2.これが私たちの世界ですか?(その1)

 怪物の手のように捻じ曲がり、幾本にも分かれた枯れ枝の下を、トップハットとフロックコート、右手にステッキ、左手に旅行鞄を持った紳士が歩いていく。このブナやナラの木の森に入って、どれくらい経っただろうか、と、この紳士――ルイス・キャロルと名乗る青年は思いながら、その眠たげな青い目で頭上を見上げた。

 葉を落とし切った枝から覗く空は今や灰色に曇り、暗くなり始めていた。そして不思議な事に、周りの木々の種類は変わっていないのに、いつの間にか頭上の枝が高くなっているようだった。ルイス・キャロルが上を向いてそんな風に思っていると、ゴツンと足に、何かが当たった。

「ははーん」

 彼は微笑みながら独り言を言った。足に当たったのは、ティーポットほども大きさのある、巨大なドングリだった。

「私の背が縮んだのですね。ふむ、この感じだと……」

 彼は自分の背丈よりも高い雑草や、両手を広げた幅ほどもありそうな落ち葉を見て考えた。おそらく今の自分の身長は六インチ程度。前の町で過ごしていた時は二フィートくらいだったから、いつの間にか四分の一ほどに縮んでしまった計算だ。

 そうして彼が再び歩きだして、間もなくの事だった。前方の木々が途切れ、森の終点にやってきた事が分かったのだ。紳士の歩調もひとりでに速くなる。

 森を抜けると、そこからなだらかな下り斜面になっていて、眼前には大きな湖と、多くの建物からなる町が見えた。空は相変わらず薄暗いが、夜が訪れるまでにはまだ時間がありそうだ。

「ほう、これは見事な湖……! カメラを持ってくれば良かった! ともあれ、一安心。これなら夕食には間に合いますね!」

 ルイス・キャロルはそう言うと、小走りで坂を下っていった。


 ♠ ♥ ♣ ♦


 湖のほとりのその町は、今の紳士の身長からすると、先の町より大きく見えた。そして、先の町より更に一層荒んでいた。大抵の建物はぼろぼろに傷んで汚れており、通りに面した建物は店が多いようだったが、営業している店はおろか、何の店なのか判別できるものの方が少なかった。崩れた建物や、あるいは焼け跡さえ、町の至る所で見かけられたのである。小鳥や小猿、蟹などの住民が僅かに外をうろついていたものの、間もなく日が暮れて暗くなると、すぐに皆隠れるようにして家に入り、ドアにかんぬきを掛け、窓を鎧戸で塞いだようだった。

 通りに明かりはほとんどなかったが、唯一、昼間のように明るくなっている場所があった。ルイス・キャロルはそちらを目指して町の中心部へと入っていく。彼が光源に近付いて見ると、案の定、それはガス灯のぎらぎらした光に包まれた城のような建物、この不思議の国ワンダーランドにおいてひときわ異質な存在、カジノであった。

「ふぅ……、全くやれやれですね……!」

 ルイス・キャロルはおどけたように呟いた後、その顔に深い悲しみを浮かべた。その時。

「キャアアアア!!」

 女性や鳥の悲鳴がカジノの中から聞こえた。ギャンブルで勝ったり負けたりといった声ではない。ルイスがそう思っていると、更に別の大声が聞こえてきた。

「ネズミんとこの野郎だッ! やりやがった! 畜生ッ! 捕まえろ!」

 カジノの中は騒然とし、間もなく出入り口から一匹の小猿が飛び出してきた。小猿はカジノの警備員たちの手や尾をかいくぐり、必死の形相でルイスの方に向かって逃げてくる。その手には血の付いた短剣が握られていた。ルイス・キャロルの表情がにわかに凍りつく。

「これは……、まずそうですね……!」

 紳士はくるりとカジノに背を向けると、鞄を抱えて通りを走りだした。小猿もカジノの敷地を抜け、ルイスの後を追うようにして通りを駆ける。その後ろを、カジノの警備員らが怒鳴り散らしながら追う。

 ルイス・キャロルは走りながら後ろの猿たちの様子をうかがい、声を上げた。彼は既にもう息を切らしている。

「ハッ、私は関係、ないですよねっ? ハッ、なんでこっちに来るんですかっ! ツイてないッ! ハアッ!」

 カジノからの小猿への追手は更に増えた。同時に、通りの向こうや脇道からも、獣や鳥が飛び出してきた。が、新たな集団は、最初のカジノの警備員たちと服装が違っており、更にその手にはナイフや棒が握られている。次の瞬間、新たな集団は最初のカジノ警備員たちに躍り掛かった。たちまち通りは激しい争いになり、叫び声と血しぶきが飛び交った。

 最初の小猿や先頭の警備員たちも踵を返して争いに加わったので、今やルイスは足を止めて、ほとんど呆然として彼らを見ていた。

 が、その時。紳士の背後、高い所から、何者かが息を切らすような音が聞こえてきたのだ。ルイスはドキリとして後ろを振り返る。

 巨大な子犬が、そこにいた。ルイス・キャロルは声を落として言う。

「……えーっと……、これはテリアですね……。茶色の長い巻き毛、目がぱっちりして、ネズミ捕りも得意な……」

「ワンッ!」

 巨大な子犬は一声吠えると、振り向いたまま立ち尽くしているルイス・キャロルに、四つ足で跳び掛かった。ルイスは咄嗟に身をかわし、急いで通りの角を曲がった。子犬は争い合っていた者たちに気を取られたらしく、振り返ると誰かが吹っ飛ばされたのが見えた。が、それも束の間、再び息切れの音がルイスに聞こえてくる。犬が追ってきたのだ。ルイス・キャロルは横道を走りながら、店や民家のドアをステッキや拳で叩きまくった。

「ごめんくださいっ! 中に入れてくださいっ! ちょっとだけ助けて! 怪しい者じゃありませんからっ!」

 けれども住人の反応はない。大通りの方に犬の巨大な鼻が見えた、その時だった。

「だだ、誰ですか、嵐の如く扉をた叩くのは。ま、まさか、おお、お客さんじゃないですよねっ……?」

 ルイスの背後でドアが開き、震えるような声が聞こえてきた。ルイスは脇目も振らずにその家に飛び込み、ほとんど住人を突き飛ばすようにしてドアを閉め、かんぬきを下ろした。

 大きな獣がドアの外を通り過ぎる音がする。ルイス・キャロルは安堵の溜め息をついた。すると、家の主もまた別の種類の溜め息をついた後、どもりながら言った。

「な、なるほど……。あの、い、犬に追われて……」

 ろうそくの薄明かりの中で呟いた彼は、頭はフラミンゴのようで、体は七面鳥のようにずんぐり、ただし羽は極端に短い奇妙な鳥、ドードーだった。ルイス・キャロルは自分より一回りも大きなその鳥に向き直ると、帽子を取って言った。

「すみません、突然……。おかげで助かりました。酷い災難に遭ってしまいまして……。あの巨大なテリアもそうですが、その直前にも刃物を持った輩に追いかけられる形になってしまって……。あっ、追いかけられる形、というのはですね、幾何学の話じゃなくてですね、私が悪いわけでもないと思うのですが……」

 するとドードー鳥もルイスの方に向き直って、小さく繰り返しうなづきながら彼に言った。

「わ、わ、分かってます。ま、巻き込まれたんでしょう? あいつらの、こ、抗争に」

「抗争……?」

「や、やくざ者同士の、こ、抗争ですよ……。この町にはカジノが、さ、三軒もありますから……」

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