人以外には絶対に聞こえていないであろう声量だった。


 視界の隅で捉えた二人の笑みが、更に恐怖心を増大させる。

 何故、女性は天敵とも言える相手と笑顔で会話を出来るのだろうか。



「湊君を連れ出すのなら、まず私に了解を得てからにしてください」


「何故あなたに逐一話す必要があるのかしら?彼をどうしようが私の自由では?」


「違うぞ……まず俺の意思を聞いてから話を進めろ」


 前提が間違えている。

 まるで自分たちの所有物かのような発言に一言だけ口を挟むが、彼女たちの耳には聞こえてはいない。


 完全に空気と化している俺を横目に尚も彼女たちの会話は白熱していく。

 それを止めるかのように間に優斗が入った。


「まあまあ、どちらにせよこんな場所で話をする内容ではないだろ」


 なぜだろう。

 優斗がとても頼もしく見えてしまう。


 俺の視界からでもキラキラと王子様エフェクトが追加されている気がする。


 ……と思ったが彼の後ろにある窓から差し込んだ陽の光だった。

 自然の光をも自らの力に変える荻原優斗……恐ろしい子。



 完全に孤独と化した空間でそんな考えが頭に浮かぶ。

 それよりも早く拘束を解いてもらえないだろうか。


 完全に限界を超えて下手すれば反対に曲がるまである。

 俺の関節がいけない方に曲がってしまう。


「では、温泉の後の卓球で勝負を決めるということで」


「構いません!私が負けるはずありませんから」


「仕方ない、その案で行こうか」


 ……どの案で行くんだ。

 俺の意思とは関係のない案が、頭上で決定されていた。


 話の経緯も分からず、決定の方法がスポーツになっていること理解が出来ない。

 しかし、妙に納得している三人に俺は否定が出来ないと経験から悟る。


「では車を待たせているから行きましょうか」


「嫌だ、俺は行かないぞ……離せコラ」


 関節技を解き、俺の制服の襟首を引くようにして歩き始めた綺羅坂。

 猫様さながらの掴まれ方で引きずられる俺の後を雫と優斗が付いてきてくる。


 ニコニコと俺を安堵させるように雫は微笑を浮かべているが、今の俺には逆効果でしかない。

 俺は一体、どこに連れていかれるのだろうか。


 一つ理解できていることがあるとすれば、確実に温泉に行く流れであることだ。

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