あまやどり

ムラサキハルカ

 一.

 窓の方から聞こえてくる雨音と風音を耳にしながら、槙原和泉は畳の上で膝を抱えていた。普段であれば本棚に押しこめてある本をゆっくりと捲るくらいはするのだが、こと今日にかぎってはそんな気力も湧かず、ぼんやりと畳の端っこにできた割れを眺めていた。

 数日前のニュースで知った台風は順調に膨れあがり、今日この時、和泉の下宿に覆いかぶさるようにして降りかかっている。

 大学進学のため、家賃三万少しの下宿に越してきて既に二年と少し。元から比較的風が強い地域出身なのと、お国柄、夏の台風はそれほど珍しくないこともあって、さして恐怖はない。とはいえ、家に閉じこめられるのには変わりはなく、二階建ての木造建築なのもあり、震度の大きい地震とまでは言わないものの、まあまあ揺れる。怖くはないが、非日常ではあった。そして、女学生、というよりも大人になりかけの元少女の感性が、嵐の前のわくわくにも似た高揚感と、外は大変なんだろうな、なんていう想像力に欠けた他人事じみた感想を抱かせる。そんな大変な外の世界に耳を澄ませながら、読書に耽るのが最高だということを和泉は知っていたものの、なんとはなしに今日はそういった気分にはなれなかった。なぜかはわからない。代わりに膝を抱えて一人を噛みしめている。

 あまり友人がいなかった小中高と異なり、今の和泉はこれまでの生涯で一番友人に恵まれていると言えたし、下宿生の常としてやや疎遠になったものの両親との仲も悪くない。しかし、そんな所感とは別にして、今現在一人で部屋にいるという状況の孤独さは、この部屋に閉じこめられるという事態に陥ることによって、より切実さを増していた。

 心細さ。そんなに単純化していいのか、疑問ではあったものの、まあつまるところそれに似た感情を抱いている。それでいて、きっとこんな日のこんな時間、訪れる人はいないだろう、なんていう安堵もあった。そういった諸々の感情が混ざりあったものを噛みしめている。おそらく、好き好んで。好き好んでいなければ、電気も生きているのだから、やっぱり本を読んでごまかしてしまえばいいし、ごまかせないのであれば寝てしまえばいい。だからきっと、和泉は一人で膝を抱えているこの状況をそれなりに愛してもいた。白い半袖のシャツと藍色のハーフパンツに身を包み、電気代がもったいないな、と仕送りをしてくれる親に悪いと思いつつ、冷房をつけ続ける。

 視線をあげる。白熱灯のちらちらしている光。どこかしらから風が侵入してきているのか揺れる電灯の傘。そのゆらゆらの前で何度か瞬きをしながら、時間だけが過ぎていくのを感じる。このままでいたいようなそうでないような。ぼんやりとしながら、ただただ機械的に瞬きを繰り返す。震える窓を覆うカーテンの裏には濃い影が立ちこめているような気がしつつも、和泉は、お化けとかが寄ってきたら嫌だな、なんて子供じみた感想を抱く。

 来るわけない。来るんだったら下宿してからすぐにも来られたんだし。そんなことを思っている間も、傘の上に目がある昔懐かしいシルエットを頭に浮かべる。その次に電話越しに話しかけてくる西洋人形みたいな女の子、黒い頭巾をかぶった冷ややかな顔立ちの美中年、などといったように想像をコロコロ変えながら、いつの間にか心の中が騒がしくなっていくのがわかる。良くも悪くも、もう、一人という感じは消えていた。

 こうなると台風に耳を澄ませるのにも飽きて、やはり本を取りに行こうと立ちあがる。

 チャイムが鳴った。

 風かなにかで押されたのかな。そう思ってすぐ、もう一度鳴る。どうやら、誰かいるらしい。

 でも、こんな日に誰が。訝しく思いつつも、せめて確認だけでもしておこうとそろりと玄関まで歩いていき、魚眼レンズを覗きこむ。

 穴の中には黒いひらひらとした服を着た女が立っている。年頃は和泉と同じくらいに見えた。玄関前に設けられたランプに照らされた肌はよく日に焼けていて、後ろにくくられた長い髪や明るそうな顔立ちもあいまって、和泉はこの女に陽気な印象を持った。

 知りあい、だろうか。覚えがあるようなないような。玄関で応対するかどうか悩む。とはいえ、扉の前にいるとおぼしき女の後ろで相も変わらずビュービュー風が吹いていて、一向におさまる気配はない。これで部屋に入れないというのは、あまりにも人の心がない気がした。とはいえ、相手は知っているのか知らないのかも曖昧な女であるのだ。どうしたものか。

「ごめんくださーい。槙原さーん、いないんですか」

 手をメガホン状にして大声を出す女。風の音に掻き消されるとはいえ、さすがに近所迷惑ではないか。そう思ったあと、女の声に引っ掛かりを覚える。顔立ちや格好から抱いた活発な印象はむしろ補強されているあたり、違和感というわけではなさそうだった。つまるところ、記憶の端っこに引っかかるものがあるということだろうか。知り合いなのかもしれない、とあらためて思う。

「おっかしいな。二宮さんに、ここだって聞いてたのに」

 高校の時、所属していた文芸部の知り合いの名前が女の口から発せられる。少なくとも、面識はありそうだった。そう思ってから、和泉は話してみることを決める。

「どなた、ですか」

 どことなく声がこもってしまった。それを耳にして、女が、良かったぁ、と力の抜けたような言い方をする。

「いるじゃん、槙原。だったらすぐに出てほしかったな」

「不審者かもしれないし」

 言わなくてもいいことだったかもしれない。口にしてしまってから思うが、もう遅い。女は不満げに唇を尖らせた。

「ひっどいな。それなりに仲が良かった相手にその仕打ちはどうなの」

 女の言う通りであれば、和泉はとんだ薄情者だった。実際、薄情かもしれなかったが、仲が良かった相手と言われても、ぱっとは思いつかない。クラスメートとは小中高通してあまり話さなかったし、ぎりぎり当時の友だちと呼べる人間をかき集めても片手の指に届くか届かないかといったところだろう。その大半は中高時代に所属していた文芸部の知り合いであり、少なくともこの女は和泉と同じ文芸部に所属していたわけではないことくらいはわかった。

 二宮が高校の文芸部時代の同輩だったところから察するに、この女もまた高校の時の知り合いなのだという推測はできる。しかし、仲が良い、という言葉と紐付くほどの強い印象を持っていたはずの女の顔は、うろ覚えなものだった。

 まあ、いいや。

「とりあえず、入って」

 途中で和泉は考えることを放棄し、チェーンを外して錠を回す。

 あらわれた女は腰の両側にそれぞれの拳を当てながら、眉に皺を寄せた。

「遅いって。台風の中、ここまで来るの大変だったんだからね」

 別に、来て欲しいなんて頼んでないけど。そう和泉は思いつつも、少しだけこの状況をおかしく思いはじめてもいる。なにせ、今日は台風。気分はそれなりに高ぶっている。

 そんな矢先。女が、あれ、なんて目を瞬かせはじめた。いったい、なんなんだろう、と和泉が怪訝な面持ちで観察していたところで、

「あんた誰」

 その一言。それはこっちの台詞だった。

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