003

「どうしようどうしようどうしよう」

 自分の教室に戻ってきてからというもの、庵は同じことばかりを繰り返し言っていた。彼女が見つめているのは自分の携帯だった。そこには『双市円』という文字が躍っている。

「わ、私の携帯の中に……か、彼女の……連絡先が」

「そこまで言うようなもん?」

 感動している庵を冷ややかな目で見る渚。そんな視線など気にせず、庵は喜びに浸っていた。

「信じられない、さっきまで名前しか知らなかったのに……」

 ハンカチを拾って話すようになって以降、雑談すらまともにすることがなかった間柄だった二人が、連絡先を交換するというのはステップアップの段階が著しい。

『私の連絡先です! 枝空先輩だったらいつでも大歓迎ですっ』

 キャラ物の可愛いメモ帳に丸文字で書かれたメモ帳を見ながら、円にかけられた言葉を思い出す。自分だけに向けられた笑顔は、いつも以上の可愛さと特別さでどうしようもない感情に苛まれる。母性本能と恋愛感情が鍔迫り合いをして、彼女に対する感情は更に混沌カオスを極めていた。

「……ああああああ」

 頭の中で処理しきれなくなり、庵は机に突っ伏して声を上げた。親友の褐色娘は、その庵をジトっとした目で見つめていた。庵は以前のような『恋愛を知らない女の子』ではなくなった。

 彼女は、本物の純情恋愛乙女ピュアラブガールになってしまったのだ。

 ふと頭を上げて、渚の手を取り、

「渚には感謝しかないわ……」

 と強引な手を使った友人に言う。

「はいはい。いつものことよ」

 潤んだ瞳で礼を言う友人の頭をポンポンと触れる。

 小学校の頃、虫が触れないのに無理矢理カブトムシを掴ませて克服させたり、泳げないのに足がつかないプールで泳げるようにしたり、辛い物が食べられない(と思っていた。いわゆる食わず嫌いである)庵に香辛料がどっかり入ったタンタンメンを食べさせたりと、思い出すとキリがないくらいである。

 ……本人がお願いしているわけではないのだが、結局は虫はある程度触れるようになったし、泳ぎもマシになったし、今では辛い物が好きになっているのだから、彼女の手口にはある程度評価をしている。

 もちろん、良くない結果を招いたことも少なくないのだが。

「それにしても円ちゃん、可愛かったわね。なんていうか愛嬌が、ヤバい」

「わかる!? そうなの、そうなのっ」

「仕草も声も表情も完璧というか」

 庵は大いに頷く。渚にも、彼女の魅力が理解できることに嬉しさが込み上げてくる。既に下の名前で呼んでいる点が気にかかるが、この際どうでもいい。

 共感というものは、それほど気持ちの良いことなのだ。

「あー、でもさ。競争率高そうね」

「……競争率?」

 不穏な単語に、幸せのお花畑満開状態であった庵は固まった。渚は、なにやら不気味な笑みを見せている。

「うん。あんな娘、男子が黙ってるはずないわよ。アンタ、円ちゃんがこっちに来た時周り見てなかったでしょ」

 不思議そうに首を一度傾げる。その後、素直に頷く庵を確認して、渚は続ける。

「男子、ほとんどこっち見てたのよ。しかも、彼女を目で追ってね」

「!!」

「気づいてなかったかもしれないけど、私たちに呼び出されるまであの娘は男子と話してた。うちの後輩は呼び捨てしてたのも踏まえると、男女共に仲が良い」

 わざとらしい溜息を吐いて、更に渚は双市円についてこう結論づけた。

「いわゆるとみた。あの娘、間違いなくクラスの人気者。そして、これからクラス外でも人気になっちゃうかもね」

 やれやれと肩をすくめて、渚は次の授業の教科書を取り出す。昼休みがもうすぐ終わる頃で、教室にはぞろぞろと生徒が戻ってきていた。

「絶対に、嫌」

 ひとちるように庵が呟く。

「わ、私はあの娘を愛でたい。誰かがじゃなく、私が愛でるの」

 その様子を見て楽しそうにしているのは渚だ。

「庵、よく言った! それで、これからどうするの?」

「ま、またそれ……?」

「当たり前じゃない。思い立ったらすぐ行動しないと!」

 肩を軽く小突かれる。渚の、催促する常套手段だ。

「え、えーっと……」

「うん」

「…………」

「…………」

「……ど、どうしたらいいのかしら?」

 庵の不安げな発言と同時に、チャイムは昼休みの終了を告げた。

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