その十 杉原爽香シリーズ(下) 暗黒のスタートライン ~シリーズ物に潜む陥穽~

 赤川次郎は人気作家である。

 そして、人気作家であることを最大限に利用、あるいは悪用している作家である。

 読者の人気が重要なシリーズ物でさえ、「どこまでなら許されるのか」というラインを見極めたうえで、そのラインの上を超えてしまうのが赤川次郎なのだ。



 前回の項目で書いた通り、『杉原爽香シリーズ』は一般的なシリーズ物長編作品と違い、作中にも現実世界と同じ時間が流れているシリーズである。

 言い換えれば作中の登場人物たちが年を取り、老いていき、人生が積み重なっていくという事でもある。つまり「リセットできない」のだ。

 別に年を取らないシリーズ作品だってリセットしてないのでは、と思うかもしれないが、実は巧妙に取捨選択している事が多い。万が一やり過ぎてしまったとしても、後の作品で影響を及ぼさないような部分だけ取り出せばいいのだから。

 だが、『杉原爽香シリーズ』でそれは不可能である。一度作中で起った事は全て登場人物たちに影響を及ぼし続ける。前の作品で恋人と別れたら次の作品では別れたまま話が進み、病気になった人は後遺症やリハビリに苦しむ。

 前置きが長くなったが、それが普通のヒューマンドラマならまだしも、ミステリだと一体どういう影響を及ぼすのか、というのが『杉原爽香シリーズ』の一番大きな特徴だといっていい。特に今回紹介するシリーズ九作目『暗黒のスタートライン』ではそれが顕著だ。

 ただ『暗黒のスタートライン』の面白さと衝撃を完璧に味わうためには、当然のことながらシリーズを一作目から八作目まで読まないといけない。相当なハードルの高さであることは承知だが、機会があるのならなんとか乗り越えていただきたい。『カーテン』を読むためにポアロシリーズを通読するようなものだと思ってほしい。

 そして、今作については完全にネタバレしないとその衝撃と物語の大きな特徴を語る事が出来ないので、これからを目にするときは注意して欲しい。

(この先今作のネタバレがあります)





 『暗黒のスタートライン』の、そしておそらく『杉原爽香シリーズ』を書くにあたって最初から赤川次郎が用意していたと思われる最大のテーマは、シリーズ物のレギュラーキャラが殺人者になってしまったらどうなるのか、という事である。

 普通なら「レギュラーキャラが殺人の容疑を掛けられるが主人公と仲間が事件を解決し濡れ衣を晴らす」というのが王道にしてほぼ唯一の道だろう。もちろんそうではない物語も多数ある。「犯人だと思われていた人物が無罪かと思ったら有罪だった」というのはむしろ一部のミステリとしてはお約束かもしれない。ただしそれは一作だけの登場人物ならば、である。

 『暗黒のスタートライン』で殺人者となってしまうのは、主人公の恋人であり、シリーズ一作目から登場しているキャラクターなのである。その衝撃たるや半端なものではない。

 ただ、単に意外だから、ありえない展開だからという事でこうしたのではないということは間違いない。そもそも赤川次郎は様々な作品でシームレスに殺人を犯す人々を時にユーモラスに、あるいはエキセントリックに描いてきた作家である。良く揶揄される「あまりにも警察官の犯人が多い」も、人間というのは全て殺す者と殺される者のどちらかにすぎない、という事なのだろう。

 そういった殺人者になってしまう身近な人、をユーモア・ミステリではなく、大河ドラマ的な文脈で導入したのが、『暗黒のスタートライン』だったのだ。


(ネタバレ終わり)


 今作はテーマがずっと温めていただけあって、作者自身もかなり気合を入れて書いたのが分かる。特に準レギュラーだった中丸教授のクズっぷりは赤川次郎ワールドに出てくる「罪は犯さないが人間として驚くほど罪深い」キャラの中でもトップクラスで、外道ぶりをこれでもかと発揮し、物語をその負の魅力で牽引している。

 全編にもサスペンスがみなぎっていて、ただシリーズ物としての展開がおかしいだけではなく一冊の小説として面白く出来上がっている。


書誌データ

1996年9月光文社文庫

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