第2話 じいじの日記

「で、持って帰ってきちゃったんだ?」

 その夜、しのぶは親友のカノンの部屋にいた。しのぶは何かあるとこうしてカノンを頼ってやって来た。ふたりは中学の入学式で出会って以来の仲だ。


 しのぶは中学から私立の女子校に進んだ。高校も短大も、余程ひどい点数を取らなければ進学できるという話を聞いて、苦しむなら早い方がいいと自らの意志で選んだ。受験勉強は想像以上に大変だったが、合格した後は予定通り赤点を取らない程度にテストをくぐり抜け、それ以外の時間を趣味や遊びに費やして学生生活を思う存分謳歌した。そしてその殆どがカノンと一緒だった。

 そもそも最初に声を掛けたのはしのぶの方だ。入学式で配られたクラス名簿を見た瞬間に友だちになろうと決めた。カノンの名前は自分よりずっと目立っていて、しのぶが勝手に親近感を覚えたからだ。

 しかし、予想に反してカノンは自分の名前にコンプレックスを持っていなかった。それどころか「書くのが簡単でラクだよ。」と言い放ったのだ。このひと言で、しのぶはカノンの信者になった。カノンに相談すれば、大概の悩みは取るに足らない小さなことになってくれた。


 カノンはしのぶが持参した貢物のお菓子を念入りに品定めすると、その中から定番のチップスを選んで豪快に袋を破った。次々と口に運びながらベッドに座ると、少し面倒臭そうに言った。

「バレないうちにさっさと返してきたら?」

「もちろん返すんだけど、中身が気になっちゃって。」

「何の本なの?」

「日記みたい。」

 カノンの手が止まった。

「日記?誰の?」

「多分、死んじゃったじいじの。」


 しのぶは卓上のお菓子を少しよけると、祖父の書斎から持ち出したそれを置いた。黒に近い紺のザラリとした表紙やその厚さからして、カノンにも日記帳というより本に見えた。

 暫くふたりは黙ってその本のようなものを見つめていた。沈黙に耐え兼ねたようにカノンが口を開いた。


「で、何が気になるの?」

「えっとね、私には読めないんだけど、私の名前が書いてあったの。」

「は?」

「ずっと昔の日記のはずなのに、私の名前があったのよ。」

「あなたは何を言っているんですか?」

 カノンはしのぶの支離滅裂な話に苛立ちを隠さなかった。

「とにかく見てみて。」

 しのぶのいつになく真剣な様子に押されて、カノンは渋々とチップスを脇に置いた。そしてウェットティッシュで指先の汚れを丁寧に拭うと、その古びた日記帳をそっと開いた。


「何これ?すごっ…。」

 そう言うなり、カノンは猛烈な勢いで文字を追い始めた。

 開かれたページは、流れるような筆致の柔らかな文字で覆い尽くされていた。しのぶには全く読めないが、カノンは小さい頃からずっと書道を続けているので、解読には適任と思われた。


「どう?読める?」

「んー、全部は無理だけど、大まかなことはわかるよ。にしても達筆だねえ。うちの先生より上手いんじゃないかな。」

 祖父が美しい文字を書く人だというのは聞いていたが、実際目にすることはなかった。まさかこんな形で見ることになろうとは思いもしなかった。

「何が書いてあるの?」

「えっとねえ、高校の先生になれた記念に日記を書くことにしたってとこから始まってるよ。昭和二十八年だって。」

「昭和?平成の前だっけ?」

「そう。おじいちゃんは何年生まれ?」

「知らない。でも、死んだ時は九十歳。」

 そろばんも得意なカノンは座卓の上で指を弾きながら暗算している。

「昭和二十年が終戦の年だから、えーと、二十五歳くらいなのかな。」

「六十五年も前の日記ってこと?」

「そうなるね。」


 今の自分とそう変わらない年頃の祖父が書いた、そう思うとしのぶは急に目の前の日記が貴重なものに思えてきた。

 ふたりはお菓子に囲まれた日記帳を、少しの間黙って見つめた。あちこちにシミが出て、全体に薄茶色に変色しているページが、長い年月を物語っていた。


「で、どこにしのぶの名前があるって?」

「いちばん最後のとこ。」

 そう言うと、しのぶは日記帳をひっくり返して裏表紙を開いた。

「ほら、ここ、最初に『しのぶ』って読めない?」

 カノンは身を乗り出して文字をたどるとあっさりと答えを出した。

「これ百人一首だよ。」

「百人一首?」

「そう、百人一首。中三の冬休みの宿題で覚えさせられたでしょ。」

「追試二回受けた。でも、覚えてるかもしれないから読んでみて。」


 カノンは呆れた顔をしのぶに向けていたが、思い直したように軽く咳払いをして、かるたの読手のような調子で朗々と読み上げた。


「しのぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思ふと ひとの問ふまで」


 カノンはしのぶの次の言葉を待った。待ったが、しのぶは上を向いたまま動かない。しびれを切らしたカノンが言葉を促した。

「思い出した?」

「うーん。確かにこういう書き出しの短歌があって、その時も一瞬盛り上がった気がする。」

「さすが追試ニ回。」

「面目ない。で、どういう意味だっけ?」

 しのぶはカノンに対してはいつも頼りっきりだ。カノンはひとつため息をつくと仕方なさそうに答えた。

「これはね、隠してても恋してるのがバレバレだって意味よ。」

 しのぶの目がこれ以上なく丸くなった。

「恋?魚の鯉じゃなくて、恋の恋?」

「恋の恋って。まあ、その恋だけどね。」

「えー!あのじいじが恋の歌?信じらんない!」

 しのぶは、静かに本を読んでいる祖父を思い浮かべた。もちろん祖母と結婚しているのだから恋愛くらいはしただろうが、恋煩いをする祖父など到底想像できなかった。


「カノン、続きを読んでくれない?中身が凄く気になる。」

 カノンはそれには答えず、やおら手を伸ばすと日記帳を静かに閉じてしのぶの前に差し出した。

「この本、埃をかぶってなかったって言ってたよね?」

「あ、うん。」

「すぐに返した方がいいんじゃない?」

 カノンの言わんとしていることはしのぶにもなんとなくわかった。

「でも…。」

「他人の日記を読むのは悪趣味だと思うよ。少なくとも私はしたくない。」

 

 カノンの態度は惚れ惚れするほど毅然としていて、しのぶは頷くしかなかった。

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