2-2

 脳の障害による認識機能の欠如。


 一応どっかで時間作って直接確認するわ、と言ったその言葉の通り、ミソノ様は今日、陛下にいくつかの診断テストを行い、改めてその症状を確信したらしい。

 ただ、その結果を聞くまでもなく、あれほど共に放蕩の限りを尽くした女たちの顔すら覚えていないという現実を前に、私も認めざるを得なかった。確かにこれは、記憶力などというレベルの話ではない。


 しかし、そこで私は気づいた。

「ミソノ様。陛下は、はっきりと認識しているようなのですが……」


 そうだ。陛下は王宮において、私のことははっきりと他のメイドと区別し、なるべくぞんざいに扱おうとしていた。先ほども私が陛下に声をかける前に、「メイド長」と呼んでいたではないか。

 しかし――。


「多分、のせいでしょ」

 そう言ってミソノ様が自らの頭を指し示したことで、その疑問も解けてしまった。

「ああ。そうですね……」

 黒髪ダーク・ヘア。王宮に、私以外でこの髪色をした人間はいない。


 相貌失認症とは、常人の感覚ではかなり理解が難しいらしい。

 記憶力がないわけではなく、その人その人の顔のパーツは認識できる。ただそれを、一つの顔として統合し、他と区別することができないのだ。故に、その症状を持つ人間は、通常人の髪や服装、声など、顔以外の場所を覚えることで他人を区別して生活しているのだという。

 つまりこの場合、陛下は私の髪色を見て、私をメイド長わたしと認識しているのだろう。


 ん? いや、ということは、つまり――。


「まあ、それだけってことはないみたいだけどね。ねえサク。今朝私がここに来た時、あの男なんて言ったと思う?」

「はい?」


『遅いぞメイド長! 一体何をしてい、た……ん? ん?? いや、違うな。貴様何者だ』


「……それは、ひょっとして背丈の問題では――」

「私の髪と三回くらい見直してましたけど?」

「…………」

「ねえ。これってどういうことかしら。服とか身長とか他にもあるでしょ。胸のサイズで判別するってどういうことなのかしら。そこが一番の違いだとでもいうつもりかしら。おかしいわよね。ねえ。ねえ、サク。そう思わない? ねえねえねえ」

「……ええっと、胸パット、手配しましょうか?」

「もぐぞ」


 ノータイムで私の胸部に掴みかかったミソノ様の腕を逆に掴み取り、そういえばこのやり取りも久しぶりだな、などと現実逃避をする私に、ぎりぎりといつになく力を込めながらミソノ様が言葉を繋げた。


「ぐ。ぐ。……まあ、これで、別の疑問も、解けたけど、ね……」

「はい?」

「あんたが、いつまでも、馘に、されない、理由よ……」

「……そうですね」


 日頃から口煩く陛下の素行や生活を咎め諌める私を、当然邪険にしつつもなんだかんだと側に置き続けることに、理由がないはずがない。


 恐らく陛下にとって、私は王宮内で唯一他人と区別することができる人間なのだ。

 私一人を傍に置いておけば、目の前の人間が誰かは私に聞けばよい。逆にそうでもしない限り、陛下はこの世界で他人と関わることができない。

 ただ、幸か不幸か、彼の国王陛下という立場が、その状況を許してしまっている。自分の前に跪き、阿諛追従を垂れる人間たちが誰が誰だか分からなかろうと、それを許されてしまうのだ。それは一体、どんな感覚なのだろう。

 

「一応言っておくけど、相貌失認それに関係なく、あんたの王様、バカよ」

「一応言っておきますが、外では絶対に口にしないでくださいね?」

「うっさいわね。一般には認知されてないけど、確率的に1パーセントくらいの人間は先天的に相貌失認を患ってるのよ。程度の大小はあるけどね。けど、大概の人間はその他の認知機能でそれを補って問題なく生活してる」


 つまり、その障害があったとしても、をどうするかは本人の問題ということか。

 いや。それこそ、彼はに進むことを環境によって阻まれていたのだ。

 王宮に蔓延る佞臣姦臣たちにとって、彼が聡明な王であることはなんとしても避けなければならなかった。

 我儘を言えばそれを許し。

 暗愚であればそれを讃え。

 ただ放埓に生きることを良しとする。


 その結果が、今の陛下の有様なのだ。


「ちょっとサク。なんかまた面倒くさいこと考えてるでしょ」

「いえ……。ああ、そうですね。考えています」

「あんたがもし、今までのこの国であの王様を真人間にしようとしてたら、その時点であんたが殺されてたでしょ。あんたは王様をコントロールしやすくするために利用されてた。あんたは自分が王宮で生きるためにそれを受け入れてた。違う?」

「違いません」

「分かってると思うけど一応はっきりさせとくわよ。私たちはあんたの王様よりあんたを優先する。『猟奇のはて』を見たくないなら、あんたが何とかしなさい」


 分かっている。

 この国の王の名は、ユースタス・サラザ・スリザール。

 決してレンタロウ・クスノキではない。

 この戦争に勝つまでの間、国の防衛に専念するため、やむを得ず陛下には隠れてもらっている。それが終わったとき、彼が王として正しく機能できなければ、この国に先はないのだ。

 それはきっと、陛下に唯一個人として認識されている、この私にしかできないことなのだろう。



「おい、メイド長! 甘味を用意せよ! それと喉が渇いた。ブラッド・オレンジはいい加減入荷できたんだろうな!? あと金貨を持ってこい。ミモザにネックレスを贖ってやらねばならん!」


 ………………。

 まずは、ここ数日私の監視がなかったせいで弛み切った陛下の体を元に戻し、陛下を良いようにおだてて金子きんすを得ようとしている娼婦を追放するところから始めなければ。


「ミソノ様」

「なに?」

異世界そちらの知識で胃薬を作ってほしいのですが」

「知らない」

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