第28話 復帰(2)




 そうして心が落ち着かないまま無理やり仕事を終わらせ、いつもの夕方の時間に私は帰路につきました。そして例のシャッター前まで行くと制服姿のまつりが立っていて、街の雑踏から私の姿を見つけた途端微笑んでから手を振ってきました。


「どうだった?」と、私は開口一番尋ねました。


「第一志望、合格しました」


 まつりは微笑んだまま報告し、私はこの日一日抱えていた心の負荷が途切れるように解消されました。「よかった……」と呟くと、「それ、わたしの台詞ですよ」と彼女はおかしそうに笑いました。


「ところで師匠。今日は珍しいですね」


 そう言ってまつりは、私が手にしているものを指さして注目しました。普段まつりと会うときは、鞄以外の荷物らしい荷物は持っていませんが、今回だけは事情が異なります。なにせこの日は入試の合格発表の日ですから。合格祝いとして彼女にあげる例のギター、ギブソンのハミングバードを、ギブソン社のロゴが入った専用ハードケースに入れて持ってきたのです。


「前に話した合格祝いだよ」と言うと、まつりは「そんな話ありましたっけ?」と不思議そうな顔をしました。まさか忘れられていたのかと、私は若干ショックを受けましたが、しかしあのときは去り際に言い残しただけで彼女自身のリアクションは見ておらず、もしかしたら伝わっていなかったのかもしれませんでした。もしくは受験の忙しさで忘れてしまったのかもしれません。


 とにもかくにも、努力には成果とは別にご褒美があってもいいのではないでしょうか。成果はあくまで努力の結果だけでしかなく、労う効果はないのですから。そして誰も彼女を労う人物がいないのなら、その役目は私が引き受けるほかありません。


「せっかく高校生になるのだから、まともなギターでライブした方がいいでしょ」と言いながら路上にケースを寝かせて置きました。「開けてごらん」と促すと、まつりはしゃがみ込んでハードケースの金具に触れ、一つひとつ解除していきます。そうして全ての金具が外れたところで、彼女はケースの蓋をゆっくり開けました。


「ギブソンだぁ」


 転瞬、彼女は瞠目しました。老舗メーカーの高級機種がそこに収まっていたのですから。


「合格祝いってことは、も、貰っていいのですか?」と、まつりは酷く動揺しつつ、私のことを見上げていました。「ええ。まあ、置き場所に困っていたからね。貰ってくれるならこちらとしてもありがたい」と私が答えると、彼女は「師匠はやっぱりツンデレですね」と微笑みながら、しかし手は恐る恐るといった様子でケースの中の楽器に触れ、覚束ない動作で取り出しました。


「ハミングバードってギターだよ」と私が教えると、彼女は「ハミングバードって、可愛い名前ですね」と反応しながら、表面に描かれている小鳥のペイントを愛おしそうに見つめていました。ちなみにハミングバードとはハチドリの英語名であり、楽器に描かれているのもハチドリです。


 そうして手にして近くで実物の楽器をじっくり眺めて「おお……」と感嘆の声が漏れていました。「いいのですか?」とか「本当にいただいていいのですか?」と何度も何度も確認してくるまつりに、私はその都度短く返事をしました。そうして何度も確認したのちに、ようやく貰い物として受け入れてくれました。「ハードケースに入ったギターなんて初めてです」と話して、「これを開けて置いておいてお金入れてもらうやつですよね」と言うものですから、「それは楽器を入れるものだ」と真面目に反応しました。


「今日から路上ライブを再開しようと思っていたんですけど」


 と話すまつりの傍には、いつものギグケースに収まった彼女のギターが、シャッターに立てかけてありました。


「せっかく合格祝いとしていただいたので、早速、今日はこのギターで演奏しますね」


 そう言って彼女はいったんハミングバードをケースにしまい、自身のギグケースを開けてストラップを取り出し、そしてハミングバードにストラップをつけて肩から下げました。「実は、受験勉強しているときに思い浮かんだ言葉を書き留めて、それをもとに歌詞を変えてみました」と前置きをし、「師匠、聴いてください」と呟いてから、まつりは演奏を始めました。



 イントロとして、囁きのようなハミングと、綺麗な旋律を生むアルペジオのフレーズ。歌い出しからは語り聞かせるような歌声と、その歌声に添えるように優しく柔らかなコードストロークで曲を彩っていく。そしてサビでは打って変わって掻き鳴らすようにストロークを強め、声を張り上げて強いインパクトによって曲を印象付けさせる。そうしてサビを歌い終えると、間奏として再びハミングとアルペジオの美しい音色が奏でられ、歌は二番に突入する。


 歌詞もまつりが言った通り、以前聴いたときは別物となっている。比喩的な言葉選びによって紡がれる物語のような歌は、自由を求めてもがき苦しみ、不出来な自分を嘆き、それでも誰かに見つけてほしいと懇願し、そして見つけてくれた誰かに認められたい、というようなメッセージ性が込められている気がしました。そこには思春期の少女が書くようなポエムと、小難しい文学的な哲学と、そして彼女自身の人生観が、まるでマーブル模様のように混ざり合い、唯一無二の世界観を構築されていた。


 出会った当初の酷いライブと比べれば、演奏力も、歌唱力も、曲も、歌詞も、何もかもが格段に進化していて、とても同一人物とは思えないほどの成長でした。その成長の始まりから今に至るまでの全てを見てきた私としては、彼女のライブを視聴して自然に目元が潤み、鼻を啜り上げていました。彼女の成長を実感できたこともそうですが、実際に聴くに堪えなかった彼女のパフォーマンスのテーマ、彼女が何を表現したくて路上に立っていたのか、その本質を共に過ごしたことで理解できてしまったからこそ、パフォーマンスに内包する感情がストレートに伝わってきてしまい、否応なく撃ち抜かれてしまうのです。


 成長したまつりの歌は、春先の夕日に照らされる柏の街に響き渡る。寂寞感が漂う閉店した百貨店のシャッター前は、この瞬間だけ彩りを取り戻していた。演奏する彼女も恍惚とした表情をしていて、自身の内側から湧き出てくる彩りに埋没し、自分の世界に浸っている。このときだけは、この場所は彼女の世界となっていて、聴き手は瞠目しながら彼女の世界に没入していきます。


 これまで彼女が生きてきた人生が反映されたのか、楽曲は決して明るくはなく、少女が歌う曲としては大人びたほろ苦さがあった。その独自の憂鬱感を含んだ歌は最後に少しだけの希望を残して終わりました。


 すぐさま反応できませんでした。まるで傑作映画を鑑賞し、エンドロールが終わって劇場に照明が灯っても、座席から立ち上がれずに余韻に打ちのめされているかのような、そんな感動が押し寄せていた。



 十五歳の少女に、私の心が動かされた。その事実を噛みしめつつも、半ば放心状態のまま私は拍手をしようと手を持ち上げたまさにそのとき、別の場所から私のではない拍手の音が響きました。その方を見やると、幾人か、数える程度の人数ではあるものの、通行人が足を止めてまつりを注目し、称賛するリアクションを各々がとっていました。


 演奏によって恍惚としていたまつりは我に返り、突然の周囲の反応に困惑している最中、彼女の傍らに置かれたハードケースにコインが入っていく。人数は少なく小銭なので金額自体は大したことなくても、そのお金は演奏によって、私以外からちゃんと受け取ったおひねりでありました。それは、彼女にとってとても大きな意味を持っていた。


 まつりはどうしていいのかわからなかったのか、ハミングバードを肩から下げたまま深々とお辞儀をしました。それが全てのパフォーマンスを終えた合図と捉えられたのか、聴き入っていた通行人はそれぞれの日常に戻り立ち去っていきます。そして彼女の周囲から人が捌けたところで、私は彼女に近づきました。


「師匠……」


 感慨深いのか、まつりは今にも泣き出しそうでした。


「初めて……師匠以外に、ちゃんと聴いてもらえました」


 求める自由が路上にあると感じ、自分が自分であることを思い切り主張して、それを受け止めてくれれば、晴れてわたしはわたしになれるような気がしたと、あるとき彼女は語っていた。息苦しさのある特殊な家庭環境で育ったからこその自我と自由への強い欲求。それはこのとき初めて、明確に、果たされました。ようやく他者に思いを伝えることができたのです。


 初めて彼女を見かけたとき、下手くそだが自分なりに思想を吐き出しているその姿に、私は「小さなイデオローグ」と感じました。あのときから時間は経過したものの、まつりはまだ十五歳の女の子で、高校入試を終えたばかりの学生としては小柄な体躯であり、小さいことには変わりありません。しかし彼女の路上での存在感は、このとき確かに大きく膨れ上がったのです。それは彼女にとって大きな一歩であることは間違いありません。


「頑張ったね」


 私はそっと手を伸ばし、まつりの頭に乗せて、ゆっくり優しく撫でてあげました。すると彼女は感極まったのか、瞳は決壊してついに泣き出してしまった。少しだけ微笑を浮かべてから私は、「どうした。頭撫でられるのが泣くほど嫌だったのか?」と、いつか言った言葉を今度は意地悪く口にしました。


「違うの……。今まで、ちゃんといいことをして、一生懸命にやって頑張ったことを、誰かにこうして褒められたのがなかったから、嬉しいの」


 頭を撫でられながら、まつりは私を見上げて笑いました。泣きながら器用に笑顔を見せる彼女に、私は「そうかい。こんなのでいいのなら、気が済むまで撫でてあげるよ」と以前と同じ言葉を返しました。頑張りを褒められたことがない子供がいるのだろうか、と思わずにはいられませんでしたが、しかし彼女の両親、托卵をしたうえに教育虐待をしていた母親と、妻を偏愛するあまりにそれ以外のことに興味を示さないネグレクトな父親という、あの特殊な人間の子供であるならばそれは充分あり得るような気がしました。


 十五年分に匹敵するよう撫でながら、私は「中学卒業おめでとう」と祝いました。卒業式の話は聞いていないし、身分上三月末までは中学生なのですが、個人的な認識としてはもう卒業したのも同然でした。


 彼女は中学校に復学した際に、「学校は、弟子になるための関門、試練でしかない」と語っていました。私が提示した弟子入りの条件を満たすため、髪を黒に戻して学校という子供の社会に再び立ち向かっていったのです。ならば、と私はこの言葉を送るしかありません。



「これで第一関門突破だね。これからは第二関門の高校が待っている」


「はい師匠。高校生になってもよろしくお願いします」


 三十歳を過ぎたいい歳の女として、妙に照れ臭くなってしまったので、私はぶっきらぼうに「ええ、期待している」と返すことができませんでした。


 こうして、彼女の中学時代は終わりを告げました。




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