2.これが私たちの世界ですか?(その2)

「……カジノが、三軒……」

 ルイス・キャロルは呆気に取られ、オウム返しに言った。その時だった。

 グルルルル……!

 うなるような音が聞こえた。ドードー鳥は急いでドアに顔を近付け、外の様子をうかがう。彼は目だけをルイスの方に向けて、声を落として言った。

「あのか、怪物が……、も、戻ってきたのでしょうか……?」

 ルイス・キャロルも緊張の面持ちで言う。

「……怪物は戻ってきました。私を追って、数時間ぶりに。それはあの大きな犬とは別の怪物です……。どこに隠れても見付かってしまうし、こちらからは相手の姿が見えない……。早急に手を打たなければ、そいつは間もなく私をさいなみ、最後は確実に息の根を止めるでしょう……」

「そ、そ、そんな奴に追われているのですか、あ、あなたはッ……! なな、何者なのですか、そそいつはッ……?」

 すると紳士は、はにかみながら言った。

「その怪物の名は……、『空腹』です」

 一瞬きょとんとした後、ドードーは噴き出した。それから彼は笑いながら、次のように言った。

「クフフッ! なるほど。それは強敵ですね。でも、でも、ここでなら、そいつに、た、立ち向かえますよ。た、多分ですけど……!」

 ドードーは壁にあった蝋燭に次々と明かりを灯していった。明るくなった部屋に浮かび上がったのは、大きな長テーブルが一つに正方形のテーブルが二つ、そして多くの椅子やスツールだった。部屋の片側にはカウンターがあり、その奥にも空間があって、壁には鍋やフライパンがいくつも掛かり、皿やお椀で一杯の食器棚が見えた。ドードーは遠慮がちにルイスに言う。

「ここは、しょ、食堂なのです。こ、ここの、オーナー兼、店長兼、りょ、料理長なのが、ぼぼ、僕です。も、も、もし、ですが、あなたがあなたの自由意志に従って、こちらで晩餐を喫してくだされば、ぼ、僕にとって望外の喜びです……!」

 ルイスは笑いながら答える。

「『良かったら僕の店で夕食を食べていったら?』という事ですね! それじゃあ是非いただきますよ!」

 ドードーはほっと息をついた後、店内を動き回りながらルイスに言った。

「あ、空いてるお席にどうぞ。あっ、ぜぜ、全部空いていますが……。ええっと、メ、メニューは……」

 ルイス・キャロルは四人用のテーブル席の一つに着いた。彼がステッキや鞄を置いたところで、ドードーがメニューを持ってきた。ルイスはそれを開いて音読する。

「……えーっと、なになに……。ニシンのパイに、ウナギのゼリー寄せ、豚の血の腸詰めに、羊のレバーの胃袋詰め……」

 店長は不安そうに客の顔色をうかがう。ルイス・キャロルは言った。

「なるほど! どれも家庭的で美味しそうですね!」紳士の本心であった。「この、フィッシュ・アンド・チップスというのは?」

「そ、それは新メニューなのですが……、た、タラのフリッターと、フ、フライドポテトの盛り合わせです」

「ほう! ではでは、それを一つお願いします。それと、食後に紅茶も!」

「か、かしこまりました……!」


 ♠ ♥ ♣ ♦


「ど、ど、どうぞ……!」

 テーブルに大きな皿が置かれた。狐色に揚がった特大のフリッターに、香気を放つ太切りの山盛りフライドポテト。と、何やら小瓶に入った、黒い液体が付いてきた。

「これは……?」

大麦酢モルトビネガーです……。そ、それをタラにたっぷり掛けて食べるのが、お、美味しいのだそうです……!」

 ルイス・キャロルはドードーの言う通りにしてから、タラのフリッターをナイフで一口大に切って、ぱくりと頬張った。

「む……。ムグ……。これは……! 美味しいですッ! 衣はサックリと軽く、中のタラはしっとりして旨みが溢れ出す! モグモグ。あ! ひょっとしてこの衣、溶くのにビールを使ってるんじゃないですか? それがこのサクサクした軽さと風味の秘密ですね! ビールの衣と淡白な白身に、ちょっとクセのあるモルトビネガーが完璧にマッチしてます! モグモグ。ポテトもシンプルながら外はカリッと中はホクホク、塩加減もいい! ポテトがタラを、タラがポテトを引き立てる! これは、モグモグ、病み付きになりますね……! 流行りますよ!」

 食べながらまくし立てる紳士の言葉に、ドードーは照れ笑いや苦笑いをしていたが、最後の一文を聞くと、その表情は一遍に曇った。彼は溜め息をついて言う。

「……あ、ありがとうございます、お客さん……。で、でも、ですね……、ご覧の通りですよ……。夕食時にもかかわらず、か、閑古鳥が鳴いているんです。ビールをこ、衣に使ったのも、鮮度が落ちて、さ、酒としては出せないからです……。こ、こんな店には、お客さんは、もう来ない……。誰もが今や、カ、カ、カジノですから……」

 ルイス・キャロルは手を止め、顔をしかめてドードーに尋ねた。

「……さっき言ってましたね……。この町には三軒もカジノがあるって……」

「そ、そうです。一つはネズミ、一つはインコ、もう一軒は森からやってきた、イ、イモムシが、治めています……」

「……ふむ。……カジノの是非は置いておくとして、その客相手に、持ち帰りにして売るというのはどうです? あっ、でもやっぱりギャンブラーっていうのはどこぞの伯爵よろしく、サンドイッチみたいなものがいいんでしょうか……? 『カモフィッシュアンド賭け札チップス』、名前はとっても彼ら向きだと思いますが……」

 ドードーは首を横に振って、うなだれて言った。

「そ、そうじゃないのです……。い、一度カジノにはまった者は、最早そこから、で、出てこない……。カジノの中に、レ、レストランも、寝る所も、雑貨屋も銀行も高利貸しもあるからです。……か、革命があって、新政府がカジノ政策を進めた時、カジノで町全体が、か、活性化する、と言われていました。ところが、じ実際に活性化したのは、三軒のカジノの、敷地の内側だけ。それも三軒で経営競争しているから、ふ、普通の従業員は、も、も、物凄く酷い待遇で働いている。ま、まるで疲弊するだけの、終わりのないレース……。甘い汁を吸っているのは、ほんの一握りの、じょ、上層部だけです……」

 ルイス・キャロルも頭を垂れて黙っていた。ドードーは更に続けた。

「ば、博打に手を出さなかった少数の者たちがどうなったかは、ぼ、僕の様子で推して知るべしです。収入もなく、場合によっては、家族を極道たちの、ひ、人質に取られ……、そしてひとたび通りに出れば、連中同士のこ、抗争に、いつ巻き込まれるかも分からない……!」

 彼の声は、次第に震えてきていた。

「お、お客さん……、町の外に、み、湖があったでしょう? あれは以前は、池くらいの大きさでした。もともとは、一柱の、め、女神が流した涙だったといいます。それがいつの間にか、あ、あんなに大きくなってしまった……。どうしてかと不思議にお思いですか? 分かり切った事です……。ぼ、僕たちには、理由なんて、わ、分かり切っています……! あれは僕らの涙で……、苦しみあえぐ僕らの涙でッ、涙の池は大きくなったのですッ……!」

 ドードー鳥は肩を揺らして泣いていた。ルイス・キャロルは黙ったまま唇を噛みしめている。皿の上に残った料理からは、最早湯気は上がっていなかった。

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