第17話 表出する悪意(2)




「これを見て」と、まつりは手に持っていたものを私に差し出しました。身体の陰に隠れていたのか、それまで彼女が何かを手に持っていたことにすら気がつきませんでしたが、その差し出されたものは一冊の文庫本でした。白い表紙が印象的なSF小説。伊藤計劃作品『ハーモニー』。まつりの大切なバイブル。しかしその文庫本は水にでも浸されたのか、紙が水を吸い込んでクタクタにふやけてよれていました。


「酷いでしょ。移動教室の授業が終わって自分の教室に戻ってきたら、わたしの鞄がなくなってて、トイレの清掃用の水場に置かれていたの。ご丁寧に鞄を大きく開けて、いっぱいに蛇口を捻って無駄に水が出された状態だった。当然鞄も中身も水浸し。で、教室のベランダで干していたら、昼休みに誰かさんが室内でサッカーかホッケーかしたのか、今度は埃まみれになって床に転がっていた。もうそこまでされるとさすがに使い物にならないから、本当に必要なものだけを回収して全部ごみ箱に捨ててきちゃった。それが今日の出来事」


 机の落書きが可愛く思えてしまうほどに、悲惨ないじめでした。最近の中学生のいじめはそこまでするものなのかと、私は少しだけ戦慄しつつも、あくまで他人事として客観的に話を聞いていました。


「モノはかたちと意味で成り立っている。文庫本というかたちで、わたしが愛読しているという意味が加えられたこの本を、こんな風にしてかたちも意味も損なったってことは、わたしっていう存在を完全に否定しているってことでしょ」


 そう語るまつりは、さりげなくSF小説の受け売りを織り交ぜる。夏休みに貸した、少年と少女型ヒューマノイドロボットとのボーイミーツガールを描いたSF小説。そこでは「モノ」という存在に対して解釈を深めているシーンがあり、まつりはその内容を拝借して自身に当てはめたのです。


「本当に、くだらない」


 まつりは呆れてものも言えないといった様子で呟いていました。同時に、口元が微かに震えていて、呟きに揺らぎを感じました。無理して強がっているかのような不安定さです。


「わたし思ったことがあるの。人間は進化して優れた生き物になっていったとしても、本質は動物のままだってことを。そういうことを、SF小説を読んで実感したの。いくら科学技術が進歩して高度な文明を築いたところで、人間はどうしようもなく野蛮なままで描かれている」


 いきなり何の話をし始めたのか、私は訝しみました。唐突に中二病を拗らせられても話を聞く側としては困惑するしかありません。とりあえず私は、そのまま、まつりに続きを促しました。


「文明を発展させて進化した気になっているけど、実際は生きる仕組みが変わっただけで、生物としては何も進化していないと思うの。社会システムがいくら高尚なものになったとしても、それを生み出し使いこなす人間は野蛮なまま追いついていないのよ。どこまでも感情的、ううん、本能的に行動してしまう」


「とても女子中学生が考えるようなことではないね」と私は茶化しました。それに対してまつりは笑みを浮かべますが、その笑みにはどことなく狂気のようなものを感じられました。


「いじめだってそうだよ。なぜいじめはなくならないのかって、皆口を揃えて言うけど、わたしに言わせれば、いじめなんてなくなるわけがない。だっていじめって人間の本能の部分が引き起こしているんだから。本当の意味でいじめをなくしたいなら、もう人間であることをやめた方がいい」


 まつりはそう主張しました。曰く、大昔は、それこそ人間がまだ野蛮に狩りとかしていた大昔では、生存競争が激しかった。少ない食べ物を仲間で分け与えているうちはいいが、それも破綻すると仲間うちで奪い合いになる。そうして仲間を蹴落として優位に立った者だけが生存して子孫を残すことができ、その結果として野蛮な遺伝子が私たちに受け継がれていると。人類が食料自給をまだコントロールできていない大昔では、仲間うちで間引く必要に迫られたかもしれない。けど今の時代はとても豊かになって、皆で分け与えられるだけの余裕もある。でもそんなの関係なくて、本能として仲間を間引く機能だけ残ってしまったから、人間は集団になった際に誰かを攻撃してしまうのだと。いじめはそういった本能の成れの果て。


 嫉妬や怨恨などの負の感情は、集団を間引くために意図せず抱いたきっかけに過ぎない。自己顕示欲などは、自身の存在価値が集団にとって有益であることを無意識にアピールしているに過ぎない。誰もが自身の隙を見せることなく、他者の弱点を見つけては執拗に攻撃する。それに失敗すると、集団から間引かれるのは自分自身。


 文明が進歩して誰も間引く必要はないのに、無自覚に誰かを攻撃せずにはいられない残酷で可哀想な遺伝。ご先祖様が他者を蹴落として奪い取って生き抜いたのだから、子孫である私たちも生得的に野蛮である。と、ただの女子中学生であるまつりは言う。


 まつりはふやけた文庫本を見つめながら、語り出す。


「この小説にね、糖尿病の話があるの。寒冷期を生きるために糖分が多く必要で、大昔はその糖分を蓄えようと環境に適応して進化によって器官を獲得した。でも今は別に寒冷期でも何でもなくて、そこまで糖分を必要としなくなった。けど身体の機能として過剰に糖分を蓄えてしまう仕組みが遺伝子によって残っているから、現代では病気として逆に牙をむくようになっちゃったって。いじめも糖尿病と同じように、もう身体には不要な機能が現代で害をもたらしているんだと思うな」


 まつりは小説からこのような見解を見出したが、偶然にもこの作者の別作品では、まさに人間同士が殺し合う機能が本能として残っているという話を書いている。彼女がその別作品も読んだのかは知らないが、作家の影響は色濃く出ているように思えました。


「だからわたし諦めてるの。いじめは人間の生物としての本能で、本能なら仕方ないよねって。抗いようのないものだよねって感じ。むしろ本能に抗えない相手の姿を見て憐れんでる」


 自嘲気味に話すまつりに、私は「それでいいのか?」と問いかけていました。


「いじめは本能だという考えはいいとしよう。でもそうなると、いじめとはすなわち淘汰ということになる。淘汰されるものは適応しないでそのままでいるから淘汰されるのであって、要は無抵抗だからやられたい放題ということだ。それは生存本能としては何も解決していない。自分が生き残るためには、淘汰される側ではなく淘汰する側であることを示さなければならなくなる」


 私がそう言うと、「やられたらやり返せってこと?」とまつりが不思議そうに聞き返すものですから、「そういうことになるね」と返しました。私としては、机を落書きされたのなら主犯格の机に落書きし返せばいい、鞄が水に浸されたのなら浸し返せばいい、くらいな気持ちで言った言葉でした。


 人は無抵抗な相手に対して優位性を抱いてしまう。敵視する相手が無抵抗だからこそ、反撃されることを心配する必要がなくなっていき、行動はどこまでも大胆で残忍なものへと発展してしまうのです。これが、いじめがエスカレートしてしまう心理。目には目を歯には歯をといったハンムラビ法典みたいなことは根本的な解決にはならず、むしろ悪手と認識する人もいるでしょう。しかし私としては、ときとしてはやられたらやり返すという手段も有効であるのではと思えます。


「そっか。そうだよね。わたしどうかしてた。意識して気を張り詰めていたけど、無意識に弱気になってたのかも」


 まるで靄が晴れたかのような、清々しさすら感じられる表情で、まつりは空を見上げました。夏の湿気が残っているせいか、肌にまとわりつくような不快な空気が漂っていることもあって、柏の街の夕日は粘度があるかのようにすっきりしない空模様でした。


「クラスの皆がわたしを除け者と扱うなら、わたしはわたしだ、ってことを静かに怒鳴りつけてやって、わたしの意志を示すんだ」


 まつりはそう一人で盛り上がってから、不意に「ねえ師匠」と尋ねてきました。



「ペンキっていくらくらいするの?」



 聞いた瞬間、私は思わず吹き出して笑ってしまいました。机の落書きや水浸しの鞄をそのまま仕返しするものだと思っていたので、まさか油性ペンや水道水ではなくペンキという倍返しで仕返しするとは考えもしなかったのです。そのことについて突っ込むと、「いろいろ込みで、まとめていっぺんに仕返し」と実に楽しそうに言ったものですから、私は妙に納得させられました。


 ホームセンターでのペンキの値段を適当に答えてから、「ペンキを使うなら扱い方気をつけてよ」と忠告をしました。ペンキに関係なく塗料を扱うときは、塗布しない箇所をシートやテープでしっかり養生した方がいいとか、ジャージみたいな汚れてもいい恰好で帽子なりタオルなりで頭も覆いつつ、マスクをして呼吸器系を保護した方がいい、などといったアドバイスをしました。


「うん。わかった。師匠ありがとうね」


 そうしてまつりは年相応の愛らしい屈託のない笑顔を浮かべましたが、しかしこれから彼女のやることを考えれば、それはまさに悪魔のような笑みでしかありません。


 自称悪い子であるいい子を怒らせると恐ろしいことになる、ということを、彼女のクラスメイトは身をもって体感すると考えると、あくまで無関係な立場でしかない私は野次馬のような高揚感を覚えました。正直に告白すれば、次に彼女と会った際に、事の顛末を柏の路上で聞くのが楽しみでなりませんでした。


 そうしてその日は、決意に燃える彼女を見送りました。




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