1.ゲームをしましょう(その8)

 と、その時だった。黙って黒板に体を向けていたままだった紳士が、ようやく静かにチョークを手に取ったのだ。一同の注目が集まる。ビルも動きを止めて様子を見守る。紳士は僅かに手を震わせながら、のろのろと黒板に丸を描いた。

 12X

 4○○

 ○8X

 メアリーのリーチを防ぐ、6番にマークだ。紳士はすぐにチョークを置いたが、体の向きはそのままで、対戦相手の方を見ようとしない。メアリーは間を置かずに判定を述べる。

「セーフですわ。ホホッ……!」

 ギャラリーが感想の声を発しようとしたが、即座にチョークを手に取ったメアリーに気付いて、言葉を飲み込む。彼女は何のためらいもなく、手早く次の×印を描き込んだ。周りの者は思考が追い付かず、困惑しながら黒板を凝視する。

 12X

 X○○

 ○8X

 メアリーのマークは4番。彼女はもうずっと前から、高らかに笑い声を上げたくてたまらないのを我慢している。紳士の罠が1にあると知っている事は、伏せておかなければならない。聴力の秘密まで客にばれてしまうからだ。彼女は今や、持ち上がってしまう口角を押さえつけるようにして口元を手で覆っている。

 ……ホホホッ! これで後は、奴が2か8にマークして、アタシがその残りに、多少のためらいを見せながらマークするだけッ! ほら、時は金なりだよ! さっさとゲームを先へ進めな!

 メアリーは体を対戦相手に向け、可能な限り真剣な目付きを心掛けて彼の様子を見た。紳士は先の手番を終えた時からほとんど姿勢を変えておらず、体は黒板の方を向いたままだったが、意外にも、この時彼はその顔をメアリーの方に向けていて、上目遣いで彼女を見つめていた。やがて彼はもう少し顔を上げると、表情を強張らせたまま、呟くようにメアリーに言った。

「……勝った、と思ってらっしゃるのですか……? 訳の分からぬイカレたギャンブル中毒者が、カジノの支配者である自分に、勝てるわけがない、と……」

 ギャラリーたちは困惑気味で、トカゲのビルは紳士の背後で目に涙をたたえながら、彼を見つめる。しかしメアリー・アンは思わず噴き出し、それから声を高くして紳士に言った。

「それはもちろん、ワタクシは常に、勝つつもりで勝負していますわッ? ギャンブル中毒……、ホホッ……! あなた様に関して言えば、確かに少々イカレてらっしゃいましたわね。もしも負けて『痛い目』に遭うとしても……」

 彼女は目の前の男が体を真っ赤にただれさせて悶える姿を想像して笑みを浮かべ、一層声を張り上げて言った。

「それは負け犬が、自ら招いた罰! あえて申せば、自ら欲した罰なのですわッ!」

 トカゲのビルは彼女の言葉に胸をえぐられる思いがして、唇を噛みしめ、震えながら拳を握りしめていた。一方で、ギャラリーたちはほとんどが薄ら笑いを浮かべている。紳士は視線をメアリーから外し、声を落として呟くように言った。

「……罰……。そうかもしれません……。博打に酒、薬や自傷行為、その他様々な悪癖……。やめるべきだと、頭では気付いているのに自分で自分がままならず、いくら苦しもうとも、情けない程やめられない……。きっとそれは、自分自身への……、毎日疲労と、不満を抱えて……、不安で、孤独で、惨めな気がする自分への……、内なる心の、哀しき『罰』なのでしょう……」

 ビルは紳士の言葉に涙を流し、また、彼が既に敗北した事をここで悟って深く嘆いた。紳士が書いた罠の番号は1番の角だ。メアリーもおそらく同じ位置に違いなく、したがって三手後には、彼は必ず罠を踏まなければならないのだ。

 紳士は更に、指で輪を作り、持ち上げながら言葉を続けた。メアリーは勝ち誇った笑みを、最早隠そうともしていない。

「……一方で……、『やめたい』などとは露とも思わず、これに象徴されるものを、他者を犠牲にしてでも追い求める者がいる……」

 ここでメアリーが声を上げた。

「ホホッ! 下らない! ○は『お金』で×は『罰』ッ? ワタクシがまるで守銭奴かのように!」

 紳士は僅かに肩をすくめる。

「フフッ……、この洒落に関しては、たまたまですよ。ですが、私は思うのです……。私たちに本当に必要なのは、『○』――即ちお金でも、『×』――即ち、自罰的な行為でもなく……」

「もう沢山ですわッ!」メアリーがたまらず怒鳴った。「お喋りはそこまで! ゲームが途中ですのよお客様ッ? 次はそちらの番! さっさとマークしてくださりませんことッ?」

 彼女はバンバンと黒板を叩いた。

 12X

 X○○

 ○8X

「フッ……。フフフッ……」

 周りの全員が唖然とした事に、紳士は目を細めて笑い始めた。とうとう本当にイカレてしまったらしい、そう誰もが思った時、彼はメアリーに向かって言った。

「間違ってますね、いろいろと! 順序として、私がマークする前に、まずあなたの×マークの成否をきちんと言っていませんし……」

 メアリーの表情が曇る。彼女はすぐにトカゲのビルの心音をうかがう。……大丈夫だ……、この反応は、ただ奴の言葉に混乱しているだけ……。

 実際、ビルは目をしばたたきながら紳士の顔を見つめている。しかし、紳士は言った。

「それに、ゲームは途中ではなく、実は既に終わっています! ビルッ!」

「ひょへっ!」

 紳士に呼ばれて、ビルは跳び上がった。紳士は更に彼に言う。

「両手を上げて! ひらひらさせながらみんなに見せる! そうです。何も持ってませんね? ではそちら! ペンをどかして……、紙を開いて、皆さんに見せてください! 私の罠が、どこにあるかを!」

 ギャラリーたちがざわつく。メアリー・アンは色を失って紳士やビルの心音を探るが、今や猛烈に早鐘を打つ自らの鼓動以外、ほとんど何も聞こえなくなっていた。

 ビルは紳士の指示通り、テーブルの上の紙を手に取ると、それを持ち上げ気味にして、震えながら、ゆっくりと開いた。

「……『4』……。『4』だ……! 旦那が書いてたのは4! 1じゃなくて……! 4だッ! 4ッ! つまりメアリーは……!」

 12X

 X○○

 ○8X

 メアリー・アンはよろめいた。黒板の4番のマス目には、先程彼女が描いたばかりの×印がくっきりと刻まれている。紳士は胸の前でパチンと手を一つ叩くと、メアリーに向かってウインクをしながら言った。

「パックン! 兎が罠に掛かったようです!」

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