第4話 食卓を囲む

 亡くなった父親と母親の肖像画が絵描きによって届けられ、それはメイド長の指示で談話室にかけられた。丁寧に磨かれた暖炉の上にかけられ、片方は気高く、片方は柔和に、面影を永遠に留められていた。

 小さな主は誰もいなくなってから、談話室に行くと、自分を見下ろすその絵を眺めていた。

 眺めるのにも疲れると、暖炉の前におかれたソファに腰かけて、ゆっくりと背もたれに深々と背を預ける。大人の体にはぴったりなはずのソファは小さな主の体には広く深すぎる。だらしがない、と生前なら母親に膝をはたかれたような格好も、誰も咎めはしない。静けさだけが体を包んでいくのを感じている内に、ふと、ああ、ここに吊るされていたシャンデリアが無くなっているのは、誰かが持っていったものだろうか、と小さな主は気づいた。

 明るいうちは明かりが必要でないから気づかなかったが、すっかり日も暮れて部屋が暗くなれば、わかってしまう。当たり前にあると思っていたから意識しなかったものが、無くなって意識される。

 ソファにそのまま沈み込んで埋もれて自分が無くなってしまうような、底なしの感覚に囚われそうで、バッと慌てて体を起こすと廊下に飛び出す。廊下にも明かりはついていなかった。日が落ちきってしまえば、闇に呑まれてしまうだろう。遠くの扉から明かりが漏れているのが一筋見える。そこまで駆けていく。

 手が慌ててドアノブをつかみ、扉を開けた。ふわり、とスパイスの香りがした。厨房だった。

 手にココット皿を持ったメイド長と目が合う。メイド長はまぶたをパチパチとしばたかせる。

「坊ちゃん。何かお気に召さないものがございましたか。そうであっても、主たるもの、このような炊事場に顔を出されてはなりません。食卓の間にて、ゆったりと椅子に構え、ブドウジュースでも片手にくつろいで威厳を持って、気に入らないことがあれば食卓の上のベルを鳴らしてわたくしめを呼びつけることこそ王道です」

「いや、そうではなくて」

 ここ数日の大して変わり映えのしないメイド長で、小さな主の気が一気に抜ける。しかしそれを悟られまいと、少ししかめ面をした。

 メイド長の顔が輝く。

「そう、そんな感じです、いいですね、ちょっとお眉をくしゃっとしていただくその感じ、素晴らしいです」

「うん……。いや、そうではなくてだな。あー、えーっと、そう。お前が、夕飯にも何かするのではないかという嫌な予感がしたのであって」

 思いついたことを口にしただけであったが、口にした途端に本当に夕飯に何かしていないか確認するべきだ、と頭が冴え始めた。

 メイド長は朗らかに笑う。

「何かって……自分のご主人様に何かするようなメイドなんているわけないじゃないですか」

「紅茶は何かではなかったのか」

「紅茶……? 坊ちゃんのお好きな銘柄をお出ししたと思ったのですが、今日はそのようなお気分ではございませんでしたか? なんと……主の気分に合う紅茶を見極められぬなどメイド失格でございます、どうぞ何か罰をお与えくださいませ、どうぞ」

「罰というか褒美になりそうな気しかしないので何もしないよ」

 メイド長が唇を引き結んで、残念さに耐えているのを見て、小さな主は軽いめまいを覚える。しかし裏腹に、嫌な汗はひいていった。

「確かに、わたくしめ、坊ちゃんには一時も早く、父君の跡を継ぐにふさわしい方になっていただきたいとは思っておりますが、食事は1日の節目、節目の楽しみであり、活力を養っていただくためのもの。坊ちゃんのご養成に利用しようなどとは思いませんよ」

 今一つ信用ができないので胡乱気な目で小さな主はメイド長を見るが、そういう目で見れば見るほど笑顔の濃ゆさが増していく感じがしたので、わかったよ、と肩をすくめる。

「先に食卓についているとしよう」

「ああ、一つ。もうお気づきかと思いますが、屋敷の明かりは少な目に、薄暗い方がリラックス効果があるといいますから、特に廊下は明るさを落としてございます。もしお手元が暗ければこちらのランプをお持ちください」

「――わかった」

 メイド長が差し出したオイルランプを受け取ると、食卓へと向かう。

 明かりの乏しい屋敷を見て周りがどう思うだろうか、ということを考えてしまう。

 まだ領地はあるので、税の収入や献上されるものが無くならない限りは安泰だが――領地の民が不安や不満を抱えれば、簡単にこちらへそういったものを納めなくなる。

 そして叔父や姉の統率が望まれるということもあるだろう。

 食に困ることもないが、有事の際に少しは持ち出せる分を蓄えるぐらいのことはせねばならない。既にあった分は自分が感情に押しつぶされている間に持ち出されている。しっかりしなければ――後を継ぐためにも。

 不安で体の動きが鈍くなるように感じながらも、なんでもないように小さな主は食卓の椅子を引き、座った。座ると、ちょうど手の伸ばしやすい位置に、一杯のブドウジュースが置かれている。

「本当にある……」

 メイド長の語る『理想的な』イメージでの話と思っていたが、どうやら本当にジュースは用意してくれていたらしい。

 自分の父親でさえ、何度かは民と揉めていたが、確かに父親は毎晩、どんな時でも上機嫌にワインを嗜んでいたのを思い出す。

 一口、ブドウジュースを飲んだ。酒の味は知らないが、大人にとっても甘くてうまいものだろうか。

 父親の笑っていた顔を真似てみる。自分の中に父親の名残があるかもしれない、と少し納得する気持ちになった。――そうならば、大丈夫かもしれない。あのメイド長の言う通りのことで納得するのはいささか腑に落ちないながらも。

 なんとかできるだろう、と小さな主は気を持ち直す。

 ゆっくりとジュースの1杯を飲み干すと、メイド長が料理を運んできた。

「給仕しながら順に料理をお出しする、とまではいきませんが、デザートは後程持って参ります」

 魚料理の乗った大皿やスープ、野菜のキッシュの入ったココット皿、パンが並べられていく。

 確かに料理の内容やセッティングには怪しいところは無く、腹も空いているのですぐにでも食べ始めたいところだが。

「ん? これ、」

「やはり坊ちゃん、おわかりになられましたか。そう、ちょっと料理の出来が違うのです、さすが坊ちゃんでございますね。ですがご安心くださいませ、今までおりました料理人ほどの味は保証できませんが、レシピなら全て覚えておりますので、そう遜色のないものになったのではないかと自負しております、わりとレシピ通りに作れたはずですので」

「ん? うん、そうなのか、それはよくがんばってくれたな、というか、そんなこと気づいてない、じゃなくて。メイド長。お前の分が無いではないか」

 大皿から取り分けて食べる料理は無い。どう考えてもテーブルには自分の分の料理しかそろっていなかった。

「? ちゃんとありますのでご心配には及びませんよ?」

「いや、でも、私の分しかないように見えるが」

「……坊ちゃん? あの、わたくしめの分は厨房のメイドのための食堂部屋にございますので」

「え?! 屋敷にもう私とお前の二人しかいないんだぞ? 私にポツンとひとりで食べろと」

 言ってから、まるでこれでは自分がひとりで食べるのをさびしがってるようにしか見えないじゃないか、と顔が赤くなってくる。

「違うんだ、ひとりで食べることに特別何か感想を持つわけではないのだが、違和感を覚えるのだ。今までは食事の時だけは必ず父さまと母さまと一緒に食べていたからな、それでそう思ってしまっただけで、そうか、私は何を言っているのだ、そうだった、メイドと共に食卓を囲むはずがない、確かに」

 さっき後を継ぐためには自分がしっかりしなければ、と意気込んでいたくせに、こんなことでは――と小さな主は動揺を隠せない。

 メイド長をチラッと見ると、特に表情が無さそうに見えるが、それは下唇を噛んで耐えているだけだと気づくと、目をそらして羞恥心からパンの皿を見つめるしかできなかった。

「そう、ですね。おっしゃる通りで。メイドが食卓を囲むなどありえないことですが――」

 メイド長が下唇を時々噛んで真顔を保ちながら言った。

「今、このような状況であれば、信頼できる使用人かどうかは、主が見極めねばなりません。わたくしめもメイド長などと引き続き名乗っておりますが、もう管理するメイドはひとりもおりませんし。それどころか、使用人はわたくしめ一人ですから、坊ちゃんはわたくしめが裏切りや悪事を働かない人物かどうか、見極めねばなりません」

 裏切りや悪事、と聞いて、何を言い出すのか、と小さな主がぎょっとした顔をするのを見て、メイド長は穏やかに笑う。

「ですから、坊ちゃんがわたくしめがどういう人間か見極めるために、信用に足るその日までは、食事を共にせよとご命令されるのであらば――わたくしめ、謹んで共に食事を取らせていただきますし、そうであれば何か日々、心の慰めになる話のひとつやふたつもお話しましょう」

「……メイド長」

 小さな主はしばらく言葉を探していたが、椅子の上で座り直すと、背筋を正してメイド長に告げる。

「お前の言うことにも一理ある。食事はしばらく私と取るようにしろ」

「光栄に思うが良い、という言葉と高笑いを足せば完璧でしたね」

「そんなにしょっちゅう笑ってないといけないのか……、いや、いいから早く食事を取ってこい」

 かしこまりました、とメイド長は頭を下げると、部屋を出ていき、扉を閉め、閉めたと思ったら開けた。

「取ってまいりました」

「今、まったく部屋の出入りの間が空かなかったように思うのだが」

「主人をメイドの都合で待たせるメイドがどこにいますか?」

「……お腹が空いたので、とにかく、食べようか」

 焦げ付いたり形の崩れた料理が乗ったメイド長の皿が、小さな主の皿のはす向かいに置かれ、二人は食卓を囲む。

 簡単な食前の感謝と祈りの言葉が二人分、部屋に響くと、あとは思い思いにフォークやスプーンを動かす微かな音が続いた。

 食事が終わり、デザートを持ってきたメイド長だったが、何かためらうような素振りをした後、神妙な面持ちで言う。

「坊ちゃん」

「なんだ。……先に言っておくが料理に不満は無い、おいしかったぞ」

「それは恐縮です。……ではなくてですね」

 目を伏せて言いよどむメイド長。

「わたくしめ……坊ちゃんと一緒にお食事をいただくのは遠慮させていただかなくては」

「なぜ? 私の命令ならば従うと言ったではないか」

「ですけれども……ですけれども!」

 肩が揺れるほどの浅い呼吸で、メイド長は苦しげに言った。

「こうも至近距離に金髪赤目がありますと……わたくしめ、なんだか胸がいっぱいになるわ眩しくてスプーンの種類を間違えそうになるわ、食事どころではなくなってしまい……!」

「先ほどナイフで魚を食べているように見えたのはやはり錯覚では無かったんだな、お前の口の中、大丈夫なのか? スプーンを間違えるどころでは無かったぞ」

「命令には背けませんから同じ卓に付くのはお約束いたしますから……」

 呆れている小さな主人の前に、ガラスの器に盛られた果実の蜜漬けを置くと、メイド長は最もテーブルの中で距離の離れている場所の椅子へ座った。

「そう! このぐらいならまぶしくありません! この距離にて失礼いたします」

『まぶしさ』が落ち着いたからか、食事中より活発に嬉しそうな顔をして小さな主の方を見てくる。

 メイド長を観察するどころか、これでは自分が観察されてるだけではないか、とか、人となりを知ろうどころか余計にわからなくなったではないか、とか、色々口から言葉がついて出そうだったが、それよりは蜜漬けを口にした方が健全な気がしたので、小さな主は特に何も言わずにデザートフォークを手にしたのだった。

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