1.ゲームをしましょう(その10)

 ♠ ♥ ♣ ♦


 翌日。珍しく晴れて穏やかな日だった。トカゲのビルは金もなく、仕事もやることもないまま町をぶらついていた。既に昼だが、カジノはまだ開いていなかった。例のルイス・キャロルともあれ以来顔を合わせていない。

「畜生……! あの人はカジノの新オーナーで、オイラは相変わらず文無しか……。礼の一つや二つあっても良さそうなもんを……! 畜生……、オイラにもあんな才覚がありゃあな……!」

 と、その時だった。突然何者かが、背後からビルの尻尾を掴んだのだ。跳び上がってビルが振り返ると、尻尾を掴んでいたのは一羽のヒヨコだった。

「やいガキ、掴むなっ! 切れちまうだろっ! トカゲの尻尾切りは沢山だ!」

 ビルがヒヨコに怒鳴った。ヒヨコは慌てて謝った後、ビルの顔を見てこう言った。

「おじさん、トカゲのビルだろう? カジノの新しいオーナーが、あんたのこと探してるよ。カジノに来いってさ」

「え……?」

 町をうろつく他の住民のいかにも手持ち無沙汰な様子を見ても、カジノはまだ開いているようには思えなかった。が、ともかく彼は、そこへ向かった。

 そうしてビルはカジノまでやってきたが、やはり営業はしていないようで、建物の周りはかつてないほど静かだった。道を歩いている者たちも、最早カジノに執着していないように見える。

 ビルは訝しみながら門の所まで来ると、建物入り口の広い階段の最上段に、あの紳士が腰掛けているのが認められた。その隣には、見覚えのある、男の白兎――かつてビルが仕えていた、あのせわしない白兎が、チョッキを着て、大きな金時計を手に持って時間を気にしていた。

「旦那と……、旦那っ……!」

 ビルは言いながら、二名の紳士の下に駆け寄る。彼らもビルに気が付いた。ビルはちょっと額を触って、白兎に言った。

「兎の旦那……! お久しぶりです……!」

 白兎がゆっくりうなづいたところで、ルイス・キャロルがビルに言った。

「彼は今まで、メアリーにほとんど監禁状態にされていましてね。誰かと会うのは久しぶりなんですよ」

 白兎がしわがれた声でビルに言った。

「……すまなかったな、ビル……。いろいろと……」

 ビルは困ったように苦笑いをする。ルイス・キャロルはビルに言った。

「ちなみにメアリー嬢は、町を出たそうです。彼女を恨んでいる者は大勢いるでしょうから、仕方ないでしょう……。彼女もそのうちどこかで、楽しくやっていけるといいのですが……」

 しばしの沈黙の後、ビルが小さく溜め息をついたところで、ルイス・キャロルが更に彼に言った。

「そうそう、それより、早くあなたにお礼を述べなければ! 昨夜はごたごたしてるうちに言いそびれてしまって済みません。昨夜の勝利は、あなたのおかげです。本当にご協力に感謝しています」

 ビルはちょっと気まずそうにしてから、笑って言った。

「……へへっ! いいって事よ! まさかあんな形で貢献するなんて、全く思ってなかったけどな! アッハッハッ!」

 ビルは大声で笑った。ルイス・キャロルもクスクスと笑う。やがて、ルイス・キャロルは白兎の顔を見てちょっとうなづくと、ビルに向かって次のように言った。

「……さてさて、実はもう一つだけ、あなたにお願いがあるのです」

「え?」

「白兎さんと一緒に、カジノの全てを現金に換え、町のみんなに公平に分配してほしいのです」

「えっ? なッ……! あんたッ! 念願のカジノを手に入れて、これから更に儲けようってんじゃねえのかっ?」

 ビルは目を丸くして驚いたが、ルイスの方も、同じように目を丸くして言った。

「まさか! まさかでしょう? あなた、そんな風に思ってたんですか? 私はそんなキャラクターじゃありませんよ! それにちゃんと私、言いましたしね。『当店はこれにて営業終了』って」

「なっ……、ありゃあそういう意味かい……! っ済まねえ……。けど、ほんとにそんな奇特な人間がいるとは……」

「私の国では、間もなくクリスマスですしね。住民の皆さんにプレゼントして回るには、ちょうどいい時期でしょう」

 紳士はおどけて言ったが、ビルの頭の中は疑問で一杯だった。彼は声を落として、こう紳士に尋ねた。

「……旦那……、あんた、ルイス・キャロルってんだろ……? そいつぁ、この世界の、神様の名前だ……。旦那はひょっとして……」

 すると、紳士は大袈裟に腕を振りながら言った。

「とんでもない! 神ですって? 私はただのしがない数学講師で、デビューしたばかりの副業童話作家です。それより、頼みましたよ?」

 ビルはちょっと苦笑いをすると、ルイスの傍らに置かれた旅行鞄を見つめて、それから言った。

「……分かった、旦那……。オイラ、しっかりやるよ。旦那は……、行くんだな……。なんとなく分かる……。あんたはきっと……」

 ルイス・キャロルはゆっくりと立ち上がり、鞄を掴むと、荒れた町を見渡しながら、声を落として言った。

「……この国は不思議の国ワンダーランドです。私の常識も、全く通用しません。……ですがおそらく……、私がやらなくちゃならないのです」

 そうして彼は白兎に向かって会釈をすると、階段を降りてビルと握手を交わし、ステッキを突いて歩きだした。

「それではさようなら! 後を宜しくお願いしますね!」

 彼は歩きながら肩越しにそう言うと、前に向き直って門を出ようとした。しかしその時、トカゲのビルが急いで紳士に駆け寄り、すがるような目をして彼に質問した。

「ッもう一つだけ、教えてくれねえか? 旦那は昨日……、オイラたちに必要なのは、金でも、自分への罰でもねえって……。『本当に必要なのは……』、必要なのはッ……? 旦那はあの時、なんて言おうとしたんだ……?」

「……そんな事言いましたっけ?」

「いっ……、言ったよっ!」

「フフッ。冗談です。『本当に必要なのは』……。フッ……。決まってるでしょう? 『愛』ですよ」

 ルイス・キャロルはウインクを一つすると、再び前を向いて歩き始めた。トカゲのビルは口元を緩めながら、しばしの間、彼の後ろ姿を見つめていた。

 町を出る直前、ルイス・キャロルの頭の上で、何かが羽ばたく音がした。彼は驚いて空を見上げる。それは大きな一羽の鳩だった。鳩は町の外に向かって、翼をはためかせて飛んでいく。

「鳩だ……! 愛らしい鳩……! 鳩よ! 私をどうか、導いてください!」

 こうしてルイス・キャロルは、この変わり果てた不思議の国ワンダーランドを旅していったのである。

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