004


 学校を終え、庵は帰宅後ずっとベッドに寝転がっていた。

(双市さんの、連絡先)

 携帯電話の画面とにらめっこしている時間が続く。もうずっとこのままだ。意中の相手の名前を何度も何度も目で追う。名前を頭で反芻するたびに、彼女のことが浮かんでくる。

 当然だが、連絡先を手に入れても、電話をしなければそれはただの飾りでしかない。

 ずっと双市円の連絡先を眺めている。だが、彼女はあと一歩が踏み出せずにいた。初めて恋をした。初めての経験。友人として人を好きになることはあった。だけど、相手を想い、こんなに胸がきつく締め付けられるような気持ちは初めてだ。

 放課後の別れ際に渚に言われた言葉を思い出す。

『まずは連絡しなさい! 話はそこからよ』

 水泳部の彼女は廊下を明朗なペースで去って行った。

(って、言われてもね……)

 電話は得意だと思う。いつも渚と長電話して、気づけば数時間なんてこともある。家は近所であっても、わざわざ会わずに。手軽に他愛のない話ができる。

 でも、今回は相手が渚ではない。相手は好きな人だ。どんな感じで話せばいいのか、どんな話題が好きなのか、果たして私のことをどう思っているのか――。

 考えれば考えるほど、電話をかけようとする手は止まる。停滞したまま経ち続ける時間は、ゆるやかな焦燥へと還元されていく。

 このままでは何も手が付けられない。庵は意を決して携帯の画面から目を離そうと決意して、ボタンを押した。

「あ」

 彼女が押したのは連絡先の画面を閉じるボタンではなく、通話のボタンだった。刹那の思考停止、そして我に返るのは一瞬だった。

 待って待って待って。

 頭の中でずっとそのフレーズが流れる。切るならすぐに切るべきだった。押してすぐなら、何も起きないはずだった。もう、これはあちらに通知が入ってしまったかもしれない。すぐに切るのは相手に悪いのでは……。

 ネガティブな思考に陥っていく。その間もコール音は鳴り続ける。あと少しだけ待って出なければ切ろう。それなら自分の気持ちも保てる。

 コール音は突然消えた。誰かが出たのだ。 

『はい、双市です』

 言わずもがな、双市円が明るい口調で電話に出た。もうすぐ切るつもりで、ちょっぴり安心していた気持ちが一気に緊張感になったのが、自分の額からどっと流れた汗によって理解した。

『もしもし?』

「あ……えっと……」

『あれ……もしかして、枝空先輩ですか?』

「! そ、そう。枝空庵」

 思わずフルネームを言ってしまう。通話先から「アハハ」と軽く笑い声が聞こえる。

『声でわかりました! 知らない番号から電話来てちょっと怖かったんです。考えてみたら、先輩の連絡先、聞いてませんでしたね。一方的に教えちゃってましたね。電話終わったら登録しておきますっ』

 彼女はいつも通りだった。跳ねるように元気な語尾で無邪気な愛らしさのある声。そして何より、声だけで自分だと気づいてくれたことに、喜びがこぼれる。

『早速かけてきてくださって嬉しいです! 何か御用ですか?』

「いや、えっと、あの……」

 直接会っても、こうして電話越しでも緊張はいつも通り存在した。

「きょ、今日は連絡先を教えてくれてありがとう」

『こちらこそ! でも、びっくりしちゃいました』

「え、なにが?」

『実は私も、枝空先輩に連絡先聞きたいなって思ってたんです! そしたら先輩から教えて欲しいって言われて……えへへ、私たちってですね』

 庵はその言葉に固まった。

 

 まさか、意中の相手からそんな言葉を聞くことになるとは思っていなかった。言葉の綾だとわかっていても、心は弾んでしまう。

「そ、そうだったの。良かったわ」

 今すぐにでも飛び跳ねたい気持ちを抑え、息を整えて、庵は返事をした。

 胸の高鳴りは収まらないが、円の言葉で少し安心している自分もいる。少なからず、嫌われていないということは確認できた。

「でも、その後大変でした」

 ポツリと円が言う。

「大変?」

「はい。先輩に連絡先を教えた後、色んな人に連絡先聞かれちゃって……」

 その言葉に、庵は絶句せざるを得なかった。


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