第5話 恋のうた

「確かに、ばあばは何でも凝るよねえ。パン作りにはまった時は毎週食べに来なきゃならなかったし、トールペイントの時も玄関やらリビングやら溢れ返ってたもんね。」

「その代わり、すぐに飽きるけどね。」

 そう言うと、ふたりは顔を見合わせて笑った。


「わからないことがあるとね、龍三さんに聞きに行ったの。まだインターネットなんてない時代だから、すぐには調べられないことがたくさんあったのよ。龍三さんは、本当に物知りだったわ。」


 龍三は、好きな文学を子どもたちに伝えたいと教師を目指したが、家が貧しかったので、働きながら苦労して学校を出た。やっと夢が叶ったのは二十五歳の時だった。

 ところが、現実は厳しかった。得意の古典ではなく現代国語に回されてしまったせいで自信が持てず、生徒は生徒で大してやる気もなく、教師になったことさえ後悔し始めていた。


「そんな時に、あの百人一首の授業が巡ってきたんですって。」

 それは龍三にとって大きな転機となった。

「龍三さんね、自分の授業を熱心に聞いてくれる生徒たちの顔を見ていて、環境を悪者にして、現実逃避してた自分に気付いたんですって。」

「どういうこと?」

「新任だからとか、専門外の現代国語だからとか、言い訳ばかりで努力を怠ったってことね。」

「なるほどねえ。」


 それからというもの、龍三は熱心に研究を重ねて知識を増やすと共に、授業の進め方を工夫するようになった。

「確かにね、龍三さんの授業は目に見えて面白くなったのよ。寝てる生徒が随分減ったから間違いないわ。」

 そう言うと、すえは楽しそうに笑った。

「この日記にはね、希望に満ちて先生になったことや、うまくいかなくて苦しんだこと、そこから試行錯誤して這い上がろうとしたことなんかがみんな詰まってるから、時々読み返して初心に返ってたらしいわ。」

「何だかじいじらしいね。」

「本当に。龍三さんらしいわね。」

 そう言うと、すえは窓の外の桜に目をやった。


「ところで、ばあばはいつ日記に登場するの?」

「ああ、ちょっと待って。」

 そう言うと、すえは日記をアルバムの上に広げた。

「えっとね、そうそう、ここよ。」

 その指差す先に、辛うじて「すえ」の文字が読めた。

 しのぶは日記帳を持ち上げると、顔に近づけたり離したり斜めにしたりしてみたが、すぐに諦めて元の場所に戻した。

「ダメだ、ぜんっぜんわかんない。何が書いてあるの?」

 今度はすえが日記帳を持ち上げて、顔から随分離れたところで静止させた。

「佐々木すえなる生徒、授業中によく寝ていた者であるが、先の授業で百人一首に興味を持ったらしく、度々質問に来る。面倒ではあるが、嬉しくもある。」

「ばあば、寝てたんだ。」

「しのぶちゃんと同じよ。」

 ふたりはまた顔を見合わせて笑った。

「嬉しくもあるって、じいじもまんざらじゃなかったってことなのかな。」

「さあねえ。そこまでは教えてくれなかったけれど、多分、それまで質問に来る生徒なんていなかったからじゃないかしらね。」

「続きは何て?」

 しのぶが身を乗り出した。しかし、すえの返事は意外なものだった。

「これでおしまい。この後はもうばあばは登場しないんですって。学校行事とか、お仕事の話ばっかりよ。」

「嘘でしょう?」

 しのぶの顔に落胆の色が広がった。

「毎度のことだけど、ばあばの百人一首熱もじきに冷めて、滅多に質問にも行かなくなったしね。もちろん、龍三さんの授業は真面目に聞いてたわよ。」

「じゃあ、あの恋のうたは何なの?」

「恋のうた?なあにそれ?」

「あれ、ばあば知らないの?」

 しのぶは、日記の裏表紙を開いてみせた。

「ほら、これ。」

「まあ。兼盛ね。ちっとも気づかなかったわ。龍三さんたら、教えてくれたらいいのに。」

 悔しそうに言うと、何かを読み取るかのように文字を指で追った。

 「てっきり恋心を綴った日記帳だとばかり思ってたのに違ったんだね。」

 しのぶは、龍三の恋心が覗けないのを残念に思ったが、どこかほっとしてもいた。

「じゃあ、どうやってふたりは結婚したの?」

 しのぶの問いに、すえは諦めたように文字から指を離すと顔を上げた。

「それは卒業してからの話よ。」


 高校卒業後、すえはデパートの紳士服売り場で売り子をしていた。

 ある日、そこへ龍三が客としてやって来た。年配の女性店員が応対している横を通り抜ける際に、すえは軽く会釈をした。龍三も軽く会釈をした、ように見えた。教師という職業は多くの生徒を相手にしているので、龍三が自分を覚えているかどうかは定かでなかったが、その時のすえには大した問題ではなかった。


 一ヶ月か二ヶ月の後、龍三がまた売り場に現れた。ひとりで通路に面した棚の前をうろうろしては、時折サマーセーターを手に取って見ていた。

 こういう時、店員は進んで声を掛けなければならない決まりだった。すえはあまり気乗りがしなかったが、他の店員は接客中だったので、仕方なく龍三に近づいた。


「何かお探しですか?」

「ああ、ち、父の誕生日に何かないかと思って。」

 龍三は手に持っていたセーターを慌てて戻すと、距離を取りながら小さい声で言った。その様子は新任の頃の頼りなげな龍三そのままで、すえは少し可笑しく思えた。折角なので、やっと様になってきた接客姿を龍三に披露することにした。


「こちらですと、少しお若い方向けになりますので、お父様くらいの年代でしたらこちらの棚の商品はいかがでしょう。大変評判がよろしいんですよ。色もデザインも何種類かございますので、お好みで選んでいただけますが。」

 締めにとびっきりの営業スマイルを添えると、龍三は固まったまま暫くすえを見つめていたが、やがておずおずと手を伸ばすと、深緑色のセーターを指差した。

「じゃあ、これにします。」

「かしこまりました。こちらへどうぞ。」

 すえは昔の感謝も込めて特別丁寧に包装すると、デパートの手提げ袋に入れて龍三に渡した。

「お買上げありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。」

 そう言うと、最後まで不審者のように落ち着きのない龍三に深々とお辞儀をして見送った。


「それから、時々売り場に来るようになったのよ。」

「ばあば目当てに?」

「まさか。そこが駅前でいちばん大きなデパートだったからよ。他にも何人も知り合いが来てたもの。」

 すえは否定をしたが、その顔はまんざらでもなさそうだった。

「で、いつデートの約束したの?」

「残念でした。龍三さんの買い物のお手伝いをしただけよ。」

「えーっ。いったいいつになったら恋バナになるのよー。」

 しのぶは幼女のように足をばたつかせてみせた。

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