8-3
「…………え??」
振り下ろされた刃が、大地に破壊の傷痕を刻んだ。
なぜ当たらなかったのかが不思議なほどに至近距離でそれを躱していたウシオ様の拳が振り抜かれ、奴の顎を捉えていた。
眼が虚ろになり、体が揺れる。前に倒れる。
その直前で意識を回復させた奴が、脚を前に踏み出し転倒を堪える。
そのまま向きを変えた刃を横に振り抜く。
空振り。
瓦礫が吹き飛ぶ。
ウシオ様の拳が弧を描き、今度は逆方向に首が捻れる。
「がぁあああ!!!」
雄叫びと共に刃が振るわれるが、またしてもウシオ様の皮一枚を撫でるように空振りし、いつの間にか振り抜かれた拳によって首が捩じられ、奴の体がぐらつく。
一瞬で回復。
今度は奴の剣を待たずに一撃。
右へ。
左へ。
ぐらん、ぐらんと、頭蓋が揺らされていく。
その鼻孔から、赤い血の筋が流れ始めた。
通じている。
効いている。
イサム・サトウの攻撃は全て空振りし、ウシオ様の拳だけが正確無比に奴の顎を捉えている。
その度に奴は意識を飛ばされ、一瞬でそれを回復させては再び攻撃を空振りさせていく。
どうなっている?
ウシオ様の拳は、爆薬よりも強力だというのか?
「んなわけあるか」
私の呟きを鼻で笑ったミソノ様が、顔を顰めてその光景を見やる。
「あのクソ野郎の障壁とかいう魔法は確かに強力よ。けど、あいつの体を覆っているものが圧力を一切通さないガッチガチに固められた壁だってんなら、あいつ自身だって一歩も動けないはず。つまり障壁とは、あいつの体の動きに合わせて流動する一種の力場だと考えられる。なら、あいつ自身に動いてもらえばいい」
「は? それは、どういう……?」
「だから。あいつの関節の可動範囲内だったら外からの圧力でもあいつの体は動かせるのよ。けど、当然それを意識されて守られたら通用するはずがない。だから必要なのはタイミングと速度。あいつの攻撃に合わせて、あいつの意識の外から、正確な速度で首の関節を曲げる。あいつの顎には掠り傷一つ付かないけど、頭の中はシェイカー状態よ。それを無理やりあんな速度で回復させて、悪影響がないわけない」
まさか。
そんなことで?
いや、そんなことじゃない。一体どれほどの精密性があればそんな芸当ができるというのだ。ましてや、あの、触れれば即死の虹の刃を掻い潜って。
「けどね。こんな屁理屈、シオには必要ないわ」
「……はい?」
「わざわざ言うまでもないのよ。いい? あの脳筋男があんな体になるまで積み上げて磨き上げた『格闘技』っていうのはね。龍と戦うためのものでも、魔法を相手取るためのものでもない」
「おああああ!!!!」
雄叫びが撒き散らされる。
虹色の光が明滅する。
暴虐の嵐の中で、その筋骨隆々の大男は、悠々と舞っていた。
「人間を撲殺するための技術よ」
ウシオ様の拳が、今度は奴の脇腹にめりこんでいる。
それは、殴るという動作にも見えない、拳の先で押し込むような柔な動き。
当然、そんな緩慢な動作では障壁も効果を発揮していない。
そして、奴の動きが止まることもない。
奴の腕から虹色の刃が消え、代わりに無数の鎗が宙へと現れた。
雨の如くに降り注ぐその虹色の鎗を、躱す。躱す。躱す。
次々とウシオ様の皮膚が切り裂かれ血の飛沫が舞い散るが、そのどれ一つとして体の芯を捉えてはいない。
その間にもウシオ様の拳が何度となく奴の脇腹を捉える。
どう見ても無駄な攻撃。
だが――。
「ごぇぼっ」
鎗の雨が止んだ瞬間、イサム・サトウが吐血した。
「なっ」
「浸透勁ね」
「こ、今度は一体なんです?」
「物理的にはただの力積のコントロールよ。なんで人間の体でそんなことができるのか意味分かんないけど、あれは体の奥に衝撃を届けてる。思った通り、勇者とやらの能力でも内臓までは強化できてないみたいね。それより、ほら。もっと面白いもん見れるわよ」
イサム・サトウが自身の体を押さえ、虹色の魔力を全身に巡らせる。
対するウシオ様は、先ほどまでの軽快な足捌きとはうって変わって、両足を大きく開き、腰を深く落とした。
その両腕が虚空で円を描き、静かに構えを成す。
どごっ。
次の瞬間。
イサム・サトウの姿が消え去ったかと思いきや、ウシオ様の足元に組み伏せられていた。
「…………え」
それは、先にこちらの肉の盾を一瞬で破壊した超速移動。
まるで目に捉えることのできない速度。気づいた時には全てが終わっている。
ただ先ほどと違うところは、その結果だった。
頭から地面に突っ込む形になったイサム・サトウが、再び虹の光を爆発させて消え去る。
ウシオ様は動かない。
ただその場に留まり、速度で翻弄しようとする敵の動きを捌き、地面に激突させている。
「あれは太極拳」
ミソノ様の声に、いつしか力が戻り始めていた。
ウシオ様の体が地面すれすれを移動し、踵を振り上げて顎を狙う。
「あれは躰道」
同じように体が沈み込み、不可思議なリズムを刻んで蹴りを放つ。
「カポエイラ」
イサム・サトウの衣服が掴まれた瞬間、奴の体が上下逆さになる。
「柔術」
そして――。
「今のはムエタイ」
「相撲の技ね」
「テコンドー」
「ボクシング」
「八極拳」
「蟷螂拳」
「サンボ」
「シラット」
「合気」
「それから――」
姿を変え、形を変え、速度を変え、次から次へと繰り出させる無数の格闘術。
私はこの期に及んで、まだ理解していなかったのだ。
ウシオ様の強さの理由。それは鍛え上げた肉体に宿る筋力だけではない。
それを操るコントロール技術。
膨大な経験値。
その全てが、今、ただ一人の人間を倒すためだけに注ぎ込まれていた。
ただ、それでも。
「いい、加減に、しろ!!!」
怒声と共に、地面が爆発した。
虹色の大槌が大地を揺らしたのだ。
全方位に撒き散らされた爆風は、例えどんな技を使おうと避ける術などない。
いつしか全身を血塗れにしていたウシオ様が膝をつく。
イサム・サトウの攻撃は一度も直撃していない。それでも、掠っただけで肉を抉り、骨を軋ませ、徐々に、だが確実にウシオ様の体力を削っていた。
いや、元々傷だらけだったのだ。そして更に、ゴドリックの街から帝都まで、ひたすら龍樹にしがみついて来たのだとしたら、一体どれほどの疲労がその身に溜まっていることか。
ウシオ様の息が上がり、膝に手をついている。
それは、私が初めて見る光景だった。
足りない。
あと一歩。
奴を確実に追い詰めるための、何かが。
「…………ぅ」
私の服の裾が、弱々しく引っ張られた。
血を失い、土気色の顔に虚無の表情を宿した男が、私を見上げていた。
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