第4話 帰り道の遭遇(2)
「どうした? 何かあったの?」
開口一番、私はそう尋ねました。彼女は一度鼻をすすったのち「ずっと待っていました」と涙声で言います。次いで「ギターが壊れちゃいました」と告げ、そして「他に頼れる人いなくて……」と瞳が潤み、今にも泣き出しそうでした。
急な事態にうまく状況が呑み込めていないが、楽器が壊れたというのであれば状態を見ない限りなんとも言えません。「ギターを見せて」と私が言うと、彼女はギグケースのファスナーを開けて中身を取り出します。
「さっきそこで演奏始めようとしてチューニングしていたら、いきなりバーンって……」
「なんだ。弦が切れただけか」
あまりにも大袈裟な雰囲気だったので
症状としては、一番細い高音弦がペグの辺りで切れていました。どうやらチューニングのためペグを回して弦を巻き取った際に、弦が巻き取りに堪え切れなかったようです。切れて力なく垂れ下がっている弦を観察するに、金属の弦が錆び始めていて劣化していました。これは切れても仕方がない。他の弦も同様に劣化が見受けられました。以前チューニングとネックの反りを直したときに、ついでとして弦も指摘しておくべきでした。
「弦は消耗品だよ。また張り替えれば問題ない」
「弦って張り替えるものなんですか?」
きょとんとした様子で彼女は疑問を口にしたが、楽器に慣れ親しんでいるこちらとしてはかなりの問題発言でした。驚愕を禁じえません。
「もしかして、弦を交換したことないの?」
そう尋ねると、彼女は小さく頷いた。察するに、リサイクルショップで購入してからずっとそのままの弦だったのでしょう。というかリサイクルショップなら、楽器店が扱う中古楽器とは違い、買い取ってから簡単に磨いただけでそのまま店頭に出していそうです。そうなるとこの弦は前の持ち主が張り替えたのが最後となると思われる。楽器の専門家として卒倒しそうになりました。
「わかった。今日は弦の張替えを教える」
そうして向かったのは柏駅から近い楽器店でした。弦交換をするにはなによりもまず弦を調達しなければなりません。私は別に楽器の行商人というわけではないので、さすがに替えの弦とかは持ち歩いていない。
仕事柄様々な楽器店に入っているので、特別なこともなく普通に入店します。一方彼女は気後れがちであり、終始怯えていました。入店後も決して私から離れようとはしません。「どうした?」と尋ねると「慣れてなくて……」と答えます。それを聞いて懐かしい気分になりました。私も初心者の頃は楽器店に入るのに勇気が必要でした。専門店だからか分不相応な気持ちに陥るのです。楽器業界に関わって親しくなった知り合いに聞いてみたら、皆同じ経験をしていたものですから、やっぱりそういうものなんだなと感じて面白かったです。今では、おそらく店頭にいるどのスタッフよりも私の方が詳しい。私は彼女から微かなノスタルジーを感じ取ったのでした。
あまり長居すると彼女のメンタルが心配になるので、素早く目的を果たす。初心者の彼女は弦の種類とかまだよくわからないだろうから、今後は今日買った弦のパッケージを頼りに同じものを購入するでしょう。そうなると子供でも負担の少ない低価格であり、なおかつコストパフォーマンスに優れた良質なものを選ぶのがよさそうでした。職人としての知識を最大限に活用して、店頭在庫の中から最良の弦を選び抜く。他にも弦の張替えに必要な道具一式も購入することにしました。一式といっても、ペグを巻き取る手動のワインダーくらいでしたけど。余分な弦を切るニッパーは近くの百円ショップで調達するつもりでした。
レジにて「あの、お金は……」と謙虚な彼女は心配してきました。それに対して「子供がお金の心配するもんじゃない」と一蹴した。生意気な子供なら絶対に金を出しませんでしたが、彼女は金髪の容姿に反して真面目で思慮深いとてもいい子である。これくらいの待遇は受け取っても
店を出たあと、私たちはいつもの閉店した百貨店のシャッター前に戻ってきた。このときになって気がつきましたけど、この日は金曜日でした。週末だからなのか、他の路上アーティストが駅周辺で仕事帰りの人を狙って熱唱していました。昨日まで彼女しかいなかったのに週末になった途端登場したので、まるで湧いて出てきた虫のようでした。路上の事情は詳しく知らないけど、明日からの休日はもっと多くのアーティストが演奏するでしょう。
駅舎の目の前に陣取っている地位が高いだろうアーティストの演奏をBGMに、私たちは路上にしゃがみ込んで弦交換の作業を始めました。ギターの弦は六本あるので、うち両端の二本はお手本として私が張り、残りの四本を練習として本人にやらせました。一応説明しながら手本を見せたけど、彼女は呑み込みが早くすぐさまコツを掴んでいました。いい子はなんでもこなせる多才なのだろうか。逆に多才な子がいい子になるのだろうか。私は独身でこれまであまり子供と関わりがなかったのでよくわかりません。
「弦が捩じれた状態で張ってしまうと演奏時の弦振動がおかしいことになるから、指で伸ばしてから張るように」「指で弦を引っ張り、適度に張力を加えながら張るといい」「引っ張り過ぎて弦に癖がついてしまうとこれも弦振動がおかしくなってしまうから、力み過ぎないように」「弦はペグに巻きつけるのではなく、ペグを回して巻き取るようにしていくの」「弦を張ったら軽く引っ張って馴染ませてあげるといい」こういったアドバイスを、彼女は熱心に聞き取り活かしていく。初心者にとって弦交換は難易度が高い作業になりますけど、彼女は驚くほど上達が早かった。
時間をかけながらも六本すべての弦を張り終え、チューニングをして音を確認する。これまでとは様変わりしていて、煌びやかで張りのあるしっかりした音が響く。彼女は「弦が新しくなるとこんなに音が変わるんですね」と明るく微笑んでいました。ちょっと前まで泣いていた女の子とは思えません。
「弦は錆びるまで使わなくていい。むしろ錆びた弦は怪我するから危ない。音に張りがなくなったとか、弦がくすんできたとか、そういうわかりやすい劣化が出てきたら替え時よ。演奏頻度にもよるけど、プロではない一般人ならおよそ一ヵ月か二ヵ月くらいで交換かな」
そうアドバイスすると彼女は「わかりました」と言って頷いた。
この段階になって、私はようやく気がつきました。
「ねえ、帰り大丈夫? 門限とかないの?」
弦の張替えに夢中になっていたので気がつくのが遅れたが、時刻を確認したら二十時を回っていた。子供が出歩いていい時間ではない。いやでも昨今は塾とかあるから遅い時間でも出歩く子供は多いのだろうかと考えるも、感覚としてこのまま一人で帰宅させるわけにはいかない気がしました。かといって所詮赤の他人が女の子の家まで送っても大丈夫なのだろうかとも思いました。場合によってはタクシーに乗せて家に向かわせればいいと考えるも、子供が一人でタクシーに乗っていいものかすぐには判断できなかった。独身特有のさがなのか、子供についての対応では役に立ちません。
「大丈夫だよ。家はそこのマンションだし。というかマンションここから見えてるし。徒歩二分もかからないよ。それに、親もわたしのことなんかなんも気にかけないし」
私がいろいろと気を揉んでいると、彼女はなんてことないかのように平然と言ってのけた。それは全く気にしていないというよりは、家庭の事情が好都合であるのと同時に寂しさを感じているような、そんな相反する感情が打ち消し合って中和されたかのように思えました。
真面目で律義で思慮深く、相手を敬い確かな語彙力もあって教養の高さが窺える。そんなよくできた子が髪を明るく染め上げて、夜の繁華街を歩いている。加えて繁華街すぐそばのいい立地の高層マンションに住んでいるのに、親は子供に無干渉。何もないわけがない。
やはりこの子は、何か事情を抱えているようでした。
正直に言えば、このままこの子を一人で帰らせるのはよくない。もし事件に巻き込まれたら私の目覚めが悪い。そういう自分本位な、自分勝手な理由で私は彼女を心配していた。
一方で、わけありの子供にこれ以上深く関わっていけないと、私の理性が警鐘を鳴らしていました。何かよくないことに巻き込まれるのではと考えてしまいます。
「……わかった。気をつけて帰るんだよ」
家まで送るか、それともここで別れるか。二つがせめぎ合った結果、後者の方が勝ってしまった。どちらを選んでも罪悪感を覚えてしまうが、後者の場合は加えて情けなさも感じでしまう。
そんな私の心情を察することもなく、彼女は無邪気に別れを告げて、大きく手を振りながら柏の街に消えていった。方向的にちゃんとあの高層マンションへ向かっているようでした。
私はしばらく、さっきまで二人でいたシャッター前で立ち尽くしていた。数分ののちスマホに通知が入る。画面を確認してみると仕事用に登録しているSNSの通知であり、ダイレクトメッセージが来たことを知らせていた。操作して内容を確認してみると、この前フォローし返した例の「まつり」なるアカウントからでした。
『無事帰宅しましたー』
適度に装飾したメッセージが送られていた。やっぱり、「まつり」はあの子のアカウントだったようです。このときはまだ「まつり」が本名なのかはわからなかったですが、ひとまず以降の彼女の呼び方は把握できました。
私は自分の家に帰る最中、まつりからのダイレクトメッセージになんて返信するか考えました。自分よりはるかに年下の女の子になんて返信すればいいのか見当もつかなかったので、返信までかなりの時間を要することになりました。
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