じいじの恋

いとうみこと

第1話 四十九日

 お酒が入ったせいか、伯父はすこぶる機嫌が良かった。大きな声で最近の商売の様子を皆に聞かせている。まるで今日の主役が伯父であるかの如く、そこにいる皆が伯父に注目していた。喪服でなければただの宴会のようだとしのぶは思った。

 四十九日の法要が済んだ精進落しの席で、しのぶは目の前の豪華な料理を味わうこともなく、できるだけ急いでかき込んだ。伯父の話が一段落する前にこの席を立たなければ、また自分が標的にされてしまうだろう。この春フリーターの道を選んだしのぶは、一族の高学歴が自慢の伯父にとっては汚点でしかないのだ。

 最後の海老天を口に放り込むと、尻尾を手でちぎって皿に戻し、伯父が向こうを向いているタイミングでそっと部屋を出た。伯父の声が襖の向こう側で尚も響いている。しのぶは見えない伯父にあかんべをして、廊下の突き当りの祖父の書斎に向かった。


 父方の祖父の龍三は高校の国語の教師だった。定年は校長として迎え、その後は塾に通えない子どもたちのための無料の勉強会を二十年以上続けた。人望が厚かったようで、お葬式には驚くほど多くの人が参列した。祖父のために泣いてくれる人も少なくなかった。


 そんな祖父だったが、しのぶはあまり好きにはなれなかった。小さい頃は随分可愛がってもらったと聞いている。しかし、記憶の中の祖父はいつも不機嫌そうに黙っていて近寄り難かった。多分、十歳になる頃にはお年玉を貰う時くらいしか話をしなかったと思う。それですら「ちゃんと勉強しているか。」とか「部活動も大切だぞ。」とか説教臭くて、貰うものを貰ったらさっさと帰りたいとさえ思っていた。

 祖父が疎ましかったもうひとつの理由が名前だ。しのぶは祖父がつけてくれた自分の名前が嫌で仕方なかった。「しのぶ」という音の響きは悪くないと思っていたが、それが平仮名になって「山本」という苗字と組み合わさると、どう見ても昭和のムード歌謡や演歌歌手のイメージになる。自分の名前を書くたびに憂鬱になるので、名前を変える手続きを調べてみたことがあるくらいだ。どんな謂れがあるのか知らないが、よりによってこんなセンスのない名前をつけた祖父が恨めしかった。


 祖父のことは苦手だったが、祖父の書斎は大好きだった。几帳面な祖父らしくいつもきちんと片付いていたし、窓のすぐ向こう側には鎮守の森が広がっていて、部屋に居ながらにして森林浴の気分を味わえた。それに、壁一面の本棚には美しい装丁の本がぎっしりと詰まっていて、見ているだけで豊かな気持ちになれた。

 品のいいシャンデリアやガレ風のスタンドライトもある洗練された部屋の中で、しのぶのいちばんのお気に入りはロッキングチェアだった。祖母の手作りの座布団とクッションが座面をぴたりと覆っていて、とても座り心地が良かった。窓辺に置かれたそれに座って自前の本を読んだり音楽を聞いたりした。ただ座っているだけでも楽しい空想が次々と浮かんだし、時にはそのままうたた寝することもあった。

 尤もこれは、祖父が留守の時にしかできない楽しみ方だったので、祖父母の家に行くことになると、真っ先に祖父の在否を尋ねたものだった。


 祖父が亡くなって、この部屋がどうなるのか気になったしのぶは、葬儀の後、父に尋ねてみた。ひとり暮らしになった祖母を心配して、伯父が息子、つまりはしのぶのいとこを住まわせることにしたと父は言った。しのぶが健にぃと呼ぶいとこは、昨年司法試験に合格して今は弁護士の見習いのようなことをしているので、祖父の書斎は使い勝手がいいらしかった。

「じゃあ、じいじの本はどうなるの?」

 しのぶは読めもしない本の心配をした。あの美しい本たちの代わりに無粋な法律関係の本が並ぶのは余りにも見苦しいと思う。

「大学か図書館に寄贈することになると思うよ。」

 父の答えは至極真っ当で、ある意味予想通りだったが納得は出来なかった。あの本はあの部屋に無くてはならない大切なパーツだと祖父も思っているに違いないと思えた。


 しかし、今しのぶはその気持ちとは正反対の動機で龍三の書斎へと向かっていた。年頃の娘らしく、しのぶには好きな人がいた。バイト先のひとつ上の大学生で、就職活動と卒論のために近々辞めることになっている。しのぶはこのまま先輩との縁が切れてしまうのが嫌だった。そして思いついたのが、先輩が好きだというミュージカルに誘うことだった。

「家族が急に行けなくなったので。」という常套句を使うところまでは予定が立っている。問題はチケットだ。何せミュージカルのチケットは高額で、しのぶのバイト代ではなかなか手が出なかった。誘う以上、後ろの方の安い席というのは避けたかった。

 そこで思いついたのが古書を売ることだ。聞くところによると、ネットオークションでは結構な高値で取引される本もあるという。どうせ寄贈するなら、そのうちの何冊かを貰っても罰は当たらないだろうと思った。その下見をするために書斎に向かっていたのだ。


 襖を開けると、ひんやりとした空気が廊下に流れ出した。主を亡くしたこと以外は以前と何も変わらない空間がそこにあって、しのぶはほっとした。窓からは三分咲きの桜が見える。一週間もしないうちに満開になって、開け放した窓辺に花びらを運んでくれるだろう。

 そういえば、としのぶは不意に思い出した。桜がいちばん綺麗に見えるこの部屋で、祖父母と兄と四人でお花見をしたことがあった。恐らくは両親に何かしら用事があって、幼い兄としのぶがこの家に預けられたのだろう。祖母が作った重箱入りのお弁当を食べながら、飽きもせず窓の外を眺めていたことを覚えている。

 祖父は、その時もあの椅子に腰掛けて本を読んでいた。考えてみれば、記憶の中の祖父はいつも本を読んでいた。その気配がまだこの部屋に漂っている気がした。


 暫く思い出に浸った後、しのぶは本来の目的を果たすため端から順に指でなぞりながら本のタイトルを確認した。教科書で見たようなものもあれば、判読さえ難しいものもあった。その多くが全集のようだ。こういった知識に乏しいしのぶにはその価値は全く見当がつかなかった。しのぶは自分の計画が早くも頓挫しそうな予感がした。

 もう本を売るのは諦めて別の方法を考えようかと思い始めたとき、棚の中ほどにタイトルのない古びた本を見つけた。傷んだ背表紙を丁寧に修復した跡がある。何となく気になって抜き出すと、何故かその本だけはほんの少しも埃をかぶっていないことに気付いた。

「何だろう。」

 本を開こうとしたその瞬間、なんの予兆もなく襖が開いて、しのぶは飛び上がる程驚いた。驚きつつも、その後ろめたさから手にしていた本を咄嗟に喪服の上着の中に隠した。と同時に、襖の陰からひょっこりと祖母の顔が覗いた。

「やっぱりここね。」

 祖母はそう言うと満足げに微笑んだ。

「お父さんが学校に行かなきゃならなくなったから帰るって。しのぶちゃんはどうする?」

 祖父と同じ道を選んだ父は、こうしてたまに呼び出されることがあった。大抵は問題行動を起こした生徒への対応で、昨年少し荒れた高校に赴任してからは以前よりもその回数が増えていた。

 いつもならイラッとするところだが、今のしのぶには渡りに船だった。

「私も帰る。」

 そう言って、祖母の脇をすり抜けると、挨拶もそこそこに母が運転する車に乗り込んだ。鞄の中には、戻せなかったあの本が入っていた。

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