僕の目の前には包丁を構える妻がいる

 あぁ、終わった。そう思うしかない状況である。今寝て目覚めた僕の前にいるのはあの村正の包丁を構える妻の姿だった。氷のように冷たい眼差しに思わずゾクッとしてしまう。

 そしてよく見ると後ろには死にそうな顔をしている絵里がいた、服がジャージに変わっているところシャワー浴びた後だろう。


「ねぇ…たっくん?」


「は、はい!」


「どうしてこの人がいるのかしら?」


 この人とは絵里のことを言っている。確かに僕は絵里がいることを妻に言っていない。つまり妻から見てみれば旦那が女を内緒で連れ込んでいる、そしてその女がシャワーを浴びているという。もう疑われて当然のような証拠しかない。


「ねぇってば?どうして答えてくれないの?」


 僕はどうにかして妻へ弁解をしようと思うが、残念ながら言葉が全くと言っていい程見つからない。


「あの!麗子さん!これは私が…」


「あなたに聞いてないの、黙ってて」


 後ろを振り返り絵里に妻は冷たい口調で言った。絵里の顔を見る限り凄い睨みをきかせているのだろう。

 絵里は驚いた顔をして身体をピクっと僅かながら動いていた。


「ねぇ?どういうこと?私に分かりやすく教えて欲しいんだけど?」


「絵里が近くに来たらしくて立ち寄ったらしいんだ」


 説明をするものの、どうも妻は納得いってない様子であり、怒っているのが丸わかりである。後ろの絵里は申し訳なさそうにしていたが、意を決したように口を開いた。


「麗子さん。拓真は何も悪くないの。私が勝手に来ただけだから、だから拓真を責めるのはやめてください」


 その言葉に絵里の方を身体ごと向けて振り返った妻は包丁を握る力が強くなった気がした。まさか、血迷ったことをしないだろうか。僕は妻の行動に冷や冷やして見ていた。


「本当にあなたって気に食わないわ。拓真、拓真って呼び捨てにして…。あなたは所詮幼馴染。それだけなのに、どうしてそこまでたっくんに構うの?ほっといてよ。あなたには関係ないんだから」


 妻の言葉の一つ一つに棘があった。絵里に容赦なく詰め寄りきつい言葉を浴びせてくる。

 今回は相当頭にきているのか、妻にはどことなく冷静さがない。それに怒ってても笑顔ではあったのだが、それすらも消えているのだ。


「私だって…私だって!!拓真の1番になりたかったのよ!!?でも全然伝えられなくて…ずるずる幼馴染という関係を引きずってたらあっという間にあなたに盗られて…簡単に諦めることなんて…小さい時から思いを捨てることなんて…簡単に出来るわけないじゃない!!!!」


 絵里は目からポツポツと涙を零していた。

 そして彼女の言葉を聞いた時に、何故か胸が痛んだ。それは奇しくも僕自身も同じであったからだ。

 僕自身も小さい時絵里の事が好きだった。それは長かった。そして高校の時に彼女に思いを告げた。

 しかし結果は玉砕。彼女の返答は「幼馴染としてしか見れない」というその当時の僕にはあまりにも辛く胸に突き刺さる言葉であった。

 こうして長きに渡る片想いは終わったと思ったのだが。

 彼女から出た今の言葉には当時のものとは違う言葉であった。


「私はいつもいつも拓真と一緒にいる事が心地良くて、それが毎日楽しかった…。でもあの時告白されて私は嬉しかったけど、あの時の関係が壊れるのが怖かった!!だから私は幼馴染に甘えてしまった!!そして拓真を傷つけた!!」


「絵里…」


 そうだったのか。絵里は決して幼馴染だから男として見れない訳でわなかったのか。

 あの関係が彼女にとっては1番良い物で、関係が変わってしまうことが怖かったのか。


「最低な女ね」


 妻は表情一つ変えずそういった。


「自分から断っておいて何を今更、未練がましいのよ!!あなたはただの愚か者よ!長い時間たっくんといれたのに自分からそれを手放すなんて!!」


 その言葉がささったのか涙が絵里の目からボロボロとこぼれていった。そして力を失ったように崩れ落ちた。

 絵里が泣く姿なんていつぶりだろうか。


「絵里、僕は…」


 彼女に近づこうとした時に肩をちからづよく掴まれ妻から止められた。

 妻の目はいつになく怖かった。もしここで絵里のことろにいけば殺すのでは無いかと思えるほどに。

 でもやはり彼女の涙を見てどうしてもほっとけなかった。


「絵里、もういいんだ。あの時のことは」


「違うの…違うの…私は拓真の事が好きだった。これは嘘でもなんでもないの…」


 僕の両肩を掴み涙を流して訴えてきた。あの時、告白の返事が変わっていたならば、現在どう変わっていたのだろう。ふと思っていた。

 もし絵里と付き合うことになっていたら、麗子とは会えなかったのかもしれない。

 そう思うと何とも言えない複雑な気分であった。


「麗子」


「何?」


 妻は僕の行動が気に食わなかったのか、殺意に満ちた怒りを浮かべていた。

 そんな妻に対して僕は彼女を抱きしめた。


「えっ…?」


「僕は確かに絵里の事が好きだった。でもそれは昔の話だ。今は君のことを一番に愛してるよ」


 彼女の耳元で僕はそう答えた。すると、彼女の顔は紅くなり、殺気も徐々に消えていつまたのだった。


「な…、たっくん!?いきなり何を…?」


「僕のことを信じて欲しい。僕は君だけを愛している。それなのに君の嫌がることをすると思う?」


 僕は知っている。妻は不安なだけなのである。自分の前から大切な人が消えていくのが、その理由は僕が知っている。

 だからこそ妻を裏切るようなことをしないと結婚した時、いやもっと言えば付き合う頃からである。


「絵里は僕にとっては幼馴染だよ。でも小さい時からずっと一緒にいた存在なんだ。だから簡単に見捨てることは出来ない」


「拓真…?」


 絵里は僕の名前を呼んで涙を手で拭っていた。


「麗子。今回は僕の責任だ。僕の行動が結果的に麗子を苦しめた。そしてそれは絵里に対してもだ」


 僕は麗子に対して頭を下げて謝った。どんな理由であれ傷つけてしまったことには変わりない。

 だからこそ、ここは謝らなければならないと思った。


「……。ずるいよ…」


 ぼそっと妻はそう呟いた。


「幼馴染だから…ほおっとけないなんて…私はたっくんと夫婦として…ようやく繋がることができたのに…」


 妻はそういうと、ポロポロと涙を流し始めていた。先程まで憤慨していた彼女がまるで嘘かのように、僕の服を涙で濡らしていた。


「私はこんなことしたくないのに…嫉妬して他の人やたっくんを傷つけて…私は望んでないのに…でも心が苦しくて…ひっぐ……うう…」


 おそらく麗子自身もやりすぎていることは承知しているようだった。僕は知っている。麗子は優しくていい子であることを、ただ世間と少しズレてしまっているだけで、それはこれからじっくりと治せばいいだけの事だと。


 僕はしっかりと麗子を抱きしめて頭を優しく撫でてあげた。

 僕は麗子のことを嫌ったりなんて決してしない。結婚する前に約束したのだから。

 色んな麗子を全て受け止めると。



 そんな2人を見て絵里はつくづく感じていたのだ。やはり自分は拓真には相応しくないのだと。あの時告白を断った時点で終わっていたのだと、そんなことはわかっている。

 しかし、それでも心の奥ではまだ納得していない自分自身がいるのを絵里は知っていた。


「ははっ…本当にバカみたい…」


 絵里は決意した。自分の欲しいものは実力で奪い取るしかないと、そのためにはこんなことをしている場合ではないと。

 そう気持ちを作ると自然と楽になったのだ。

 拓真は今は麗子のものであるが、奪い取ることはできる。

 諦めなければ必ずその日が来ると。涙を拭いて荷物を持った。


「私帰るね…」


「絵里?でもお前…」


「いいの。宿はどうにかする。それに…」


 絵里は麗子の方を見た。


「少しだけ私の大切なものをここに置いていく。でもいつか私が取りに来るから」


 そう。これはあの女に対しての宣戦布告でもあるから。絶対に負けない。私の今までの恋心をしょうもない終わり方で終わらせるなんて嫌だから。


 絵里は拓真に微笑み斎賀家を後にしていった。


「絵里…」


 絵里は家を出ていった。部屋には僕と麗子だけ。そしてまだ抱き合っている状態だった。



「………。受けて立つわ…福元さん…」


 妻はなにか言っているようだったが僕にはよく聞こえなかった。

 ただひとつ言えることはその表情は決闘を受ける戦士のような鋭い表情であった。



 ◇◇◇◇



「へぇ…先輩の幼馴染ね…」


 暗い部屋でダブルディスプレイの光だけが光っていた。そのディスプレイを板チョコを頬張って眺めている女性の姿があった。

 黒のネグリジェに長い髪を下ろした女性はとある男の姿を見ていた。


「このクソ女本当に邪魔ね…私の先輩にベタベタ…ベタベタと…」


 男に抱きついている女を眺めて板チョコを持っている手に力が入った。

 パキッと言う音とも板チョコが割れたようである。殺意のある目で見ていた。


「ああっ。先輩…せんぱぁい…好き…しゅきぃ…。…はぁっ…あっ…!」


 もう片方の手で陰部をまさぐっていた。彼女が見つめるのはただ一人。

 毎日毎日彼のことだけを考えている。狂おしいほど彼のことを愛しているのだった…。
















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