第8話 まつりの事情(2)




 まつりはなおも続けます。


「わたし、多分もう限界だったんだよ。自分を押し殺し過ぎて気持ちが圧縮されちゃって、過激な感情しか湧いてこなかった。全部全部ぶち壊して更地にして自由になりたいって心の底から思ったの。で、金髪にした」


「なぜ金髪に?」と私が聞いたのは、自由と金髪が線で結びつかなかったから。


「学校とか家とかに反発するのが不良だと思っていて、じゃあ不良ってなんだろうって考えたときに、やっぱ不良は金髪かな、って思ったの。わたしにとって不良はそういうイメージだった。皆が同じ黒髪の教室に、一人だけ金髪の子がいたら、それだけでアウトローな感じがするかなって」


 私はたまらず「短絡的だね。でも悪くない」と微笑みながら茶化しました。それに対してまつりはクスっと吹き出すかのように笑みを浮かべていました。実際、不良すなわち金髪だというパブリックイメージは前時代的であって、真面目な話をしている最中でも私はおかしくてたまらなかったです。そしてまつり自身も同様に思っていたからこそ、私の反応に笑みを浮かべたのではないだろうか。


「ママが知らない美容室に予約して、ママの財布からお金をくすねて、学校をさぼって金髪にしているそのすべてで、ずっと心臓バクバクだった。わたし悪いことしているんだって思ったら、興奮が止まらなかった。わたし自分の意志で生きているんだって、このとき身に染みて感じたの。金髪にするのってすごく時間がかかって、結局家に帰ったのはいつも学校から下校する時間だった」


 金髪にしたエピソードを嬉々として語るまつりは、しかし続く「でも……」という言葉で消沈する。


「家に帰ったらママが激怒した」


「当たり前だね」


 これまで語られた母親像を考えれば、当然の反応だった。


 母親は帰宅したまつりに、学校を勝手に欠席したことを咎めようとしたものの、その娘が髪を脱色して金髪になって帰ってきたものだから、親として言葉を失うしかなかった。そして言葉を失ったからこそ、母親は物理的な手段で咎めるしかありませんでした。


「わたし、あのとき初めてママに叩かれた」


 まつりは左の頬を撫でながら語ります。自分の親に平手打ちされた痛みが、未だに忘れられないと話す。


 母親に暴力を振るわれたまつりは、数拍の間思考が止まったという。しかしそれがまつりの激情に火をつける結果となりました。



 まつりは母親を殴り返したのです。



 これまで十二年間に及ぶ圧縮された感情が爆発し、渾身の一撃として母親に拳を振るった。その一撃はきれいに急所に入ったのか、はたまた不意打ちで対処できなかったのか、母親は一撃で床に倒れ伏せてしまった。


 子供が大人を殴り倒す。事実としてはそれだけのことですが、こと彼女の家庭にとってはそれ以上の意味合いがそこにはありました。これまでまつりを支配し抑圧していた母親が、たった一撃で倒してしまった。その事実はこれまでの親子関係を崩壊させるには充分でした。



 親は弱い存在であることを、まつり自身と、そして母親自身に、痛烈に突き付けられてしまったのです。



 まつりは本能的に、自分の母親は自分より下位の存在であることを認識してしまった。そして抑圧された感情が放出され我を忘れている彼女は、まさに動物的な行動をとってしまう。まつりは倒れた母親に馬乗りになり、上から振り下ろすように拳を叩きつけた。何度も、何度も。母親が腕で頭を庇うように守っても、その隙間を縫うように彼女の小さな拳が降り注ぐ。


 そうして殴り続けたあるとき、まつりは母親の腕を剥がし、顔面に一撃を与えようとした。その際に、親子の視線が交わりました。お互いの表情を見合ってしまったのです。まつりの鬼のような形相と、母親の怯えた顔が交差。それがこれからの親子の関係を決定づけてしまったのです。結局まつりは母親の顔面を一発殴ってから部屋に閉じこもりました。部屋の外から母親のすすり泣く声が木霊し、彼女はただただ耳を塞いで夜を明かしたそうです。


 その翌日、母親は自室から出てこなかった。まつりはまつりで、母親のことを意識しないようにして登校の支度をする。せっかく金髪にしたのだから普段通り家を出るのはもったいないと考え、まずメイク道具を揃え、ネットで調べながら化粧をした。初めてにしては上出来なのではと思えたところで、中学校の制服を着る。この制服も、スカートは何回も折って丈を短くし、胸元が見えてしまうのではないかというくらいにボタンを外して、典型的なギャルの装いにした。


 そうしていつもの何倍もの時間をかけて支度し、実際に学校についたのは昼休み直前でした。盛大に遅刻したにも関わらず堂々と廊下を進み、授業をしている自分の教室の扉を派手に開け放つ。そうしてクラスメイト全員が注目するも、その注目の先には変り果てたまつりの姿があったものですから、教室中のリアクションが容易に想像できました。


「何人かはすぐにわたしだってわかったみたいだけど、ほとんどの子は、わたしが自分の席に座るまでわたしだってことに気がつかなかった。あのときの唖然とした皆の顔、すごく爽快だった。わたしずっと威嚇するみたいにムスッとしてたけど、内心は最高に気持ちがよかった」


 そう語るまつりは実に楽しそうでした。


 しかしその行為はただで済むわけにはいかない。髪を金髪にし、化粧を施し、大胆に制服を着崩していれば、当然教師は黙っていない。まつりはすぐさま職員室に連行され、何人もの先生に囲まれ事情を詰問されても、彼女は黙秘し続けたそうです。


「正直言うとすごく怖かった。でもここで負けちゃダメだと思ったの。こうして自分の意志を示したのだから、どんな結果になっても最後まで意志を貫き通さなきゃって。わたしの求めた自由はこんなものじゃないって感じで、歯を食いしばって先生を睨み続けたの」


 その姿は、さながら威嚇する猫のようだと、私は感じました。ちょうどまつりの目は大きくて目尻がややつり上がっているものですから、ときどき彼女と猫が重なるのです。まつりの職員室のエピソードを聞いた私は「強いね」と短い言葉を送ると、彼女は凛としたすまし顔をして、それがまた猫のように見えました。



 結局保護者である母親が呼び出された。まつりの母親は終始頭を下げて謝罪し、すぐに元に戻させることを確約して、彼女を連れて学校をあとにした。帰り道も、自宅に帰宅してからも、まつりの母親は何も言わなかった。言えるわけがなかった。実の娘に殴られ組み伏せられたばかりなのですから、母親は本能としてまつりに戦慄していた。咎めればまた殴られてしまうのではと、トラウマとして刻み込まれたのです。そのため母親はまつりを放置して自室に引きこもってしまいました。


「それから、ママは病んじゃった」


 熱心に英才教育をし、有益な友人関係となるよう徹底して管理していた娘が、ある日非行に走り、あまつさえ自分に襲い掛かったのです。重度の鬱状態となってしまうのは想像に難くない。私の素人としての見解ではありますが、おそらく心的外傷後ストレス障害に陥ったのではなかろうか。それほどまでに、まつりの母親は精神的に崩壊してしまった。


「それで結局、ママは死んじゃった」


 まつりが何事もないかのように言うものですから、私はその言葉が意味することをすぐさま理解できませんでした。


「事故死だった。でもわたしにはわかるんだ。ママは自殺したんだってことが。ママはわざと道路に飛び出して、撥ねられて死んだんだって。偶然なのか相手も過失がある運転していて、ママも即死だったみたいだから、ママの死は不幸な事故として片付けられちゃったけどね」


「……そんなに、自分の母親が亡くなったのに、そこまで明るく話すことなの?」


 自分の親の死を語るまつりは、実に快活としていました。まだ両親が健在している私としては理解し難い態度であり、私は初めて彼女に違和感を覚えました。


「わたしね、ママの葬式で泣かなかったんだ。むしろスッキリした。これで晴れて自由になるんだって思ったら、身近な人が亡くなった悲しみよりも、これからの解放感の方がまさったの。ママさえいなければ、わたしは自由に生活することができるの。わたしがわたしでいられるっていう、本当なら当たり前のことが、こんなにも素晴らしいものなんだって、このとき一番実感したんだ。それが去年の冬の話」


 そう朗らかに語るまつりを見て、私は先程語られたばかりの彼女の半生を思い出しました。


 この子は、度が過ぎる英才教育と徹底した人間関係を、母親から強いられて生きてきたのです。それによってまつりは自分自身を押し殺して、抑圧して、圧縮していた。だからこそすべての元凶、諸悪の根源である母親がこの世から去ったことに対して晴れやかな気持ちになるのは、もしかしたら正しい感情なのかもしれない。


 まつりは母親に対して、愛情よりも憎悪の感情で占められているのかもしれない。それは本人に自覚はなくとも、潜在的な意識として。


「それで学校に行かなくなったのは、母親が亡くなったせいなの?」


 私の問いに、まつりは否定しました。


「ママが死ぬ前も死んだ後も、わたしは金髪のまま学校に通ってたの。ママに反抗した時点で自由になれた気がしたから、きっかけとしては金髪にしてよかったと思ってる。でも、やっぱり金髪って目立っちゃうの。自由な人付き合いがしたくて行動したのに、クラスメイトからは腫れ物に触るような扱いされちゃうし、上級生からは目をつけられちゃうしで、むしろ金髪にしたことで目標から遠ざかっちゃった。今更黒髪に戻しても元のような関係には戻らないよ。皆がわたしを異端として避けてる。余計に、過剰に居場所を壊しちゃったから、学校に行きづらくなっちゃったんだ。全部自業自得だけどね」


 まつりは自身の金髪の毛先を指で弄びながら、健気に話している。



 彼女は自由を求めて意志を示し、その結果自由は得たもののそれ以外が崩壊した。そのことに言い知れない虚しさを感じると、彼女は語った。



 自由になることとは、すなわち孤独になることなのかもしれない。



「こんなはずじゃなかったんだけどなー。どこで間違っちゃったんだろう……」


 こんなことを言うのはどうかと思われるが、仮にどこで間違ったのかという話ならば、きっと最初から間違えていたと思います。あの母親から生まれた時点で、まつりの人生は大方間違った方向に動き出してしまったように思えてなりません。


「そう思っていたときにね、ここの駅前の路上ライブを見かけたの」


 そう言ってまつりは前方を指さした。そこには夜の繁華街を行き交う人々の姿だけがあり、路上で演奏している人は誰もいませんでした。語り始めは夕方でしたけど、いつの間にか日は隠れていて、空にはわずかに茜色がこびりついている程度でした。駅前の街灯も気がついたら点灯していました。


「わたしが求める自由が、そこにある気がしたの」




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