第7話 満開の桜
すえは混乱した。この三日間、どうやって断れば角が立たないか家族総出で悩んでいたというのに、まさか本人直々に取り消しに来るとは考えてもみなかった。こんなことで振り回されていた自分が情けなく、腹立たしくなった。
「それは良かったです。元々お断りするつもりでおりましたので、手間が省けました。」
すえはできるだけ冷静を装おうとしたが、湧き上がる怒りで語尾が震えた。
「では、失礼します。」
そう言って再び立ち上がろうとしたすえを、またも龍三は制した。
「待ってください。まだ話は終わっていません。」
そう言うと、今度はコップの水を一気に流し込んで、その勢いのまま言った。
「結婚を前提に僕とお付き合いしてください。」
「え?え?えええっ!何その展開!」
目を丸くしているしのぶを楽しそうに見つめながら、すえはくすくすと笑った。
「龍三さんたらおかしいでしょう?私も今のしのぶちゃんと同じ顔をしてたと思うわ。」
「だって、そんないきなり、だって、ばあばの気持ちも確かめてないのに、結婚を前提にって、全くありえないよ。滅茶苦茶じゃん。」
「でも、龍三さんの中ではちゃんと辻褄が合ってたみたいよ。」
「私には全然理解できないんだけど。それで、その後どうなったの?」
しのぶは前のめりになって訊いた。
すえは中腰のまま暫くあ然としていたが、ストンと腰を下ろすととりあえず目の前のコーヒーをすすった。頭の中では混乱と高速思考を交互に繰り返していた。
当時のすえにとって、恋愛は映画や小説の中のものだった。すえが知っている限りでは、それらは甘酸っぱい途中経過があって、徐々にお互いの気持ちを確かめ合うもののはずだった。こんな展開は見たことがない。
すえは龍三の様子をそっと窺った。目の前の十も年上の、社会的にも認められた地位にいる男性は、叱られた犬のようにうなだれてすえの言葉を待っていた。
的外れでも、この人はこの人なりに一生懸命考えて今日を迎えたのだとすえは思った。ならば自分も誠意を持って対峙しなければならないと。
「先生、聞いてください。」
龍三が恐る恐る顔を上げた。
「私は恋愛事情に詳しくはありませんが、男性が女性に告白するには段取りというものがあると思います。このように突然押し付けられても女性は困るだけです。」
龍三は小さく「すみません。」と言うと、背中を丸めた。
「そもそもこういう話は、男女が好意を抱きあっているという前提があって、初めて成立するものではないでしょうか。その点、私たちの間にはそのようなものは全くありませんでした。」
「それはそうですが。」
龍三は何か言葉を継ごうとしたようだったが、適当な言葉が見つからなかったのかすぐに諦めた。
「確かに、私と先生の間には高校の時からのご縁がありました。覚えていらっしゃいますか?」
龍三はすぐさま反応した。
「もちろんです。佐々木さんは百人一首の質問に来てくれていました。」
覚えていたんだわとすえは思った。そこはちょっと嬉しかった。
「だとしても、先生と生徒、客と店員というだけの関係ですよね?それをいきなり結婚を前提と言われて承知できるものでしょうか。」
「仰る通りです。」
龍三はますます小さくなった。
「ただ、先生の誠実さは伝わってきました。そこは評価できます。」
「恐れ入ります。」
大の大人が、こんな小娘に言われ放題言われているのに反論もしないとは。でも、決して悪い人ではないとすえは改めて思った。
「結論を申し上げますと、私はまだ結婚は考えられません。ですので、このお申し出はお断りさせていただきます。」
「わかりました。色々とすみませんでした。」
龍三は長いため息を漏らすと、再び深々と頭を下げながら言った。恐らくこうなることは承知していたのだろう。それでも勇気を振り絞って実行に移したに違いなかった。
すえは鞄を手にして立ち上がると最後にこう付け加えた。
「先生、すっかり遅くなってお腹が空きました。夕飯をご馳走してください。」
いつの間にか、日の光は淡いオレンジ色に変わって、桜の花びらを染めていた。
「少し冷えてきたね。」
しのぶは窓を閉めると、龍三がいつも使っていた膝掛けで、すえの脚全体を包んだ。すえはその感触を確かめるように静かにさすった。
「しのぶれど、色に、なんだっけ?」
しのぶは日記を手に取って裏表紙を開いた。
「色に出にけり わが恋は ものや思ふと ひとの問ふまで、よ。」
しのぶは感心した目をすえに向けた。すえは、日差しのせいもあってか、しのぶがここへ来た時よりもずっと血色が良く穏やかに見えた。そして、ふたりの間に置かれた日記のうたからは、これを書いた当時の龍三の思いが溢れてくるようだった。
「これ、いつ書いたんだろうねえ。」
「さあねえ。今となっては確かめようがないわねえ。」
「私の名前はこのうたから取ったのかなあ。」
「いいえ、それは違うと思うわ。」
すえはきっぱりと言い切った。
「しのぶちゃんは初めての女の子の孫だったから、龍三さんはそりゃあもう喜んでね。そうしたら、あなたのお母さんが名付けを頼んできてくれたもんだから張り切っちゃって。生まれるまで一ヶ月くらいずっと、ああでもない、こうでもないって、机に向かってうんうん唸ってたわ。そう、あなたが今座ってるその椅子に座ってね。」
しのぶは、改めて年季の入った革張りの肘掛け椅子を見た。
「しのぶという字はね、人を思うと書くのよ。元々は思慮深くて賢いって意味らしいわ。でも、漢字だと何だか女の子らしくないからってひらがなにしたのよ。」
「そうなんだ。名前負けも甚だしいね。」
「あら、そんなことないわよ。龍三さんはいつもしのぶちゃんのこと褒めてたわ。あの子は才気煥発で臨機応変で名前の通り賢い子に育ってるって。」
「すごい過大評価。」
「勉強は好きじゃないみたいだけど、それ以上の人間力があるって。」
「じじバカもいいとこね。」
「それに。」
「それに?」
「若い頃のばあばにそっくりだって!」
ふたりは顔を見合わせて笑った。笑い過ぎて、しのぶの目には涙が滲んだ。
「私、もっとじいじと話をすれば良かった。」
「今からだってできるわよ。きっとそばにいるわ。」
しのぶはゆっくりと部屋を見渡した。確かにこの部屋には、龍三の気配があちこちに残っている。今しのぶが座っている椅子からも、龍三のぬくもりが感じられる気がする。
「この部屋が無くなったら寂しいな。」
「それなら大丈夫よ。健ちゃんには二階を使ってもらうことにしたから。」
「ほんと?じゃあ、またここで話ができるね。」
「いつでも来てちょうだい。きっと龍三さんも喜ぶわ。」
「ねえ、ばあば、今夜は泊まっていってもいい?」
「もちろんよ。しのぶちゃんの恋バナも聞かせて。」
ふたりの笑い声に合わせて、満開の桜の枝も楽しそうに揺れていた。
じいじの恋 いとうみこと @Ito-Mikoto
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