第18話 自称悪い子の逆襲(1)




 翌日、例のシャッター前にまつりの姿はなく、仕事帰りだった私はしばらく待ってみましたが、結局現れませんでした。次の日も現れることなく、実際に彼女と会うことができたのは、いじめの話を聞いた三日後となりました。


 いつも通り私の帰宅を待ち伏せていたまつりは、しかしその表情は神妙といいますか、達成感とやりきれなさが同じ割合で混ざったかのような、そんな不思議な雰囲気をしていました。


「ねえ師匠。これ見て」


 まつりは表情を変えないまま、一昨日机の落書き画像を見せてきたときと同じような調子で、スマホの画面をこちらに向けてきました。私としては、落書きの仕返しとして一体どんな落書きをしたのだろう、鞄の水没の仕返しに何をしたのだろうと、彼女の感性に興味が湧きました。ですが実際に表示された画像を見て、私は驚愕のあまり二の句が継げませんでした。


 画像は早朝の教室を映したものでしたが、しかしその教室は漆黒に染まっていたのです。


「これ、すごいでしょ。朝早く学校に行ってやったの」


 超大作をアピールする芸術家のような陽気さで、まつりは自慢していました。この、教室全体に黒のペンキをぶちまけた衝撃的で前衛的な光景を。


「……なんか、こういうゲームあったよね」と、ようやく反応することができた私は実にどうでもいいような感想を述べていました。実際に、インクで塗りつぶしていく人気ゲームのようなことを現実で行った結果を見せられても、非日常なインパクトが強すぎて唖然とするしかありません。


 そんな唖然とした私をよそに、まつりは溢れる興奮を抑えながらも、高揚として仕返しのことについて語りました。



 私といじめについて話をしたあの後、まつりは駅前百貨店内にあるホームセンターにて、ペンキをはじめとする必要なものを、父親から支給された生活費を使って買い揃えたようです。そうして翌朝、リュックサックに道具を詰め込んで登校し、まだ誰もいない教室にて仕返しを決行したのです。


 まず始めにしたことは、自身の机の保護でした。落書きがされたまま放置していた机にビニール袋を被せ、机の脚の部分に養生テープを巻きつけることで固定。椅子も同様に養生したそうです。そして誰もいない教室にてまつりは着替えはじめました。学生服を脱いでジャージを着て、ミディアムボブの髪を束ねてタオルで覆い、買ってきた使い捨てマスクで口元を保護。自分の制服を綺麗に畳んで荷物と一緒に廊下へ避難してから、彼女の仕返しは始まりました。


 ペンキは黒色のものを二缶買ってきたようで、そのうちの一つの蓋を開けると、大胆にも教室の中央を目掛けて振り回したのです。当然中身の塗料は遠心力により飛び散り、まるで血飛沫のようにクラスメイトの机を、椅子を、教室の床を塗りつぶしました。



「一発目のペンキをぶちまけたらね、とてもスカッとしたの。これまでの鬱憤が一気に晴れた感じで、最高に気分がよかった」



 まつりは当時の気持ちをそう語りました。


 その後まつりは、缶に残った僅かな塗料で、用意していた刷毛を使ってクラスメイト達の机を塗りたくって回ったそうです。幾人の机を黒のペンキで塗り上げていると、段々と楽しくなっていったそうで、彼女は次第に朗らかな笑みを浮かべながら軽快に笑い声をあげて、ペンキを吸い込んだ刷毛を縦横無尽に振り回し続けました。またその飛沫が、教室を黒く塗りつぶしていきました。


 続けて二つ目の缶も開けて、黒板も、教卓も、ロッカーも、窓も、壁も、扉も、教室にある全てを闇のような黒で支配していきました。そうして教室にあるあらかたのものを黒色にしたところで、駄目押しとして余ったペンキを振り回して、広範囲に黒をぶちまけたそうです。


 そして全てが終わったところで、まつりは自身の机と椅子の養生を解き、まだ誰もいない廊下でペンキ塗れになったジャージを脱ぎ捨てて制服に着替えてから、自身の席でクラスメイト達が登校するのを待ったそうです。



 私は容易に想像できました。最初のペンキを撒いた瞬間に浮かべた、彼女の晴れやかな笑顔を。そしてクラスメイト達の机を塗っているうちに天使のような清らかで澄んだ美しい笑い声をあげて、妖精のような可憐でしなやかで麗しい動作で舞って刷毛を振り回す姿を。小学生が木の枝で柵を引き摺りながら歩くように、ペンキがついた刷毛を引き摺って黒板や壁を黒くしていく様子。クリスマスの飾り付けで窓にペイントするように、黒のペンキで窓を塗っていく様子。空になったペンキの缶を放り投げて、その乾いた落下音を聞きながら教室の真ん中で解放感を満喫する。


 そして最後には、黒一色のアクションペインティングの教室の中、唯一ペンキに染まっていない落書きされた自分の席にてふんぞり返る彼女の姿を。その席で、水に浸されて醜くよれた文庫本を読み耽る。彼女のバイブルであるSF小説。伊藤計劃の『ハーモニー』。「この身体はわたし自身のもの」と主張して反抗したことが全ての始まりとなった物語。真っ白な物語を、真っ黒な教室でページを捲る。



 これがわたし。これがわたしの闇の部分。


 抑圧から脱し自由を追い求めたわたしの意志。


 淘汰されるのは自己を求めるわたしではなく、仲良しごっこの調和を演じる自我のないお前たちだ。


 そうした心の暗部にわだかまる強烈な意志を、彼女は黒いペンキで表現した。



 わたしがわたしであるために。



 私は話を聞いて、そういう光景が脳裏に映りました。



 クラスメイトはさぞ驚いたことでしょう。朝いつも通りに登校したら、自分たちの教室は黒の空間に変り果て、その中でまつりだけが席に座っているのですから。当然問題にならないわけがありません。


 朝の始業のチャイムののち、騒ぎを聞きつけた教師によって、まつりは職員室に連行されました。かつて金髪ギャルで登校してきたときと同様、幾人もの教師がまつりを取り囲み詰問したそうですが、彼女は「クラスの皆の前で話した方が、話が早いです」と一点張りでした。


 そうして他所のクラスでは一時間目の授業がされている最中、まつりのクラスは空き教室に集まっていました。まつりによって教室が使い物にならなくなったので、行き場のないクラスメイトは空き教室に集まるしかなく、その教室にまるで罪人のように連れられてまつりが現れるやいなや、クラス中から殺意にも似た視線の砲火が集中しました。この場は、まさに凶悪犯罪を裁く法廷のようです。まつりは一切動じることなく、普段の席順で座るクラスメイト達の間を抜けて自身の席に座る。当然机には落書きなどありません。


 担任の教師が、クラス全員が集まった空き教室にて、まつりに事の動機を詰問しました。それに対して、まつりは「仕返しです」と答えたそうです。そしてまつりは二学期から始まった嫌がらせの数々や、一昨日の机の落書きのことや、昨日の鞄水浸しのことを教師たちの前で暴露し、そもそもいじめさえなければ教室をペンキ塗れにする必要もなかった、と高々に主張しました。


 当然それらのいじめは、担任も把握しているはずのことでした。とくに机の落書きの件とかは、授業で訪れた他の教師たちも認知しているはずです。しかし大抵のいじめ問題は、いじめられた本人が訴えない限り、教師側から解決しようと動き出すことはないのです。いくらいじめにしか見えないことでも、本人がいじめと認識していなければ、そもそも問題にすらならない。よほど正義感のある熱血教師でもない限り、大抵の大人は残酷なまでに事なかれ主義なのです。


 ただこのようなかたちでいじめの仕返しがあった以上、事なかれで済む話ではなくなりました。教師たちは否応にもなくいじめを正式に認知するしかありません。まつりの仕返しは別途対処するとして、仕返しの原因となったいじめについて解決する方向に話が進みました。というより、まつり自身がそう話を誘導しました。嫌がらせがなければこんなことにならなかったよ、今なら主犯格が謝ってくれればわたしも謝るよ、と、挑発的な態度でクラスメイトを煽り続けたのです。


 最初のうちは無反応でした。しかしクラスメイトの様子を見るに効果は覿面でありました。クラスの全員がまつりへのいじめを把握していますが、自分たちの罪を自分たちで認めない限りこの拷問のような時間は終わらないと、全員が察してしまったのです。そして自らの罪を自ら認めることは、どんな人間でも困難を極めます。


 ただ罪を認めることは難しいとしても、その難しさには個人差があります。とりわけいじめの主犯ではなく、いじめを見て見ぬふりをして傍観していた者としては、あくまで部外者だったと立場を正当化することができるのでした。


「嫌がらせをした犯人はおおよそ予想できるけど、でも誰だか確信なかったから、クラス全員に仕返ししちゃった。わたしの復讐に巻き込んで申し訳ないと思っているけど、でも悪いのは全部わたしをいじめてた主犯格だよ。恨むなら全ての原因である犯人を恨んでね。そうすればこの場も収まるよ」


 と、周囲からすれば実に苛立たしい軽薄な態度で、まつりは煽りました。すると一人の生徒が、名指しでいじめの主犯格を告発しました。


 主犯格とされたのは、最初にまつりに接触してきた、クラスでもリーダー格の女子グループの中心人物でした。便宜上、その上位グループの中心人物である女子生徒のことをA子と呼称します。その名指しされたA子は、名指ししてきた相手がカーストにて格下であることをいいことに、威圧しながら否定しました。しかしその否定は空を切りました。


 そもそもまつりがいじめられるようになったのは、リーダー格の女子グループを拒絶したことによるもので、そのリーダー格の女子グループがまつりに対して敵意を抱いたことが発端です。いわばまつりのいじめは、カースト上位メンバーが主犯として行われていたに過ぎなく、カーストが下位になればなるほど無関係なのです。そして関係が薄い立場ほど、今現在のいじめ犯人捜しの時間は不毛でしかなく、早く解放されたいという気持ちが強くなるのです。


 次々と、カースト下位の生徒が日頃の鬱憤を晴らすかのように、A子を名指ししていきます。数が少ないうちはA子も威勢よく拒否していましたが、告発の数が増してくると威勢は虚勢に成り果て、弱々しいものへと変わっていきました。


 そして場の空気の流れとは時として恐ろしいもので、このカースト下位による下克上の空気が強まった状況において、立場が危うくなったのはカースト上位メンバーです。そのカースト上位メンバー、リーダー格女子グループによるいじめに便乗していた男子生徒や、はたまたグループに所属していた取り巻きの女子生徒たちまでもが、グループ中心人物であるA子を名指しし始めたのです。この場において、誰かが罪をかぶり責任を取らなければならない状況において、上位メンバーたちは一人の女子生徒に全ての責任を押し付け、生け贄としたのです。


 ただまつりとしては、誰がいじめの主犯かは然程重要でもありませんでした。そもそもまつりは誰がいじめの主犯だったのか、いじめの原因からおおよその予測はできていたので、いじめに加担していた誰かが成敗されればそれでよかったのです。


 クラス全体がたった一人の生徒を悪者にして糾弾する中、名指しされたカースト上位のA子は、自身の地位が崩れ落ちていくことを自覚して絶望していた。そのA子に、まつりは席から立ち上がって歩み寄り、見下ろしながら「謝れよ」と酷薄な表情を浮かべて言い放ったそうです。するとA子は、なけなしのプライドによって彼女を睨みつけたのち、激昂して手を振り上げ、まつりの頬を思いっきり叩いたのでした。叩かれたまつりは、すぐさま拳を握り、A子の顔面目掛けて殴りました。殴られた勢いにより、A子は転げ落ちるかのように席から教室の床へと倒れ、ピクリとも動かなくなったそうです。察するに、まつりの拳はA子の顎に命中し、脳震盪を起こしたものと思われます。


 結果として、まつりが殴り返したことにより、彼女のいじめ問題という裁判は、後味の悪いかたちで解決することとなりました。



 話を聞きながら不覚にも、この子は喧嘩の才能もあるのでは、と見当違いな感想を抱きました。なにせ彼女の母親と、そして同級生のA子を一発で沈めてしまったのですから。ですがそれを本人に伝えることはせず、自身の胸の内におさめました。伝えたところで本人も困惑するでしょうから。




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