8-7

 帝都襲撃から二週間後。

 私は帝都から少し離れた場所にある、小さな湖畔を訪れていた。

 小高い丘の上からは、凍り付いて銀色に輝く湖面がよく見える。

 そこは、国王陛下――ユースタス・サラザ・スリザールの遺体が埋葬された場所であった。


 許されることではない。

 本来ならば王族の墓所にて永代に弔われるべきはずの遺体を、このような野辺に放り出すことなど、大罪以外のなにものでもない。

 だが、現状陛下の遺体はただの身元不明ジョン・ドゥだ。

 なにせ玉座には、いまだ変わらぬ姿で鎮座する男がいるのだから。


 丘を登り終えた私の目の前に、胸元まで届こうかという大きさの墓石が現れた。

 そして、そこに供えられた大量の花と酒瓶も。

 誰にも知られぬよう葬ったはずの墓に、誰が供え物を、などと考えるのも馬鹿らしい。


 あの日、陛下に扮したレンタロウ様は、その場にいた兵士たちに箝口令を敷いた。

 それを、誰も守らなかっただけの話なのだから。


 兵から兵へ。人から人へ。

 帝都の住人たちを守るために一人奔走した名もなき男の存在は、いつしか公然の秘密として知れ渡り、一人、また一人とこの丘へ墓参に訪れるようになっていた。

 そして、今日もまた――。


「サっちゃん?」


 墓石の裏側から声が聞こえた。

 ゆっくりと立ち上がる影。

 何の変哲もないローブを纏い、どこにでもいそうで、すれ違ったその瞬間に顔を忘れてしまいそうなほど、頼りない気配。そんな、まるで初めて出会ったときのような様子の、詐欺師の姿だった。


「レンタロウ様。また王宮を抜け出したのですか」

「ん~。ちょっと息抜き」

「護衛もなしにこんな場所まで……」

「大丈夫だって。ほら」


 見れば、丘の反対側からウシオ様とミソノ様が連れ立って歩いてくるのが見えた。

 ウシオ様の手には、何やら大きな木桶と釣り竿が握られている。

 なぜこんな凍り付いた湖で釣りなど……。


「あら」

「なんだ、サっ子も来てたのか」

「何をしてらっしゃるんですか……?」


 私の呆れ声を意に介する様子もなく(あるはずがないが)、いつの間にかレンタロウ様は焚火の準備を始め、ウシオ様が釣った魚に串を通し始めた。


「王様と前に話してたんだよ。穴釣りもしたことねえっつうから、今度連れてってやるって」

「聞いてみたらそもそもこっちに穴釣りの文化がないっていうからね。釣れるかどうか分からなかったけど。まあ、ニシンヘリングが獲れるんならいけるんじゃないか、って」

「あああ……」


 てきぱきと火を熾し、魚の身を焼き始める三悪党を私は止めなかったし、焼きあがった一匹を差し出そうとする手は固辞した。

 確かにこの湖にはそれなりの量のニシンが生息していることは知られている。

 だが、別に湖面が凍り付いていようがいまいが食用とされることはないのだ。

 なぜなら――。


「「「まっっっっず」」」


 そういうことなのである。

 ニシンに限らず、この湖で獲れる魚介類は、他の場所のそれらと比べて異常なほどに味が悪い。

 そして、帝都以南に位置する湖では、真冬であっても人が安全に渡れるほどの厚さの氷は張らないし、ここより北に他の湖はない。なるほど、ニホンでは知られた漁法なのだろうが、こちらの世界で穴釣りとやらが生まれることは今後もないだろう。


「ちょっとあんたねえ。知ってたなら教えなさいよ」

「獲ってしまったものは仕方がないでしょう。責任をもって処分してください」

「ねえ、これ毒とか入ってないの?」

「その心配はないようです。飢えを凌ぐために止む無く食べることはありますが、毒性は確認されてません」

「じゃあなんでこんなに不味いのよ」

「さあ。伝承でよければ説明はありますが……。あちらに木立があるでしょう」


 そう言って私は、湖の反対側の丘に立つ、葉を落とした黒い木々を指した。


「あの木は一年の内ほとんどは普通の落葉樹のように振舞いますが、春――花の月のわずか一週間ほどの間だけ、狂ったように薄紅色の花を咲かせるのです。この大陸でこの地以外に発見されていない、異端の種です。僅かに魔力を含んだその花弁が湖に沈み、そこに棲む魚に悪影響を及ぼしているのではないか、と……」


 そこで私は、三悪党たちが揃って目を丸くしているのに気付いた。


「……なにか?」

「……いいえ、別に」


 薄っすらと微笑を浮かべたミソノ様が静かに首を振る。

 嘘を吐け。何か心辺りがあるだろう。

 まあ、あの狂い花の謎など今は知りたくもないが。

 

「そういえば、ミソノ様。先ほど報告が上がっておりまして、セイカ・タナカはやはり死亡しているようです」

「ふうん」


 それは、ゴドリックの町で捕虜としたグリフィンドル兵から得た情報であった。

 俄かには信じがたいことであったが――。


「なんでも、乱心し味方の兵を襲い始めたセイカ・タナカをイサム・サトウが止め、激しい戦闘の末に殺害したと……」

「あっそ」


 顔を顰めながらニシンに齧り付くミソノ様の表情からは、何の考えも読めない。

 他の二人も、それは同様であった。


「あー。まあ、気持ちは分かるぜ。俺も最初の頃は何回かソノ子のこと殺しそうになったしな」

「はあ!?!?」

「いや。ソノちゃんだってシオ君に何回か毒盛ってたでしょ。僕が気づいて抜いてなかったら普通に死んでたよ、あれ」

「あれはあんたの仕業か!!」



 ちなみに、イサム・サトウの遺体はグリフィンドルの駐屯地まで送り届けられている。

 将兵や大臣たちの間では、やれ八つ裂きにしろだの晒し首にしろだのと騒ぎ立てられたが――。

『こいつの死体を蹴っていいのは、俺に正面から殴り掛かる勇気がある奴だけだぜ』

 ウシオ様の一言の前に、全て消沈していった。

 他ならぬウシオ様の手でその遺体は敵国の兵士たちへと引き渡され(他の誰が敵の遺体を敵地に送り届け生きて帰って来れるというのか)、私たちにはただ、ミソノ様の宣言通りに三分の一が更地と化した帝都だけが残された。


 得た戦果は、敵兵・死亡一名。

 こちらの戦死者は三十七名。重傷者は数えきれない。治癒も間に合わず、再起不能となった兵士も数名いた。

 だが、これは紛れもなく、大きな、とてつもなく大きな勝利なのだ。

 ただ、それを為した三人の悪党たちに、浮かれる様子がないというだけで。


「ミソノ様。セイカ・タナカとは、なにか確執が……?」

「……別にないわよ。向こうはそうは思ってないかもしれないけど、少なくとも私の方にはね」

「そうなのですか?」

「……中学の頃、私に嫌がらせしてた女子グループのボス猿がいたんだけどね。そいつの腰巾着だったのよ、あいつ」

「それは……」

「そのボス猿は卒業前には学校来れなくしてやったからね。向こうは勝手にビビってたけど、そりゃ向こうにだって立場くらいあるでしょ。私だって立ち位置が逆だったら同じようにしてたわ。絶対逆にはならないけど。高校入ってからのは、……まあ、巻き込んだのは確かだけど、別にあいつが狙いじゃなかったし」

「そうですか」


 きっと。

 口で言うほど、確執がないことはないのだろう。

 彼女の死に、思うことがないわけではないのだろう。

 だが、これは出会った最初の頃からそうだったのだが、この三人は普段の悪辣ぶりからは意外なほど、死人に対しては寛容なのだ。

 たとえ敵対した相手であろうと、死んだ人間に対して悪意をもって貶めるところは見たことがない。

 ただし、それは当然死人であればの話だ。


「それより、サク。あのクソジジィの行方は?」

「依然、不明です」


 酸鼻を極めたかに思えたゴドリックの町の被害は、実のところ、本来あるべき形よりもかなり軽微だった。

 奇跡が降ったのだ。

 戦闘による死傷者と、オドラデグによる被害者。敵味方を問わず無数の犠牲者を生んだはずの戦場に。

 その奇跡は、名をパンジーと言った。


 もはや息をしている人間の数の方が少なくなった戦場に、ある時薄緑色の光の雨が降った。

 それは瀕死の重体であった兵士にも、オドラデグに取りつかれ枯れ果てようとしていた兵士にも、スリザール兵にも、グリフィンドル兵にも平等に降り注ぎ、その傷を尽く癒した。 

 それは、伝承に聞く始まりの聖女そのものの光景だったそうだ。

 それを為したのが、いまだ手足も伸び切らない浮浪児ボトル・ベビーの少女であったことなど、一体その場にいたものたち以外の誰が信じられるというだろう。


 ただ、その一回きりで全ての魔力を使い果たしたらしいパンジーは深い昏睡状態となり、数日前に目を覚ました時には、もう癒術の力は失っていたのだという。

 そして、数の差を頼みにグリフィンドル兵の生き残りを捕虜としたスリザール兵たちが帝都へ帰還したときには、確かにその場にいたはずのゴイル侯爵の姿は、影も形もなくなっていたのだという。

 そして、もう一人――。


「で、ホラ男はどうしたのかも分からないの?」

「ええ……。腹心の部下たちですら、彼の行方を知らないらしく……」

「かっかっか。まあ、あいつに限って死ぬことはねえさ。どっかで生きてんだろ」

「そうだと、いいのですが……」


 彼が自分の部隊を放り出して逐電することなど考えられない。

 なにかゴイル侯がしでかしたかとも思ったが、彼はあの老人に対しては最大級の警戒を敷いていたはず。いくら戦場でとはいえ、そうそう罠に嵌められることもない、と、思いたいが……。

 あの場で何が起きていたのか、正確に把握できていたものが一人もいない以上、憶測だけを重ねても仕方がなかった。


(ホラス……)


 せめて、一言。出立前の彼に言葉を贈っていれば……。

 いれば、どうなったというのだろう。

 そんな益体もないことを考えてしまえば、胸の奥の痛みが強さを増してくる。

 私は、なんだかんだと魚を食い尽くした三悪党と共に墓前へ黙祷を捧げ、帰路についた。



 そして、帰路の途中。


「ねえ、サっちゃん」


 先程まで、いつになく口数が少なかったレンタロウ様が、感情を失くした能面のような素顔で声をかけてきた。

  

「ソノちゃんがさ、前に言ってたでしょ。サっちゃんがいつまでも解雇されなかったのは、王様が唯一自分で識別できる相手だからだ、って」

「ええ」

「王様はさ。ずっと、サっちゃんのことを守りたかったんじゃないかな」

「……」


 冷たい風に乗せて、空虚な言葉が紡がれた。


「けど、分からなかったんだ。人を守るっていうのが、どういうことなのか。人を愛するっていうのが、どういうことなのか。誰も教えてくれなかったからさ。知らなかったんだよ。悪党ぼくたちと同じで」


 前を歩くウシオ様とミソノ様に、この会話が聞こえているだろうか。

 分からない。

 こんな言葉に、今更なんの意味があるのかも。



「ごめん」



 その言葉に、一体どんな想いが込められているのかも。


「敵を倒すことも、敵を貶めることも、敵を騙すこともできる。場合によってはそれで人助けもできる。けど、大事な人を守るってことが、僕たちにはできないみたいだ。誰もそんな方法こと、教えてくれなかったから」

「ならば――」


 これから共に学んでいきましょう。

 そんな風に答えを返すのが、ひょっとしたら正しい道なのかもしれない。

 それこそ、あの異界の勇者ならば、彼を扶けたシスターならば、そう答えるのだろう。

 けど、それは私の答えではない。


「そういうことは、そういうことが得意な人に任せましょう」

「……え?」


 私は前を向いたまま、冷たい声で紡がれる自らの言葉を、どこか他人事のような気持ちで聞いた。


「もうじきに、雪融けが始まります。遠からず侵攻は再開されるでしょう。役割分担ですよ。メイドに兵士の仕事は務まりません。官僚に炊事はできません。ならば、悪党には悪党の役割を果たしてもらわなければ」

「……うん。そうだね」


 邪悪な聖女にも。

 戦闘狂の勇者にも。

 偽物の王にも、役目がある。

 

 迷って、もがいて、最後まで己の役目を果たそうとした、のように。



 銀色の太陽が、南天を過ぎていた。

 一時期よりも高く昇るようになったその陽光は、いずれこの湖の氷も溶かし始めるだろう。

 そう。ここからが戦争の本番なのだ。

 今回の襲撃で崩された師団の再編。町の復興。敵襲への備え。やらねばならないことはいくらでもある。

 生き残るために。

 仲間を守るために。

 繋いでもらった命を、次へ繋ぐために。


 しまい込んだ首飾りが、僅かに熱を持った気がした。




 第七部『汝は王様なりや?』 了 

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