二.

「いやいや、ごめんごめん。高校の時と雰囲気が変わってたからつい、ね」

 借りたシャワーで濡れた長い髪をバスタオルで頭を拭きながら、村上季子は傍に控えていた槙原和泉に、あんた誰、と言ってしまったことを謝る。

「別に、いいけど」

 そう答えつつも、槙原は仏頂面をしていた。

 いや、でも、槙原ってば昔から、こういう顔だし、必ずしも不機嫌ってわけじゃないのかもしれない。そんなことを思うものの、季子としても確証があるわけではなかった。そもそも、会ったのすら久々なのだから、確証があるだとかないだとか言っていられる段階でもないんだろうが。それに、

「けど、槙原だってひどいよね。あたしのこと思い出せなかったなんて」

 槙原にしたところで、先程、部屋に入ってから話すまで、季子のことを思い出せていなかったあたり、お互い様だろう。いや、それとこれとは別の話か。ぐちゃぐちゃと混線しだす頭の中を解きほぐすのも面倒になりながら、季子は通されたばかりの居間を見回す。

 畳敷きの室内で目立つものは、丸い卓袱台とベッド、簡易式物干し竿に干されたシャツと下着。そして、少しばかり大きめな本棚とそこにぎっしり詰まった本。有体に言ってしまって地味な部屋ではあったが、高校の時のことを思い出し、槙原らしいな、なんてことを思う。

「なんで笑ってるの」

 槙原に尋ねられる。自覚はなかったものの、どうやら頬が弛んでいたらしい。

「そうかな。いつも、こんな顔なつもりだけど」

 いや、あたしはあたしの顔が見えないから知ったこっちゃないけど。なんて思ったあと、更に追求されるかもしれない、構えたものの、

「そう」

 当の槙原は季子の表情にたいした興味はないらしい。そのまま季子の横を通り抜けて、居間から出て行こうとする。季子はまるでカルガモの子供になったような気分になりながら、後ろにくっついていった。居間から出る間際、電灯に当てられた白いうなじが目に入る。相変わらずここは綺麗なんだな、なんて思った。

「なんで、着いてくるの」

 居間を出てすぐ右にある鏡台の電気をつけてから、槙原が怪訝そうに振り向く。季子は、なんとなく、と答えようとしてから、また、そう、なんて素っ気ない答えが返ってきそうだと考え直した。

「槙原は今も本が好きなんだね」

 そう問いかけると、やはり渋い顔をされる。また、気分を害してしまったのかもしれない、なんて思ったところで、槙原は踵を返して再度、歩きはじめる。居間から左折したその先には台所があった。槙原が台所の上、横に寝ている電灯をつける。

「好き、なのかな」

 自分でもよくわからない。そんな声音を耳にしながら、季子は槙原のうなじのあたりを眺める。

「好きじゃなきゃ、なんで読んでるの」

 素朴な問いかけ。すぐに、またもや、失言だったんじゃないかと不安になる。しかし、槙原は特段気にした様子も見せず、水を入れた薬缶をお湯をかけた。

「なんでだろうね」

 それどころか、自分でも不思議だ、とでも言うような感じすらある。ともすれば、なんでだろうね、の後ろに、あなたにはわかるの、なんて言葉が付いてきそうな感すらあった。いや、もしかしたら季子が汲みとれないだけで、既に疑問系で尋ねているのかもしれない。

 いや、あたしに聞かれても困るよ。そんな風に笑ってごまかそうとも思ったけど、聞かれている、という確信が持てなかったのもあって、

「なにそれ」

 なんていう中途半端かつ無難な返事をするにとどまった。槙原はそれ以上、なにも言わずに、コーヒー豆の入ったボトルを薬缶のすぐ近くに置いたあと、台所脇にある冷蔵庫へととことこ歩いていく。その間、一度も季子の方を見ない。

 相変わらず、やりにくいな。高校の頃も無口気味だった槙原を思い出し、溜め息を吐きかけてから、押しとどめる。そうしながら、白熱灯に照らされたうなじに目がいった。

 ただ一つだけ、ここの色だけは明らかになったわけね。なんて述懐しつつ、うなじとその上に申し訳程度にある髪を眺めた。

 季子が、あんた誰、なんて言ってしまった理由。槙原のうなじの上を覆うようにしてたっぷりと伸びていたはずの黒く長い髪はすっかり失われ、その短くなった髪からは既に高校時代の残滓が失われていた。そのことを、季子はとても残念に思う。

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