6-5

 泣いた。


 膝から崩れ落ちて、地に伏せて啼いた。

 天に吠えて哭いた。

 手の中でくしゃくしゃに握りしめられた手紙が、次から次へと溢れ出す涙に濡れていく。

 腹の底から、燃え盛るような激情が込み上げ、喉を震わせた。


「ふざけるな! ふざけるな! 何が愛していますだ! 何が長生きしてくださいだ! 私一人置いて! 好き勝手言いやがって! いつもそうだ! お前たちは! いつもいつもいつもいつもいつも!」


 晩夏の風。望郷の歌。飛竜の咆哮。朝焼けの輝き。

 焚火と宴。筋張った竜の肉。湿った土の匂い。


「こっちの気も知らないで! 自分勝手にやるだけやって! 後始末だけ押し付けて! お前たちなんて助けなければよかった! さっさと見捨てておけばよかった! 卑怯者! 卑怯者! 悪党! 外道! 悪魔! 化け物ども!」


 深更の王宮。インクの匂い。青黴の病。

 傭兵たちの宴。噎せ返るような酒精と汗。琥珀色の酒。


「誰が感謝なんてするか! 誰がお前たちの言うことなんて聞くか! 散々振り回しておいて! 散々こき使っておいて! 肝心なことは何も話さないくせに! なんで私がお前たちに!」


 薄暗い牢獄。虚ろな顔。木の枝で書かれた弱気な文字。

 氷雪の空。血煙の戦場。虹色の災厄。


「ふざけるな! ふざけるな! 何で私が! 何で私だけ! いつもそうやって! 私だけ置いてみんないなくなる! 何が強い女だ! 甘えるな! 私にばっかり押し付けて! いい加減にしろ! 私だって! 私だって!!」


 そして、薄紅色の花天井。

 柔らかな風。

 柔らかな光。

 

 確かに、この手の中にあったはずの時間。



「私だって、あなたたちを、守りたかったのに……!」



 次から次へと湧き上がり、明滅しては消えて行く記憶の泡。

 

『サク』

『サっ子』

『サっちゃん』


 好き勝手に私の名前を呼ぶ、子供のような無邪気な笑顔。


 消えて行く。

 消えて行く。


 待って。

 お願い。

 行かないで。

 私を、一人にしないで。



「どうして……」



 これ以上、私に孤独を押し付けないで。



「どうして、私を置いていってしまったのですか……」



 いつの間にか、私の手の中で、三葉の手紙はただの紙屑となっていた。

 文字も滲んでもう読めなくなってしまった。


「あああああああああああああああ。うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 声が出なくなるまで泣いた。

 涙が涸れるまで泣いた。

 そこから先はただ黙って泣いた。

 震えて泣いて。

 固まって泣いて。

 そして、気を失うまで泣き続けた。





 気づいた時には、私は再び孤児院のベッドの上で寝かされていた。

 恐らく、ホラスが私を運んだのだろう。

 一体どれほどの時間が経ったのかは分からないが、折角癒えたはずの喉は再び嗄れ果ててしまい、唾液を飲むことにも鋭い痛みを伴った。


 そんなことがどうでもよくなるほど、私は空っぽだった。

 胸の中に、大きな穴が開いていた。

 自分の中に、なにものも見いだせなかった。


「お姉ちゃん」


 そう声をかけられて、初めて部屋の中に数人の子供たちがいることに気づいた。

 私が再び目を覚ましたことに気づいた彼らが私の元に歩み寄り、それを呼び水に部屋の外からも子供たちが集まってくる。

 その中の一人が、熱い湯気の立つ湯飲みを持って私に差し出してきた。


「お姉ちゃん。これ飲んで」


 そう言ってボトル・ベビーから渡された薬湯は、これまでのものとは少し味が違っていた。

「あのね。お姉ちゃん。それ、私が煎じて淹れたの。今、お薬の勉強頑張ってて。お姉ちゃんが、早く元気になりますように、って。ちゃんと作ったから」


 不安げにそう言う少女に、言葉を発せない私は曖昧に微笑んで頭を撫で、湯飲みを返した。

 優しい味がした。


「私、薬屋さんになる。昔、パンジーが病気になっちゃったとき、私たちだけじゃなんにもできなかった。もうミノソに頼らなくても、病気になったみんなのことを治してあげられるようになりたいの」


 彼女の横には、別の少女が。

 頬に擦り傷。腕には青あざ。


「あたしは傭兵になるよ。これからは女の傭兵も必要になるって、お兄ちゃんが言ってた。お姉ちゃんとお兄ちゃんが私たちを守ってくれたみたいに、私も年下の子供たちを守りたいの」


 また、別の少年は。


「俺は学者になる。農学を勉強して、色んな国を渡り歩いて、知識を伝えるんだ。もうお腹が空いて死ぬ仲間は見たくない」

 

 そして――。


「私も傭兵になりたい」「俺も」「僕は肉屋がいい」「私は商人」「色んな場所に行ってみたい」「他の国の美味しいものも食べたいの」「俺は騎士になる」「俺は」「僕は」「私は」


 口々に夢を語る子供たち。


「私たち、頑張るよ。今まで、大人になってからのことなんて考えたこともなかった。でも、これからは、考えてもいいんだって。考えなきゃいけないんだって。そのために、ここで勉強するんだって」


 彼らの瞳は輝き、声には力があった。

 彼ら一人一人の中に、未来があった。

 開かれていた。

 私には眩しい、光り輝く未来の欠片。

 新しい時代。新しい世界。

 その希望。


「だから、お姉ちゃんも頑張って元気になって。私、私は、お姉ちゃんみたいなメイドさんになりたい」


 閉じ切った部屋で、伽藍洞の私の体に、彼らの起こす風が吹いた気がした。


 私は、彼らを守らなければならない。

 そう、決意させるには十分な程。

 胸の中には大きな空洞。

 きっと、一生塞がることのない空虚な洞。

 癒えることのない傷。

 それでも、まだ生きている。

 生かされている。

 痛みも。怒りも。虚しさも。

 全て抱えて、生きていけと。

 それが、あの悪党たちの残した最後のワガママだった。


 私は、傍にいた子供たちを両手で抱きしめ、その柔らかな髪に顔を埋めた。

 柔らかな土の匂いがした。


 もう涙は出てこなかった。





 そして数日後。

 私はホラスと一緒になって、外庭に何枚ものシーツを干していた。

 この孤児院には二十数名の孤児たちが寝泊まりをしている。

 洗濯物の量も多かった。


「サクラ君。僕は見事に負けたよ」

「はい?」


 すっかり農家の跡取り息子のような姿になったかつての騎士は、照れくさそうに頬をかいた。


「あの三人と、それからゴイル侯にさ」


 あの、異国の勇者による帝都襲撃事件の日。

 陽動作戦に誘い出されたホラスは全滅の危機にあった。

 そこで、ゴイル侯の用意した魔道花により、部隊の半分の人間を犠牲にして危機を脱し、町を守り抜いた。

 その時にはパンジーの齎した奇跡によって部隊のものたちは一命を取り留めたが、それでホラスの気が済むはずもなかった。


「僕はもう、彼らを率いることができなかった。彼らに向き合うことができなかった。騎士を続けることはできなかったよ」


 だから、彼はゴイル侯を監視することにしたのだという。

 本当ならば、その場で斬って捨ててしまいたかった。

 しかし、パンジーの奇跡は深手を負ったゴイル侯も同様に癒した。彼女が救った命を自分の手で奪うこともまた、ホラスには出来なかったのだ。


「分かるかい、サクラくん? 僕は所詮、何者にもなれなかった半端者だ。付け焼刃の剣。付け焼刃の騎士道。自分で纏ったハリボテに拘束されて、肝心な時に動けない。僕がずっと正義の道と信じて疑わなかった信念は、悪党たちに踏みつけにされてしまった」


 それから、予め用意していた隠れ家へと逃げたゴイル侯に付き従うような形で、ホラスは行方を眩ませた。かの老人がこれ以上悪行を為すことのないよう、死ぬまで監視するつもりだった。

 そんな中で、ある日、レンタロウ様とミソノ様から突然の訪問を受け、彼らの計画を知ったのだという。


「ゴイル侯は流石だったね。直ぐに了承していた。彼もまた、スリザールという国そのものも、貴族社会も、どうでもよかったんだろう。僕は戸惑ったし、反発したが、聞けば聞くほど彼らの話に理があることを認めないわけにはいかなかった」


 そして、この孤児院『瓶児の船ボトル・シップ』の設立に協力したそうだ。

 建物自体の用意と、必要な物資。具体的な教育課程。ある程度は自給自足をするための畑作り。


「こんな方法で世界を変えるとはね。僕が振るった剣の価値なんて、毛ほどの意味もない。無力なものさ」

「ホラス」


 大の男が自虐的になっているのも、なかなか見るに堪えない。

 私は何か適当な言葉を探しつつ、取りあえず彼の名を呼んでそれを止めた。

 

「なにかな?」


 さて。どうしたものか。

 ……ああ、そうだ。

 そうだった。


「ミソノ様があなたに最初に会ったとき、何と言ったか覚えていますか?」

「ふふ。懐かしいね」


『私、あんたのこと嫌いだわ』


 早朝に起こされて不機嫌であったのを差し引いても、あの時のミソノ様の顔は酷いものだった。


「私は後にも先にも、彼女の口からそんなセリフは聞いたことがありません」

「……んん? そ、そうなのかい?」


 まあ、意外と言えば意外だろう。

 だが、彼女は自分の敵と思った相手に対しては、決まって邪悪な笑みを浮かべて蔑むのだ。

 クソ侯爵。クソ大臣。クソ領主。クソ陛下。ああ、そういえば私も初対面ではクソメイドなどと呼ばれたな。


「ホラス。あなたのことは、一度たりともクソ騎士だなどと呼んだことはありませんでした」

「……」

「あなたの正義は、どこまでも真っ直ぐでした。そこに少しでも欺瞞や虚飾があれば、彼女は喜んでそれを貶めたでしょう」

「そう、だろうか……」

「負けただなんて、とんでもない。私が知る限り、ミソノ様の悪性が手も足も出なかったのは、あなただけです」

「そうか……」

「手が止まってますよ」


 一層気恥ずかしそうな顔をして仕事を再開した彼の手が、少しだけ精彩を取り戻したように見えた。

 全く、何をやっているのだ、私は。これでは丸っきり……。

 いや。


『私はサクラ・アメミヤ。得意なことは、人を使役つかうこと』


 そうだった。

 私は初めからそういう人間だった。

 人をその気にさせ、動かし、働かせる。

 それが、いつだって私の役割だった。


「HAHAHA! よし! それじゃあ午後の運動訓練は、久々に僕も参加しようかな! 有難くも僕に倣って騎士を目指すと言ってくれた子がいてね!」

「ええ。そうですね」


 そうだった。

 私にも、メイドを目指すと言ってくれた子がいたのだった。

 メイドかどうかはさておき、立ち居振る舞いとマナーのあれこれは、身につけておいて損はない。この学び舎で、私に出来ることも見つかりそうだった。



 生きていこう。

 世界は変わり始めている。

 きっと今まで以上に忙しくなるだろう。

 きっと今まで以上の困難も待ち受けていることだろう。

 それでも、生きていける。

 まだまだ先は長いのだ。

 負った傷も、ぽっかりと心に空いた空洞も、そのままに。


 私は生きていく。


 彼らが守ったものを、受け継ぎながら。




 第八部『たった一つのクズなやり方』 了

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