第十章 一枚の記憶3
何が彼女をそこまで不機嫌にさせたのか。
首元へ添えられているのはただの手のはずなのだが、冷たさと実際に切られてしまうのではないか、そう錯覚させるほどの迫力がある。
その迫力に思わず体を仰け反らすと、制服越しに僅かに温もりが伝わってくる。
だが、それ以上に体の温度は低下していく。
俺の中では、既に彼女は変な人と位置づけられているが「氷の女王」は健在だ。
凍てつく様な瞳が、声が、雰囲気がそう物語って来る。
「随分楽しそうなことしていたわね」
「……これが楽しそうに見えるのか?」
だとしたら、それは大きな勘違いだ。
隣で幼馴染が続々と生徒に話しかけられ、自分の周りには誰もいない。
人望の差と、普段からのコミュニケーション能力の差をひしひしと感じているだけだ。
その感情の中に、楽しいという感情は微塵も感じられない。
彼女は視線を上に向け、強調して言った。
「あら、そうかしら?髪の毛なんてセットして、私があなたの変化を見逃さないとでも思ったのかしら?」
「……」
……思っていました。
楓も雫も、露骨にかつ急激に目立つようなセットはしていない。
地味ながらも、整っているくらいだ。
だから、普通は見られても特段気になるレベルではない。
彼女が俺を目にした瞬間に、それに気が付いたのがむしろ驚きだ。
些細な変化にすら気が付き、見逃してくれない。
綺羅坂怜の良いところであり、悪いところでもある。
敏感に人の変化に気が付いてしまう、だからこそ人が何をもって自分に話しかけてきたのかを瞬時に悟ってしまう。
下心や興味、若者特有の派閥争い。
容姿がいい、家がお金持ちの女子生徒なんて皆自分の周りに置いておきたい。
今の生徒との間に壁を作っている彼女を作り出したのは、そんな面倒な人間関係から逃れたいと考えたからなのではないか。
と、まあ話が完全に脱線しているが、その綺羅坂が背後に立っている。
それにしても、観察のし過ぎではないだろうか。
俺がやっていないことも分かっているような反応だ。
むしろ、どこから観察されていたのかが気になってしまう。
「どこから後ろにいたんだよ」
「あなたの家からよ」
「当然みたいに言うな……」
そんな影、どこにも見受けられなかった。
前のように、家の前に車など止まっていたかったし、雫や楓も気が付いているそぶりを見せていない。
ほんの少し前の記憶を遡っていると、綺羅坂は首元から手を引き隣に体を並べ立つ。
「それにして、今回は彼女にしてやられたわね」
「彼女に?……雫の事か?」
綺羅坂は、珍しく悔しそうな、恨めしそうな表情を雫へ向けていた。
それが意外で、でも同年代の子供らしいとも感じてしまうのは、彼女が普段から子供らしからぬ行動をしているからだろう。
「―――」
生徒に囲まれた雫は、器用に皆へ返事を返しつつもこちらに勝ち誇った顔を見せた。
まさに、ドヤ顔だ。
二人が何を争っていたのか、それは分からないが行動の流れからして俺も関係しているのだけは明白だ。
だが、話に突っ込むと何かと面倒なことに巻き込まれかねない。
聞きたいという欲求を、胸の奥にしまい込み歩を進める。
群がる生徒に、その少し後ろを歩く二人の男女。
朝からおかしな光景だが、だれも気にしていない。
普段から行われている、我が校の伝統とまで言えるからだ。
おそらく、ほかの場所では女子生徒に囲まれた優斗が、どこからの通学路を一人歩いていることだろう。
非リア充がそれを見て、歯を食いしばり涙をこらえているに違いない。
俺もその現場を見たら、ドロップキックの一つでもくらわしてやりたい気分になるはずだ。
雫と似たような立場にある綺羅坂には、囲いがいない。
俺が隣で歩けているのが何よりの証拠。
ちらほらと綺羅坂に視線を向けている生徒はいるものの、近づく生徒は一人としていない。
それを疑問に思い、何が違うのかと二人を見比べているとそれに綺羅坂が気が付いた。
「ああ、あれね……私はあの子のように目立つようなことしないから」
「……存在自体が目立っているけどな」
見た目うんぬんではない。
いや、確かに見た目も大いに関係するのだが、彼女から発している雰囲気、オーラ、それから……雰囲気だな。
自分の語彙力のなさを痛感しつつも、その雰囲気のせいで誰も近づけないだろう。
他人に壁を作る、近寄るなと言わんばかりの冷たい視線が誰も近寄らせない。
「見た目に騙されたり、人の本質も分からずただ話しかけたいという感情で近寄られても困るわ」
「ああ……なんだかお前が言うと説得力を感じるよ」
そんなの大勢いそうだからな。
幸い、俺は彼女にはそうは見られていないらしい。
大方、観察対象だろう。
娯楽の一つで、楽しいおもちゃ。
「それはそうと、あなた今日写真撮影なのでしょう?もう少しぴしっと立ちなさい」
「あい」
背中を一つ、叩かれて背筋が伸びる。
今日は、朝からしっかりしろと注意ばかりされている。
次第に写真撮影が嫌になる気分だ。
学校が今日は休校となっていればいいのに、そんな淡い期待しか頭に浮かばない。
重くなる足取りで進む俺の横に、ぴたりとついて歩く綺羅坂。
先にも後ろにもいかず付いてくる。
一昔前の女房のようだ。
ピタリと後ろを歩いて付いてくる。
悪いことではないが、俺はむしろ先に進んでいてもらいたい。
合わせられるのは、歩くのも生きていく上でも苦手だ。
俺の能力では彼女たちに合わせることはできないと、言われていなくとも頭のどこかで考えてしまうから。
否応(いやおう)なく、事実だけが突き詰められる。
単純なスペックが違い過ぎると、自覚してしまう瞬間だから―――。
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