第4話 出会い

 すえはいそいそと台所へ行き、今朝作ったばかりだというぼた餅と熱いお茶を運んで来た。その間にしのぶはロッキングチェアを少しずらして窓の方に向け、祖父の大きな肘掛け椅子を動かして並べると、間に小さいテーブルを置いて花見の用意をした。

 

「ここは特等席ね。」

 すえは満足そうにお茶をすすると、目を細めて桜を見た。本当にこの窓からの眺めは素晴らしかった。

「龍三さんとよくここでお茶を飲んだわ。春も夏も秋も、ついこの間までずっと一緒に。」

 そう言うと、祖母は遠くの何かを探すように暫く黙った。その横顔は、この二ヵ月でひと回りもふた回りも小さくなったように見えた。


 雀が一斉に羽ばたいたのをきっかけに、すえはしのぶに向き直った。

「さあ、しのぶちゃん、日記の話をしましょうか。」


 龍三は規則正しい生活と適度な運動で、大病をすることもなく九十歳を迎えたのだが、亡くなる三週間前に風邪をこじらせて入院した。

「その時にね、この日記のことを頼まれたのよ。」

 すえはテーブルの端に置かれた日記帳に視線を送りながら言った。

「それまで日記のことは知らなかったの?」

 しのぶが口を挟むと、すえはふふふと意味有りげに笑った。

「ずうっと昔から知ってたわ。でもね、さっきも言ったけど、ばあばにも読めなかったのよ。」

「読もうとしたんだ。」

「カノンちゃんに叱られるわね。」

 ふたりは顔を見合わせて笑った。


「そんなに他人に読ませたくなかった日記の中身をどうやって聞き出したの?」

 ふたつ目のぼた餅を口に運びながら、しのぶはすえに尋ねた。すえのぼた餅は近所のどの店のよりも美味しくて、いつもつい食べすぎてしまう。

「よくじいじが話したわね。」

「話してくれないと、他の本と一緒に大学に寄付しますよって言ったのよ。」

 しのぶは危うく喉を詰まらせるところだった。

「病人を脅したの?」

「だって、この機会を逃したら、もう聞けないだろうって思ったのよ。」

 すえは悪びれた様子もなく言った。

 確かに、一時は持ち直したものの、祖父はその後肺炎になり日に日に衰弱していった。しのぶが見舞いに行った時には既に意識が混濁していて、会話すら出来なかった。頬はこけ、目は虚ろで焦点が合っておらず、入れ歯を取った口元はしぼんでいた。

 しのぶはそんな祖父の様子を直視することができなかった。あの威厳に満ちた、尊大にも思えた祖父とはまるで別人だった。そして、その三日後に祖父は亡くなった。


 すえはふたりの湯呑みに代わる代わるお茶を足すと、両手で湯呑みを包んで手を温めた。

「本当はね、じいじも話したかったんじゃないかって思うのよ。実は自分の気持ちを知っていて欲しかったんじゃないかなって。」

 確かにそれはあるとしのぶは思った。それが大切な人になら尚更だ。だから目につくところに日記があったのかもしれない。

「それに、じいじとばあばの思い出でもあるしね。共有したかったのよ、きっと。」

「ばあばのことが書いてあったの?」

「昭和二十八年はね、ふたりが出会った年なのよ。」

 そうして、すえは六十年以上前の恋物語を始めた。


 すえの実家は代々続く農家で決して裕福とは言えなかったが、その貧しさ故に進学を諦めた父親の強い後押しがあって、二人いる兄は大学を出て、姉とすえは高校まで進んだ。


「あの当時はね、女の子は中学を出たらすぐ働く人の方が多かったのよ。」

「そうなの?今じゃ高校に行かない人なんて滅多にいないのに。」

「貧乏人のくせに見栄を張ってとか、近所や親戚からも色々言われたそうよ。両親は色んな意味で苦労したと思うわ。私が高校を卒業する頃には、田んぼも畑も殆ど残ってなかった。どうせ跡を継がせる気はないからって両親は言ってたけどね。」

 すえは窓の外の桜に目をやると、冷めかけたお茶をひとくちすすった。

「両親の期待に応えようと、兄さんも姉さんもとても勉強熱心で優秀だったわ。」

「ばあばも勉強好きだった?」

「全然。」

「えーっ。」

「でも、両親の期待を裏切ることはできなくてね、受験勉強だけは頑張ったのよ。」


 そこまで話すと、すえは残ったお茶を一気に流し込んで湯呑みを置いた。

「お陰で、何とか無事に志望校に合格したの。その学校で私のクラスの副担任になったのが龍三さんよ。」

「えっ!じいじとばあばって、先生と生徒だったの?」

「あら、お父さんから聞いてないの?まあそうね、男親はそういう話はしないのかもねえ。」

 しのぶはすえの話に俄然興味が湧いてきた。


「若い頃のじいじってどんな感じだった?」

「そうねえ。大人しくてちょっと頼りない感じで。声が小さくてね、よく担任に注意されてたわ。」

 そう言うと、すえは当時を思い出したのか、ころころと笑った。

「私の知ってるじいじとは随分違うなあ。」

「そりゃそうよ。立場が人を作るからね。あ、そうそう!」

 すえは急に思い立ったように立ち上がると、本棚の隅から古びたアルバムを引っ張り出した。テーブルの茶器を退けてしのぶが見やすいように置くと、中程のページを開いた。

「これがその当時の龍三さん。」


 指差した白黒写真には、先生だろうか、学校の玄関らしきところに様々な年齢の男女が十人程写っている中で、その端にいかにも文学青年らしい丸メガネ、髪は真ん中できっちり分けて、ひょろっと背の高いベスト姿の青年がいた。

「これがじいじ?」

「そうよ。素敵でしょ?」

 しのぶはどう見ても自分のタイプではないと思ったが、それはぐっと飲み込んで「背が高かったんだね。」とだけ言った。


 すえは最初、龍三には全く関心がなかった。声が小さくて聞き取り辛く内容も面白くなかったので、授業中は寝るか内職するかのどちらかだった。

 二学期の期末試験が近づいたある日、古文の教師が盲腸で入院してしまい急遽龍三がテスト範囲の授業をすることになった。その頃習っていたのが百人一首で、すえの苦手な分野だった。

 嫌々講義を聞き始めたのだが、その日の龍三はいつもと違った。目を輝かせて語る解説はとても面白くて、普段は半分くらいの生徒が寝ているのに、その日は多くの生徒が聞き入っていた。もちろんすえも身を乗り出していたひとりだ。


「後で聞いたんだけど、龍三さんは古文の教師を希望したのに、人数の関係で現代国語になったらしいのよね。それで自信が持てなかったみたい。」

 龍三の古文はほんの数回で終わったのだが、それを機に、すえはすっかり百人一首に魅了されてしまった。生来凝り性のすえは、それからというもの図書館に通い詰め、百人一首の本を読み漁った。

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