第6話 見合い話

 それ以降も、月に一度くらいのペースで龍三はやってきて、何かしら買って帰った。どういう加減かちょうどすえの手が空く頃に来るので、自然とすえが応対することが多かったが、その割に会話は弾まず、かと言って気まずい雰囲気でもなく、至って普通の客と店員の関係が続いた。その時になっても尚、すえは生徒だったとは名乗っておらず、龍三がすえをすえとわかっていたのかどうかは謎のままだった。


 一年程経った頃、龍三が初めて母親と連れ立って来た。緩いウェーブの白髪混じりの髪を後ろできゅっと団子にして、質素だが清潔感のある恐らくは手製のワンピースを着ていたその人は、真っ直ぐにすえのところに来ると、よく通る声ではきはきと言った。

「息子のスーツを新調したいのですけど。」

 

 すえは内心、先生とは随分と雰囲気の違うお母様だわと思ったが、もちろんそんなことはおくびにも出さず、ふたりを奥のスーツ売り場へ案内した。

 主任に引き合わせた後も、借りてきた猫のように大人しい龍三が可笑しくて、すえは時々奥を覗いた。すると、息子の行く末を案ずる母親の話が聞こえてきた。

「この子ももう三十ですからね、お見合いをしてでも身を固めてもらいたいと思ってるんですけどね。」

 どうやら今日は、見合い用のスーツを買いに来たらしかった。確かにあの先生では、自分でお嫁さんを探すのは難しいのだろうなと、その時はまるで他人事のようにすえは思った。


「じいじが他の人とお見合いするって聞いても何にも感じなかったの?」

 新しく入れ直した熱いお茶をすすりながらしのぶが訊いた。

「そうね、その時は何とも思わなかったわね。むしろ、先生頑張れって気持ちだったかもしれないわ。」

「なあんだ。てっきりお見合いって聞いて、急に嫉妬心がメラメラと湧いてきたのかと思ったのに。」

 しのぶはすえの言葉に嘘がないか上目遣いで探ってみたが、その表情には何の曇りもなかった。

「そんなこと言ったって、龍三さんを先生としてしか見てなかったんですもの、仕方ないわよ。」


 帰りしな、龍三の母親は再びすえを目指して真っ直ぐ近づいて来た。何事かと身構えるすえに向かってにっこり微笑むと、

「あなたが選んでくださったセーターを主人がとても気に入って、それこそ毎日のように着てるんですよ。どうもありがとう。では、またね。」

そう言って軽やかに立ち去り、その後を、ぺこりと頭を下げて龍三が追いかけた。まさかこの人が義理の母親になるとは、その時のすえには想像もできなかった。


 それから暫くして、すえの休みの日にデパートの支配人の奥さんが訪ねて来た。田舎には不似合いな黒いハイヤーがすえの実家の前に停まったので、子どもたちがわらわらと集まり、畑に出ている近所の人たちも皆立ち上がってこちらを窺っていた。

 野良着のまま挨拶する両親に向かって、着物姿の上品な奥さんが、突然訪問したことの非礼を詫びた上で言った。

「私の古いお友だちが、是非ともお宅のすえさんを嫁に迎えたいと申しておりまして、一度息子さんと会って頂けないかとお願いに参りました。」


 すえはもちろん、両親も、たまたま仕事が休みで家にいた姉も、みんな口をぽかんと開けたままで、この唐突な申し出をよく理解できずにいた。

 不自然な沈黙の後、やっと父が口を開いた。

「すえ、ですか?すえの縁談ですか?」

「はい。」

 支配人の奥さんは優美に頷いた。

 家族は顔を見合わせた。三つ上の独身の姉は、私じゃないの?と言う顔をした。そして今度は母が訊いた。

「どこで娘を見初めたんでしょうか。」

「デパートでのすえさんの働きぶりを見て、しっかりしたお嬢さんだと思ったそうですよ。うちの主人も、すえさんは見所があると常々申しておりましたから、それを伝えたら友人がとても喜びましてね、それなら益々嫁に迎えたいとせっつかれたんですよ。」

 娘を褒められて悪い気がしなかったのか、両親の顔が幾分か緩み、見合いを断るという選択肢が無くなったように見えた。

「お相手はどこのどなたですか。」

「山本さんと仰ってね、私の女学校時代の友人の息子さんですの。高校の教師をしていらっしゃいますわ。」

 そう言うと、風呂敷に包んだ写真と釣り書きを取り出して座卓に置いた。代表して父が写真を手に取ると、家族が見守る中でそっと開いた。


「それがじいじだったのね!」

 すえは満面の笑みを返した。

「驚いた?」

「そりゃもう、腰を抜かすほど驚いたわよ。」

「嬉しかった?」

 すえは間髪入れずに答えた。

「いいえ、ちっとも。」

「えーっ!なんで?」

「だって、その時まだ十九だったのよ。今のしのぶちゃんと変わらないんだもの、結婚なんて考えられないでしょ。それに。」

「それに?」

 いかにも可笑しそうにすえは言った。

「龍三さんは頼りなかったからね。」


 支配人の奥さんが帰った後、見合い写真を真ん中にして家族が集まった。姉はまだ少しふくれているようで、意見をする気満々に見えた。

「すえ、どうするんだ。見合いをするのか?」

 最初に父が口を開いた。

「嫌よ。まだ結婚する気なんて無いもの。」

「そうよ、すえちゃんには早いわよ。私だってまだお見合いしたことないのに。」

「お姉ちゃんは黙ってなさい。」

 母にたしなめられて、姉はますます口を尖らせた。

「だが、支配人の奥さんの口利きとなると、無下に断るわけにもいかんだろう。」

 父の正論に皆がうーんと唸った。結局、その場では結論が出なかった。


 その三日後の土曜日の夜、仕事を終えたすえが通用口から出ると、そこに龍三が立っていた。すえは気づかなかったことにして立ち去ろうとしたが、それより早く龍三が声を掛けてきた。

「佐々木さん、少しいいですか。」

 すえは観念して立ち止まった。通用口から出てくる同僚が皆こちらの様子を伺っているのがわかった。

「構いませんが、場所を変えましょう。」

 そう言って、すえはすたすたと先に立って歩き出した。


 ふたりは駅前にある喫茶店に入ってコーヒーを注文した。薄暗い店内は、奥にカップルが一組いるだけで空いていた。

 自分から誘っておきながら、コーヒーが来ても龍三はうつむいて一点を見つめたまま黙っていた。すえは自分から話しかけるのもはばかられ、同じようにじっと黙っていたが、次第に苛立ってきた。

「バスの時間がありますから、お話が無ければ失礼します。」

 待ちくたびれて立ち上がろうとした時、意を決したように龍三が口を開いた。

「すみません、手短に済ませますので待ってください。」

 そう言うと、目の前のコーヒーを熱さに顔をゆがめながらごくごく飲み干し、手の甲で口元を拭った。すえは仕方なく座り直した。


「まずは、母が勝手に見合いの申し込みをしたそうで、大変申し訳ありませんでした。」

 龍三は膝に手を置き、テーブルに着くほど深々と頭を下げた。そしてそのまま言葉を繋いだ。

「見合いの話は私の本意ではありません。この話はなかったことにしてください。」


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