第3話 謝罪

 駅から離れるにつれ、ひとり降りふたり降りして、平日の午後のバスはしのぶの貸し切りになっていた。電車とバスを乗り継いで来たのはいつ以来だろう。しのぶは遠くの稜線を眺めながら記憶を辿った。小学生の夏休みが最後だったかもしれない。中学生だった兄の康秀に連れられて、ふたりで泊まりに来たことがあった。

 あの時は確か、夏休みの自由研究のためにじいじとふたりで山に入ったはずだ。じいじはありとあらゆる植物の名前を瞬時に答えてくれた。そして、標本を作る手伝いもしてくれた。その年の自由研究は、市の特別賞を受賞して、じいじがとても喜んだのを覚えている。


 バイトが休みの木曜日、しのぶはあの日記を抱えて祖父母の家を訪ねようとしていた。今日は社交ダンスの日だから留守のはずだ。祖母のすえは八十歳という年を全く感じさせない行動力で、ダンスにカラオケに英会話と、毎日のように出歩いていた。朗らかでお茶目なすえがしのぶは大好きだ。本当ならゆっくりと話がしたいところだが、今回に限ってはバツが悪かった。置き鍵の場所を知っているので、日記をそっと返して黙って帰るつもりだった。


 バスを降りて、畑の残る道を十分程歩くと祖父母の家に着いた。置き鍵を取って鍵穴に差し込むと、意外にも鍵が掛かっていなかった。しのぶの心臓がドクンと脈を打つ。すえがいるのだ。ほんの少しも想定していなかったので頭の中が急にぐるぐると回り出した。

 このまま帰ろうか、しのぶは思った。しかし、耳を澄ましても家の中からはまるで音がしない。人の気配すら感じられなかった。すえが鍵を掛け忘れて出かけた可能性もある。


「まさか倒れているんじゃ。」

 しのぶの脳裏に、白くなった祖父の顔が浮かんだ。不意に「じいじが連れて行かなきゃいいけど。」という火葬場での伯母の言葉が甦った。

 しのぶの脈が段々と速くなる。最早帰るという選択肢はなかった。すえの無事を確かめねば一生後悔すると思えた。


 玄関を入ってすぐの居間を覗き、隣の寝室を覗き、反対側の台所、風呂場、トイレと順に覗いてもすえはいなかった。最後に廊下の突き当りの書斎の襖をそっと開くと、顔を窓の外に向けて、すえがロッキングチェアに座っているのが見えた。じっと動かず、息をしているのかすらわからない。しのぶは硬く締まった喉から声を絞り出した。


「ばあば。」


 ほんの数秒が数分にも感じられた後、すえはゆっくりとこちらを向いた。


「ばあば!」


 自分でもよくわからない感情に突き動かされてすえの元に駆け寄ると、まるで祖父の葬式の時に泣けなかった自分を取り戻すかのようにしのぶは泣きじゃくった。すえは少し驚いた様子だったが、黙ってしのぶの頭を静かに撫でた。


 ひとしきり涙を流すと、しのぶは急に恥ずかしさがこみ上げてきた。取りすがったすえの膝から少しずつ後退りをして、入り口近くに正座をした。すえの顔を見ることもできないでいた。


「落ち着いた?」

 すえはどこまでも穏やかな調子で尋ねた。

「うん。」

 ポケットからハンカチを取り出して顔を拭くと、マスカラがハンカチに幾本かの筋を残した。化粧ポーチを持ってくるのを忘れたことにその時気づいた。

 それと同時に、自分がここにいることの言い訳を何も考えていないことも思い出した。黒ずんだハンカチを見つめながら、次の言葉を探しているつもりが、いつの間にかティシュで拭けば良かったと後悔している自分がいた。


「桜が綺麗よ。」

 すえの言葉に顔を上げると、今開けた窓から、ふわりと風が舞い込んで、手を伸ばせば届きそうな桜の枝が軽やかに揺れているのが見えた。


 しのぶは立膝のまま進むと、窓枠にしがみついて立ち上がり身を乗り出した。鎮守の森を縁取るように植えられた数十本の桜の木が、今しがた満開になりましたとばかりに咲き誇っていた。


「きれい。」

「いちばんいい日に来たわね。」

 すえの声はいつもの明るい調子に戻っていた。

 しのぶはくるりと振り向いたその勢いのまま、飛び上がるようにして深く頭を下げた。


「ごめんなさい!」


 傾き始めた太陽がふたりの横顔を穏やかに照らす中、しのぶは事の顛末を正直に話した。すえは困った顔もせず、終始にこやかに話を聞いていた。


「しのぶちゃんは、いいお友だちがいるのね。」

「うん。私が悪いことをするとちゃんと叱ってくれるの。勝手なことして本当にごめんなさい。」

「いいのよ。こうして正直に話してくれたんだから。」


 そう言うと、すえはとっておきの笑顔を見せた。しのぶもとっておきの笑顔を返した。これがふたりの仲直りの決まりだった。

 しのぶはやっと胸のつかえが取れて思い切り伸びをした。それから、この数日間疑問に思っていたことを口にした。

「ねえ、ばあば、本当は私が日記を持ち出したことわかってたんでしょう?」

 すえはそれには答えず、膝の上の日記帳を大切そうに胸に抱いて言った。

「この日記はね、龍三さんが棺に入れて一緒に焼いてくれって言ってたのよ。でも、約束を破っちゃったわ。」

 そう言うと、すえはいたずらっぽい笑顔を浮かべたが、しのぶには少し寂しそうに見えた。


「ねえ、しのぶちゃん。日記の中身を知りたくない?」

「え、それは知りたいけど。」

 しのぶの脳裏でカノンが首を横に振った。

「他人の日記を読むのはだめだって、カノンが。」

 今度は心底楽しそうにすえが笑った。

「大丈夫よ、しのぶちゃん。読むんじゃないの。」

「どういうこと?」

「ばあばにもこの日記は読めないのよ。だって龍三さんたら、他の人に読まれるのが嫌なもんだから、どんどん字を崩していったんだもの。だったら書かなきゃいいのにねえ。」

 すえは愛おしげにロッキングチェアの手すりをさすった。まるで見えない龍三の手がそこにあるかのように。


「それじゃあ何が書いてあるかわからないでしょ?」

 しのぶは今ひとつすえの言っていることが理解できずにいた。するとすえが誇らしげに言った。

「大丈夫よ、聞き取りしたから。」

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